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最強の禁止カード

「それ以上言ったら配信のことお母さんに言っちゃうから!」


 その瞬間、穏やかに動いていた心臓がバクンと大きく飛び跳ねた。つま先から頭にかけて全身の毛が逆立つ。喉の奥からひゅっと、悲鳴に似た音が鳴った。

 たったいま、二人のあいだにあった暗黙のルールが破られようとしている。ギラギラと熱を帯びたあさがおの瞳の圧に、気持ちが負けそうになる。

 しかしここで退いてしまってはいけない。言いなりにならないためにも、こちらも負けじと封印していた禁止カードを持ち出した。


「そっちがその気なら、あさがおがあの日おしゃれして誰に会いに言ったか言うけど」


「あっ、それはダメっ!」


「うわっ!」


 手を伸ばしたときにはもう手遅れだった。あさがおが投げたクッションが、僕の顔面にぶつかった。


「ぶへっ」


 ジャラリと音を立てて、太ももの上に落ちる。

 視界がひらけると、その中央で頬を赤く染めたあさがおが肩を揺らしていた。感情をむき出しにした面持ちに、身の危険を覚える。


「なにじゃれ合ってるの。ごはんにするよ」


「――はーい」


 母の登場が差し水のように、兄妹の熱を一気に冷やした。ピタリと静まり返った空間に、喧騒の余韻がほのかに漂う。

 あんな脅しをしておきながら、配信のことを親に知られたくないのはあさがおも同じなのだろう。深呼吸の音が一つに重なっている。その響きは荒々しく、二人が満身創痍であることを示していた。

 配信の話題はお互いにとって最強の武器であると同時に、最大の弱点でもあった。


「どっちか、棚から小皿持ってきて」


 母の視線が二人のあいだに向けられる。両手に持った大皿からはできたて示す大きな湯気が揺らいでいた。


「だってさ、あさがお」


 投げつけられたクッションの縦横に伸ばしながら目配せする。押し付けられたあさがおはキョトンと目を見開いたかと思うと、一呼吸置いてその双眸を弧にゆがめた。

 そのしたり顔になぜだか嫌な予感が脳裏を過ぎった


「しょうがないなー。妹の私が、年上のお兄ちゃんのために、仕方なくお皿を持ってきてあげるよ」


 彼女の唇が一文字ずつ見せつけるように言葉を紡いだ。小さな身体から、大仰おおぎょうなため息が吐き出される。わざとらしく肩をすくめると、あさがおはやれやれといった態度でソファーから腰を上げた。


 いやいや。なにその大人な対応。


 想定外すぎる彼女の行動にきょを突かれ、目がパチリと瞬きをする。ハッとして母のほうへと顔を向ける。僕を見る呆れた笑みを視界が捉え、見なければよかったとすぐさま顔を戻した。


 まずい。

 この流れで持ってこさせたら、まるで自分が妹をパシリに使うほどどうしようもない兄だと自ら証明してしまうようなものだ。妹から五万円を巻き上げたと誤解されたばかりということもあり、その事態はどうしても避けたい。

 だいたい、もっとこう、押し付け合うものじゃないのか? 平然を装っていままさに食器棚に向かおうとするあさがおに対して思う。

 しかし考えれば考えるほど自分の幼稚さが露呈されていくばかりだった。込み上げてくる恥ずかしさに、喉奥がうずく。身体が思考を追い越して、脳の決断を待つことなく腰を上げた。


「やっぱいいや。俺が持ってくる」


 反論を言わせないほどの速さであさがおの横を通り過ぎ、振り返ることなく食器棚へと向かった。


 人数分の小皿を手に取りながら、危ないところだったと脳内で独りごちる。

 それにしても普段ならあさがおのほうから僕に押し付けてくるのだが、今日はいったいどうしたのだろうか。

 不思議に思いながら食卓へと向かうと、先にイスに座って待っていたあさがおと視線がかち合った。

 その刹那、自分の状況を理解した。


 ああ、やられた。


 僕を見つめる目元が、とろけるように垂れ下がっている。その瞳の奥には、ふわふわと満足げな光が浮かんでいた。あさがおの鼻から、ふふんと吐息が漏れる。白い歯を見せて微笑む彼女は、憎たらしいほどに嬉しさがあふれ出ていた。

 全身からガクリと力が抜けていく。僕は彼女の挑発にまんまと乗せられてしまったようだった。自ずと鼻の上に皺が集まってくる。


「はい、どーぞ」


「ありがとっ。お兄ちゃん!」


 私怨しえんを含んだ声で皿を渡すも、彼女の軽快な声にあっけなく弾き飛ばされた。光の粒子を散りばめたような声音が食卓の上に広がっていく。その響きには明らかにからかいの色が含まれていた。唇を尖らせながら自分の席に座る。


 待ちに待った夕ごはんだと言うのに、僕のお腹のなかはすでに圧倒的敗北感で満たされていた。ただ、勝ち誇ったようにごはんを頬張るあさがおはなんとも幸せそうだった。その笑顔にまんまと当てられ、悔しさがだんだんどうでもよくなっていくのがわかる。

 まあ、乗せられるくらいいいか。そんな満更でもない気持ちが顔をのぞかせていたが、彼女にはバレないようにごはんと一緒に飲み込んだ。


 ◇


 凸待ちを決めてからの時間はとても早かった。面倒くさかった一週間もあっという間に過ぎ去り、気づいたら凸待ちを予定していた金曜日の夜を迎えていた。

 夕食にお風呂。個人的なことはすでに済ませているため、あとは二十一時になるのを待つだけとなった。


 イスに座って呼吸を整える。妙に心臓が浮ついていて落ち着かない。血流がソワソワと身体を急かしている。マイクの位置や通話アプリの設定の見直しをしてみるも特に異常は見られなかった。というのもいまのが三回目の確認だったからだ。

 小さく吐き出した息が微かに揺れている。気を晴らすために背中を大きく仰け反ると、喉の奥からグググッと音が鳴った。


 何回かやったことがある凸待ちだったが、今回は久しぶりということもあり案の定緊張しないということはなかった。ただ、直接リスナーと話せることを楽しみにしている自分もいた。

 どんな人が来るのかな。どんな話をするんだろう。緊張と期待。二つの感情が、僕の内側で拮抗している。


 静寂に包まれた室内。チカチカと光を飛ばす四角い画面のなかのコメントが、時間が近づくにつれて声を上げ始める。画面端のデジタル時計に0が二つ連なった。


 速まっていく鼓動がほんのりと体温を上げていくのを感じる。手元のマグカップを手に取る。水と一緒に気合いを身体の奥に流し込むと、配信開始のボタンをクリックした。

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