ギャフンと言わせる完璧な回答
「わっ、かかった! 嬉しい!」
こちらから通話を取ったとたん、ヘッドホンの両側から響いた黄色い声音に頭がまるまる覆われた。想定外な声音に浮き上がった動揺を、平然を装った声でなんとかかき消す。
「えーっと、もしもし?」
「あ、すみません。はじめましてこんばんは」
「あ、ども。はじめまして」
「あのー私、いままで凸ってしたことなくて、声の大きさとか大丈夫ですかね」
「んー、特に問題ないと思うよ。みんなもちゃんと聞こえてるよね? なんかあったらコメントで教えて」
僕が聞いている声と配信を通して聞こえる声には音の大きさなど多少違いがある。なので配信ではどんなふうに音が聞こえているのかをリスナーに問いかけた。
しかし、当のコメント欄はまったく当てにならない状態になっていた。
【え、女子!?】
【初手女リスナーまじか!】
【ほんとに女リスナーいたんだな。おまえの妄想かと思ってたよ】
【うおおおおおおおおおおお】
コメントに連なる文章のどれもが、突然聞こえてきた女性の声に関するものだった。それもそのはず、このチャンネルは登録者のほとんどが男性だからだ。女性は数名しか確認されておらず、言わば幻の存在に近い。したがって、なんの華もない男子校みたいなコメント欄は、女性リスナーの登場で普段見ない盛り上がりを見せていた。
沸騰した水のようにグツグツとコメントが下から湧き上がっている。コメント欄を縁取る枠組みが、その勢いに押されいまにもはち切れそうだ。うるさいくらいに熱を帯びた活字たちに、檻に閉じ込められた猛獣の面影を見る。
しかし、驚いたのは僕も同じだった。男性リスナーが凸に来るのだと思っていたものだから、無意識に身構えてしまう。画面を注視していると、ようやくポツポツとコメント欄に反応が返ってきた。
【声の大きさバッチリですよ】
【ちゃんと聞こえてまーす】
「ってリスナーも言ってるんで大丈夫だと思いますよ。あとは、えー、」
【てかディーテの声が大きい】
【なんかさっきからすっごいノイズが聞こえてるんだけど。男の声みたいな】
【リスナーの声聞きたいから、おまえは黙ってていいぞ】
「……はあ? おまえらそういうこと言うなら、いますぐ配信切ってこのまま裏で二人っきりで通話続けたっていいんだからな? それでもいいのか?」
辛辣なコメントに対し、ここぞとばかりに配信者の権限をちらつかせる。その途端、
【ふざけんな!】
【それだけはまじでやめろ】
とコメント欄が急にあたふたと騒がしくなった。声が聞こえてきそうなほどの必死さに思わず笑ってしまう。
決してお互い本気で言い合っているわけではない。楽しさだけを詰め込んだプロレスのような、なんの重みもないくだらないやり取りが好きだった。
一応言われたとおりに自分の声の大きさを少し下げていると、耳のすぐ近くで彼女の笑い声が聞こえてきた。鈴の音を鳴らしたような小さな笑い声が鼓膜にそっと触れる。リスナーにかまっていたせいで通話中だったことが頭から抜け落ちていた。
「あっ、ごめんなさい。置いてけぼりにしちゃって。コメントやかましいけど気にしないでくださいね」
「いえいえ、ディーテさんの配信だなーって感じで楽しいです」
「そう言ってもらえるとすごく助かります。じゃあ、まず名前を聞いてもいいですか?」
「えーっと、『心は十代』と申します」
「心は十代ってことは実年齢はー……、やっぱりなんでもないです。今日はどういった内容で」
「はい。ディーテさんに相談があって凸しました」
相談。その二文字に頭のなかのあさがおがケラケラと涙を浮かべて笑い出した。「お兄ちゃんに相談ってウケる」。
頭を振り、思考のなかから無理やり追い払う。リビングでのあさがおのあの顔が呼び起こされ、喉の奥から屈辱が込み上げてきた。
きっとあさがおもこの配信を見ているのだろう。ならばやるべきことは一つ。目の前の凸者の相談を完璧な回答で解決に導く。そして、あさがおを見返す。兄が頼りになるということをここで見せつけてやらなねばならない。
決意が定まるとやる気が身体にふつふつと満ちていくのを感じた。自ずと画面に向かって前のめりになる。肺の奥から込み上げた声は普段の数倍増しに力が入っていた。
「相談ですね。もうなんでも聞いてください。今日はかなり気合いが入ってるんで」
ありがとうございます。そう言った彼女の声音に、意識が違和感を拾った。なぜだか記憶の片隅がチクリとうずき、なんだろうと首を傾げる。
しかしいまは目の前の相談にしか興味がなかった。違和感はすぐに端に追いやられ、記憶の渦に紛れていく。
「あのー私、いま働いてるんですけど、一緒に仕事をするはずの同僚がまともに仕事をしてくれなくて困ってるんですよ」
「あー、それは困りますね」
「もともと私が頼み事を受けやすい体質ということもあるんですけど、それにしてもですよ。その同僚は明らかに最初から私に仕事を全部押し付けていて、まったくやる気が無いんですよ」
「ええ……クズですね」
「はい。まさにそうなんです」
小学生くらいまでは大人という存在はどこか特別で、みんながみんなしっかりした人間であると信じて疑わなかった。しかし、配信を始めてからは考えが変わった。社会人と思われるリスナーからコメントに吐露される愚痴や悩み。そんな苦労話を目にする機会が増え、いつからか自分の考えが幻想だということに気がついた。
大人も子供も結局は同じ延長線上にいる一人の人間に過ぎないのだ。自分が社会に出たときそんな人と出くわしたらたまらないな、とまだ先のことを背伸びして考えてみる。
「それでこの同僚はいったいどうしたら真面目に仕事をしてくれるようになるのかなって」
「で、その解決策を考えてほしいと」
「そういうことです」
憔悴した様子で彼女は言った。口から出たとたん垂直に落ちていきそうなほどか細い声が、その同僚の手強さを物語っていた。
ぐるぐると渦を巻く思考が、唇と眉間を苦々しく歪ませる。うーん、とうなり声を上げると、鼻腔が悩ましげな振動を感じ取った。
話をひととおり聞いたリスナーたちが思い思いにコメントを打っている。同僚に対しての厳しい言葉や、心は十代さんへの同情の言葉がコメント欄のなかでひしめきあっていた。そこから一度視線を外し、頭を抱える。
いったいどうしたら解決に繋がるのだろうか。彼女が悩んでいるのが沈んだ声色から伝わってくるからこそ、どうにか力になってあげたかった。そして、同時にあさがおをギャフンと言わせたい。二つの想いが頭の回転を加速させていく。
モチベを上げるために小さなことでも褒めていく。あなたの力が頼りだ、と期待している素振りを見せる。上の人間や人事に報告してなんとかしてもらう。散らばる思考のなかからなんとか案を拾い上げるも、そのどれもが脳内のあさがおに「なにそれ」と一蹴されてしまう。クスクスと嘲笑う顔が、なんとも憎たらしい。
しかし、自分自身でもそれらの案にピンときていないのも事実だった。
その同僚は心は十代さんに甘えているんだ。彼女が一人でなんでもできるからって。だとしたら褒めたり期待したとしても、喜ばせるだけで意味はないだろう。適切な人間に報告すれば、その同僚になんらかのペナルティを与えることができるかもしれない。でもそれは、仕事をさせたいという相談の答えにはならないような気がする。
自分がその同僚の立場だったらどうするのだろう。なにが起きたら、どんな言葉を言われたら心が動くのだろうか。
考えを深掘りするように、手のひらの付け根を瞼に押し当てる。
真っ暗になった視界で、ふとまだ新しい一つの記憶が呼び起こされた。
――それ以上言ったら配信のことお母さんに言っちゃうから!
すごみのある声音とともに頭を過ぎったのは、凸待ちをするとあさがおに話したときの記憶だった。
「……脅してみるとかどうですか?」




