凸待ちの真実
今日も一日がんばったと、夕焼けが満足そうに影を伸ばす帰り道。各家庭から漂う美味しそうな匂いが、まだ成長期は終わっていないと信じている僕の空っぽのお腹をくすぐった。
「ただいまー」
リビングのドアを開けると漂っていた匂いの一つが一層濃くなった。奥のキッチンからは耳心地の良い包丁の音が聞こえてくる。「おかえりー」と言う母の手元では、ザクザクとキャベツが細かく切られていた。
アップテンポなメロディーが、視界の外から流れてくる。頭をそちらに向けると、夕方時のワイドショーを映したテレビが壁際で光っていた。華やかなスタジオセットに、横に並んだコメンテーターの笑い声。誰かが見ているわけではなさそうだが、どうやらBGMとしてついているようだった。
背の低いテーブルを挟み、テレビの正面には二人がけの白いソファーが設置されている。その上では中学校の制服を着たまま、あさがおがだらりと寝転がっていた。クッションを枕にして、真上に掲げたスマホをじっと見つめている。その目線は画面にくっついているようだ。
こちらを見る素振りもなく、「おー」と彼女は単調な音を口から出した。おそらく「おかえり」という意味だ。
自宅に入った途端、それまでなんとも思っていなかった制服が急に煩わしく感じるようになるのはなぜだろう。ボタンを外し、テーブル脇の一人がけのソファーの背に学ランを投げかける。
そのままソファーに腰を下ろすと、あさがおが頭だけを僕に向けた。スマホから外したその目元には、ずいぶんと険しい皺が寄っていた。
「ねえ。なんでわざわざここで脱ぐの。荷物置いてくるのと一緒に部屋で脱いでから来ればいいじゃん」
「ああ、あとでちゃんと持っていくよ」
「この前もそう言いながら結局次の日まで置きっぱなしだったこともあったし」
「ごめんごめん」
適当にあしらいながらも背もたれから学ランを取った。どうせ忘れそうだからと、確実に持っていけるようにもう一回袖に腕を通す。
ボタンを全部外して羽織ると、それだけでイケてる人間になった気がしてくる。昔のヤンキーみたいだ。家の外では絶対にこんな格好はできないけれど。
夕食までのなにをしようにも中途半端な空き時間。特にすることもないため、独り寂しくついていたテレビに目を向ける。
画面のなかでは、アナウンサーと思しき女性が地方の小さな商店街を歩いていた。突撃リポートと称して、様々な店の店主にインタビューを行っているようだ。商店街の雰囲気や人柄。店の特徴におすすめ商品。マイクを向けられた店主が活気よく答えている。
「凸待ちでもしようかな。久しぶりに」
ふいにこぼれた言葉は脳を経由せず反射的に出たものだった。
「え、どうしたの急に」
兄の唐突な提案に、あさがおはゆっくりと身体を起こす。青色のカバーを纏ったスマホをテーブルに置き、訝しむような表情でこちらを見た。
凸待ちとは、昔からあるネット文化の一つだ。
凸とは突撃の略で、その名の通り配信者がリスナーからの突撃を待つことである。突撃と言っても、単語から連想されるような物騒なものではない。ただ単に相手に通話を申し込むことを、突撃と言っているのだ。
普段はコメントでしかできないリスナーとのやり取りも、凸待ちならば相手の声を直接聞くことができる。初期の頃ほどいまはやらなくなったが、リスナーの存在を実感できるため僕は凸待ちが結構好きだった。
凸待ちの内容は配信者によって様々だ。雑談やトークテーマが設けられているものもあれば、ネタ見せや歌の披露など幅広い。噂によると、特に理由もなく配信者とリスナーが口論するというけんか凸待ちなるものもあるらしい。
「最近全然やってなかったなーと思ってさ」
「そんなこと私に聞かれても。まあ、別にいいんじゃない?」
いつからソファーに寝転んでいたのだろう。あさがおが眠たそうに目をこする。
「仮に凸待ちやったとしたら、あさがお来る?」
その質問にあさがおは唇を横一線に結んだ。うーんと悩ましげな声を上げ、その眉がへにゃりと曲がる。彼女に抱きかかえられたビーズのクッションが、指のなかでひしゃげた皺をつくっていた。
「家で話せるのにわざわざ凸する意味なくない?」
「確かに」
まったくもってそのとおりだった。思わず感心してしまう。
しかし、ようやく仲直りできたのだ。もしかしたら凸してきてくれるかもと、正直期待していた。彼女の正論に淡い期待は音もなく挫け、口内に寂しさが込み上がる。
しゅんとした気持ちを悟られまいと口を閉じていると、そんなことを知る由もない彼女は平然と話を続けた。
「凸待ちやるにしても、テーマとかなににするの?」
言われてみれば毎回一応テーマを決めていたことを思い出した。ディーテに物申したいこと。自分の好きなもののプレゼン。最近あった不幸な出来事。結局ただのお題フリーの雑談になってしまうあってないようなテーマ設定だったけれど。
「いま決めたばかりだからなにも考えてないや。どうしよっかな。リスナーの話したいこととか相談とかでいいかな」
「ふーん。相談ねえ……」
紡がれた言葉は、妙に意味深な響きをはらんでいた。頭を傾げ、そのまんまるな黒目が宙を泳いでいる。
どうしたのだろう。急に黙り込んだ彼女をのぞきこむと、薄い唇がフッと緩んだのが見えた。
「なんだよ」
「いや、お兄ちゃんの凸待ちって結構真剣な相談が来ることあったじゃん」
「まあそうね」
「それに答えていたのがお兄ちゃんだったって知っちゃうと、明らかに人選間違ってたでしょって、おかしくなっちゃって」
そう言ってあさがおはコロコロと喉を鳴らした。遠慮のない笑い声が、僕の耳のなかをキンキンと突き刺してくる。
「うっわ、すんごい失礼だこと。というかそんなこと言ってますけどあさがおさん? あなただって俺に凸して――」
「ああー! 言っちゃダメ! 黒歴史なんだから!」
「黒歴史ゆうな」
「それ以上言ったら配信のことお母さんに言っちゃうから!」




