ご機嫌な後日
始業前の朝の教室はまだ人がまばらだった。休日を惜しむような、これからの一週間に打ちのめされているような、そんな締まりのない空気がどことなく漂っている。傍らを見やると、机の上に友人がスライムのように溶けていた。
「よっ、おはよ」
声を弾ませると、めずらしいものを見るかのように虚ろな目を向けられた。
「朝から元気だな」
「まあね」
普段なら僕も同じように憂鬱になっていた月曜日。今日に限っては、気持ちが晴れ晴れとしていた。思考が冴え、身体が軽い。
自分の席に座ると、僕はとっさに口元を手で覆った。充実した休日の出来事を思い出し、口角が勝手に上がりそうになったからだ。
【ゴッドアフロ:よお、来たよー。泣いて喜べ】
昨日、あさがおは数週間ぶりにゴッドアフロとして配信に帰ってきた。
ブランクを微塵も感じさせない軽い調子のコメントは、僕の配信のノリを完全に理解したものだった。
あさがおはディーテのリスナーとして、長い年月この場所で過ごしてきたんだ。
その紛れもない事実が一つのコメントで伝わり、嬉しさを感じずにはいられなかった。
膨れ上がった感情が身体の内側で弾け、あはっ、と意図しない笑いがマイクに向かって吐き出された。唐突に笑い出した僕に、コメント欄は不気味がっていた。その反応すらも、楽しい思い出を形成する一要素として大切に脳内に保管されている。
「おはよう。彩風くん」
頭上から降ってきた声に昨日の映像が遮られた。鬱々とした教室とは対照的な透き通った声が、耳を通り抜けていく。
急いで手のひらの内側で唇をグニャグニャと動かす。口端から喜びの色をかき消すと、平静を装って顔を上げた。
目の前には委員長こと、西宮紗宵が立っていた。
「あっ、おはよう。委員長」
彼女の様子は月曜日の憂鬱を一切感じさせないすっきりとしたものだった。
化粧っ気がなく素朴な顔つきは、どこか大人になる直前の儚さを思わせる。楕円を描くメガネは彼女の知的さを助長し、そこからのぞく柔和な瞳からは心根の良さが表れていた。
きっちりとくくられたおさげに、心地よく響く澄んだ声。彼女を形成するすべての要素が、週始めであろうが崩れる気配がまったくない。そこに委員長と呼ばれる所以を感じた。
きっと委員長は、学校に来ることに苦を感じたことはないんだろう。そんな彼女の余裕がなんだか羨ましく思えた。
「先週の金曜日、委員会の仕事があったから彩風くんに声をかけたのにまんまと逃げられちゃった」
「へ、へえー。そうだったんだね」
この学校でいちばん不人気な委員会である文化祭実行委員会。委員長が立候補したおかげで、一枠減ったことにみんな喜んでいた。
だが、残る一枠を決めるために行われたじゃんけん大会。そこで見事ワースト一位を獲得した不運な人間は、なんと僕だった。
「期待してるぜ!」
「がんばれよな!」
そう盛大に拍手をしてきた友人たちの顔が、もれなく安堵に満ちていたことを思い出す。
委員長の瞳が、僕を逃すまいとまっすぐ突き刺してくる。栗色の眼光には、もう同じ過ちは犯さないという強い意志があった。
「でもプリント配られただけだったからよかったよ。また今度集まりあるみたいだからそのときはちゃんと来てね」
「えー」
「えー、じゃなくてね? はい、これ」
委員長が持っていたプリントが僕の机の上に差し出される。そこには委員会の今後の予定が記されてあった。
「えっ、学園祭って二学期の中盤だよね。それなのになんで今からこんなに仕事があるの?」
プリントの内容に思わず苦言を呈す。なにかの見間違いではないかと、プリントの隅々まで目を凝らした。
しかし、冗談でないことが証明されていくだけで、眉間の皺はさらに深くなるだけだった。
「ちなみに言っとくけど、見ての通り夏休みにも何回か集まりあるからね」
「ええ……」
あさがおが帰ってきたことでようやく曇りが晴れた僕の配信。もはや僕を阻むものなどなにもなく、夏休みは好きなだけ配信に勤しむことができるぞ。そう思っていたのに、その目論見はたったいま目の前で砕かれた。高校二年生の大切な夏休みの欠片が、指のすき間からするすると逃げていく。
あのときパーじゃなくてグーを出していれば、大切なものを手放すことはなかったのかもしれない。
プリントとにらめっこしていると、ふと前方からか細いため息が聞こえてきた。
「……せっかくの夏休みなのに」




