つき纏う恐怖
誰かの視線を感じる……
ふとした瞬間にゾワゾワっと悪寒が背中をなぞるから、そのたびに肩がキュッと縮まる。
イスを回転させ、恐る恐る後ろを振り向く。しかし、そこには当然誰もいない。少しだけ散らかった、普段と変わらない僕の部屋の光景が広がっているだけ。
床の上には今日履いていた黒くて細いあのズボンが、ねじれたまま脱ぎ捨てられている。
「はぁーあ!」
半ばやけくそに背もたれに倒れこみ、思考を放り投げるように天を仰いだ。情けなさと腹立たしさが入り混じった僕の声が、空っぽの部屋で無情に響く。上を向いたままポカンとしている口からは、そのまま魂が抜けていきそうだった。
時刻は零時を回り、僕を置き去りにして周囲は一足先に闇と静寂の世界へと塗り替えられていた。僕もいち早くそちら側の世界に行って明日に向かいたかったのだが、そう簡単にはいかない理由があった。
つま先で地面を押し、イスを机のほうに回転させる。机の上にはさっきまで見ていた今日の映画のパンフレットが置いてあった。リュックのなかで丸まった部分が、卓上のライトに照らされ白く反射している。
草花が茂る風景のなかで、外国人の女性が綺麗なブロンドヘアーを風になびかせている表紙。忌々しいものを見るかのごとく目でなぞると、その女性の海の底のような青い瞳と目が合った。
***
「なんなのあれっ!」
映画館を出るやいなや、あさがおは声を張り上げて怒り出した。
「いやほんと! まんまとやられたわ」
そして、僕も怒っていた。
「あいつら、あの映画面白いから早く見ろ見ろ言ってたけど、こういうことだったのか」
「絶対そうだよ! お兄ちゃんリスナーさんたちにいっつもからかわれてるもん。――ていうかなんで私まで被害受けてるの! とばっちりじゃん!」
人の流れが落ち着き、日中の騒がしさが過ぎ去った夕暮れ時。怒りに荒ぶる兄妹から伸びる細長い影が、舗装された道の上で暴れていた。
ズンズンと地面を踏みつけているあさがおの足取りは、ヒビが入りそうなほど感情が籠もっている。
彼女は身震いするように、自身の両腕を鷲掴みにした。握られたパーカーの上に、いびつな形をした皺がいくつも浮かび上がる。
「まんまと騙されたんだけど。あれじゃ完全に……」
「ホラー映画、だったね……」
リスナーや広告がやたらと推してきた話題の映画。その正体は人間の狂気を描いた、精神的に追い込んでくる類の映画だった。
幽霊やおばけが出なくとも、あの衝撃はホラー映画と言っても遜色ないだろう。揃いも揃って怖いものが苦手な僕ら兄妹は、見事に打ちのめされた。キリキリと気味の悪い恐怖に、映画館からずっと跡をつけられているような気がする。
「あの主役の女優さんなんであんなに熱演してんの。勘弁してよ」
あさがおの理不尽極まりない八つ当たりが、オレンジににじむ空気に鋭くつき刺ささった。
最寄り駅についた頃には、僕らの怒りはおとなしくなっていた。時間とともに涼しくなっていく夜風が、二人の頭を冷やしていく。
冷静になったことで今度は、怒りの影に隠れていた現実を直視するはめになった。
今日から数日間、僕はこの恐怖に怯えながら日常を過ごすことになるのだろう。
背後に視線を感じる夜更け。電気を消してから眠りにつくまでの布団のなか。音がやたらと響くお風呂。こういうときのシャワーが僕は本当に苦手だ。目を開けたら、正面の鏡にこの世のものではないなにかが映り込んでいた! なんてことがあったら、そのときは僕も幽霊になってしてしまうかもしれない。
当然そんなことが起こるわけがないのは理解している。だけど、勝手に想像してしまうのだからもうどうしようもない。
こうなってしまったら最後、対処する方法は二つしかない。
記憶の自然消滅を待つか、もしくは常に誰かと一緒にいるか。
小さい頃なら後者を選択できた。だが、いまは高校二年生の男子。必然的に前者の持久戦を選ぶほかない。
「はぁ、もっと楽しそうなやつにすればよかった……」
別の選択をした世界線の自分に思いを馳せるように、あさがおはどこか遠くを見つめていた。丸く垂れた背中からは、後悔がにじむ黒いオーラが漂っている。肩からぶら下がった両腕が、彼女の歩みに合わせて無気力に揺れていた。
「ほんとそうね。早く忘れたい……」
僕は顎をグッと上げ、視界を空で埋め尽くした。
これから始まるこのホラー映画の記憶との戦いを思い、夜に向かっていく空気をめいっぱいに吸い込んだ。
***
「よしっ」
勢い任せにイスから立ち上がると、映画のパンフレットを横の棚の上に放り投げた。思考を切り替えるように、大きく伸びをする。
実を言うとさっきからずっとトイレに行きたいのを我慢していた。しかし生理的現象には抗うことはできず、仕方なくトイレに向かう。
高二にもなって最悪な事態を起こすことだけは、さすがに避けたい。
ドアノブに手を伸ばす。
――ガチャ。
その瞬間、触れてもいないドアが勝手に開いた。
「うわぁっ!」
廊下につながるはずのドアの先には、不気味な白い塊が立っていた。突如目の前に現れたそれに、思わず女々しい悲鳴を上げる。
え、まさか本物? 本当に出るの?
恐怖のあまり直視することができなかった。パニックになった心臓が、警報を鳴らすみたいに大きな鼓動を打っている。緊張で変な方向にねじ曲がった胃から、キュルリと重苦しい音が聞こえた。
強張る足を無理やり引きずりながら、一歩ずつ退く。
すると、その白い塊も僕の動きに合わせてズンズンと部屋のなかに侵入してきた。
「え、うそ」
圧に押されるように下がっていると、ガツンと背後になにかがぶつかった。壁際の机だった。
これ以上下がることはできない。逃げ道は塞がり、もうダメかもしれないと悟った。
しかし僕の覚悟に反して、ソイツは僕を追うのをやめて回れ右をした。部屋の中央に向かい、そこで初めて白い塊の後ろ姿を視界に捉える。そのあまりにも滑稽な姿に、拍子抜けしてしまった。
少しの安堵とたくさんの呆れが混じった重たい息が、床の上に広がる。
「……ねえ。なにしてんの」




