初めてのずる休み
一粒の汗が右腕に沿って滴り落ちる。握りしめた受話器をそっと元の位置に戻すと、安堵からか小さなため息が溢れた。
「……っ!」
その時、背後から視線を感じて振り返る。しかし当然そこには誰もいない。あるのはお母さんが気に入っているアンティークのタンスと小さな椅子だけ。
僕はまるで忍者のような足取りで自分の部屋まで逃げる。何かに追われているわけではないがリビングの静寂が何故か不気味に感じられた。
普段は聞こえてこない掛け時計の秒針の音が今だけは鮮明に聞こえてくる。
僕は今日、初めて学校をサボった
いつも通りの朝。いつものようにお母さんの声で目が覚めて、いつも通り少し固めの黄身が乗った目玉焼きを食べる。
以前、一度だけ黄身は柔らかめの方が好きだと伝えたが、5人家族の内3人が固めが好きだからと言われて敢えなく却下されてしまった。3人兄弟の中でも一番下の僕に黄身の固さを決める権限などあるはずもないのだ。
「あっ………今見てたのに」
テレビが昨夜の野球特集からニュースに切り替わる。
「昨日リアルタイムで見てたでしょ?朝はニュースを見ましょう」
うちのお父さんはいつもお母さんの尻に敷かれている。なのでまったく権力はない。
お母さん>お姉ちゃん>お兄ちゃん>お父さん=僕
こんなところだろう。
「じゃあ、もう行くね」
一足早く食べ終わったお姉ちゃんは歯磨きを済ませ、リビングに用意された水筒をバックの脇ポケットに詰め込む
「あんたまだいたの?遅刻すんじゃないわよ!」
「はいはーい」
お母さんからの忠告を右から左に受け流し、お姉ちゃんは小走りで家を出た。
「あれ?水筒がひとつ残ってる……兄弟揃ってまったく……」
どうやら朝一番に家を出たお兄ちゃんは水筒を忘れたようだ。
「雄介、今日はこれ持っていきなさい」
「はーい」
お兄ちゃんが忘れていった水筒を手渡され、忘れないように先にランドセルにしまう。
「今年の7月は記録的猛暑になりそうです。今週にかけて30度の日が続きます。お出掛けの際は風通しの良い服装を心がけましょう。以上スタジオからお届けいたしました。」
「ひゃぁ~、こりゃ大変だな」
お父さんはシャツの襟にヨレヨレのネクタイを通しながらそんな声を漏らす。
「あんたも年なんだから熱中症には気を付けてね」
「あいよー」
化粧中のお母さんは顔を向けることなく会話を続ける。
「そういえば昨日洗面所の電気つけっぱで寝たでしょ!節電してよね!」
「………あいよー」
お父さんは小さくため息をこぼして家を出た。幸いお母さんには聞こえなかったようだ。
「雄介もそれ食べたら早く家出なさいよ」
「わかってる」
「じゃあ、母さんももう行くね」
「いってら」
「出るとき鍵閉めるんだよ」
「はいよ」
玄関の扉がしまると共に、部屋は急に静まり返る。電気代にうるさいお母さんのため、僕は早々にテレビを消して食べ終わった食器を食洗機につめた。僕以外の食器は全てお母さんが入れてくれていたようなので直ぐにスイッチをいれた。
歯磨きを済ませ、一部色の剥げたランドセルを背負う。昨晩の内に用意したため、忘れ物はないはずだが今一度頭の中で確かめてから靴を履く。玄関の扉に手をかけたその時、お母さんの言葉を思い出す。
「あ、鍵」
僕は靴を脱ぎ、机の上に置いたままだった家の鍵を取りに戻る。失くさないようにランドセルの内ポケットにしまい、再び靴を履き直す。
そして玄関の扉に手をかけて今度こそ家を出ようとしたその時だった。ドアノブを捻る手が急に止まる。自分の中の何かが外に出るのを拒んでいるようだった。今までこんなことは一度もなかったので、これが何なのか分からなかった。
しかしそこからは早かった。一度ドアノブから手を離すと流れるように靴を脱いでリビングに戻っていた。ランドセルを背負ったままソファに寝そべる。ふと時計を見ると時刻は7時45分。今家を出ればまだ間に合う。学校に行かなければいけない。頭では分かっている。しかし体は動かない。時間が経てば経つほど体は重くなる一方だ。
今日が何か特別な日という訳ではない。苦手な教科があったりテストがあったりするわけでもない。何の変哲もない1日。にもかかわらず何故か今日に限って学校に行きたくないのだ。
「ママ?」
…………………
お母さんがいるはずはない。お母さんが出て行った時、扉がしまる音も聞いた。それでも確認せずにはいられなかった。もしもお母さんが玄関の前で待っていたら、そんなありえないことを想像しながらも安心し切ることはできなかった。
僕はベランダに出て下を覗く。うちは団地の九階のため1階に降りるのにもそれなりの時間がかかる。
「…………いた」
直ぐに自転車に乗るお母さんの姿を見つける。僕はステップを踏んで部屋に戻った。
再び時計を見ると既にあれから五分経っていた。これではもう走っても間に合わない。それが分かった途端、ある感情が押し寄せる。
学校に行かなくていい
勉強しないで遊べる。
これから一日中ずっと自由
思うのはどれも楽しいことばかり。しかしそんな想像とは裏腹に気持ちは未だ晴れない。その原因は分かっている。第一の壁を乗り越えたが最後の壁は想像以上に高いようだ。
「おはようございます。実は朝から38.0度の熱がありまして………」
ちがうな
「おはようございます。岡本です。今朝、37.6度の熱がでまして、今日は欠席させていただきます。」
……うん、これだ。
担任の先生にかける休みの電話を念入りに復唱する。こうでもしないとボロがでてしまうかもしれない。
僕はお母さんのタンスの上に置かれた電話台から受話器を取る。電話台の側面に張られた学校の電話番号が書かれた付箋を確認しながら、番号を押し込む。
ブルルル、ブルルル
2回のコールの後、学校へと繋がる。
「こちら仲光小学校教員室です」
その声を聞いた瞬間、緊張が押し寄せる。まさか担任の杉本先生が出るとは思わなかったため、一瞬硬直してしまう。早く何か言わなければいけないと分かっていても先程の驚きで頭のなかは全て真っ白になってしまった。
「あ、っと、えーと…………」
言葉を紡ごうとするも、何を言えばいいか分からない。
「…………岡本くん?」
「あっ、はいそうです」
先生の方から話を進めてくれたため、僅かながら冷静さを取り戻すことができた。考えた言葉を必死に思い出す。
「おはようございます!岡本です。今朝から37.6度の熱が出たので今日は欠席します」
誰もいない部屋でお辞儀をしながら、覚えた台詞を完璧に言いきる。すでに心臓はバクバクだ。
「そうでしたか、それはお大事にね。……今は岡本くんだけかな?」
ここで再び思考がフリーズする。逆に質問されるなど想定していなかったため、台詞を考えているはずもない。次の言葉を探すが先生と電話が繋がっているというだけで考えがまとまらない。
「えっと……………お母さんが………仕事に行ってしまって、お父さんも仕事に行ってしまって………なので…今は僕しかいません」
緊張はしたが、本当のことなので何とか言いきることができた。
「そうですか、分かりました。じゃあお大事にね!」
「はい、失礼します」
すぐさま通話終了のボタンを押す。受話器を握る手には無意識に力が篭っていた。僕はゆっくりと受話器を元の位置に戻し、小さくため息をついた。
休みが決まった僕は真っ先にお母さんの部屋にある茶箪笥へ向かう。一番下の戸を引いて中に入ったスマホを取り出す。先月の誕生日に、ようやくスマホを買ってもらった。しかし買う条件として寝る前はお母さんの部屋の茶箪笥にしまうという約束をした。
いつもは制限されているスマホを今は自由にいじることができる。それから一時間、お気に入りのゲームを一通りやり尽くした。いつもあんなにやりたくて仕方がないゲームのはずが、何故か今日は一時間で飽きてしまった。
時刻は未だ9時半。1日は始まったばかりだというのに既にやりたいことはやり尽くしてしまった。勉強でもしようかとも考えたが、せっかくの休みに勉強するのももったいない。
やることもないので外をぶらぶらすることにした。エレベーターで一回に降りて、一番最初に向かったのは親友の智也くんの家だ。よく遊びに行っているはずの智也くんの家は何故かいつもと違う感じがした。窓辺の突っ張り棒に干された洗濯物を見ると智也くんが昨日着ていたドクロの服が見えた。
不思議な気持ちのまま道なりに進む。道すがらいつもお母さんと行く八百屋さんとお総菜屋さんの前を通ったが、なるべく速足で通り抜けた。何となく見られたら不味いと思ったからだ。
それからいつも遊んでいる公園、好きなジュースが売っているお気に入りの自動販売機、歩道橋と様々な場所を巡った。その全てでいつもと違う何かを感じた。それが何なのかは分からなかったが、唯一分かったことがある。それはどこも静かだってことだ。
僕はいつもの公園に戻って、一人ブランコに座る。公園の時計は12時半を回っていた。
「今頃皆はお昼ご飯か…………」
太陽が大きな雲に隠されて、ブランコは大きな影に包まれる。先ほどまでの日差しは遮られ、僅かばかりの涼しさを感じる。
…………
「帰ろ」
僕はブランコから腰をあげて元来た道を戻る。その足取りは明らかに重く感じられた。恐らく歩き疲れてしまったのだろう。
日陰だけを歩きながら帰っている途中、踏み切りの前を通りかかる。僕の家はこのまま真っ直ぐ行けば着くため踏み切りを待つ必要はない。しかし足は踏み切りの前で止まる。
踏み切りの先からは叫び声や笑い声が聞こえて来た。そう、踏み切りの先には仲光小学校があるのだ。ちょうど今の時間はお昼の休み時間だろう。踏み切りが上がると同時に僕は踏み切りを渡る。少しだけ、ほんの一目見るだけ。バレるわけがない。そしたら直ぐに帰ってくればいい。
周りを確認しながら隠れるように通学路を進む。いつも通る道は信じられないほど広く感じられた。
「はいアウト~!!」
校門の前まで歩いたところで僕は聞き覚えのある声を耳にする。智也くんの声だ。隙間からそっと覗き込むと、智也くんが友達とドッチボールをしているのが見えた。
「白鳥、今当たんなかったか」
「あたってねーよー」
「隙あり!」
僕は皆が遊んでいるのをじっと見つめる。
…………
「おしー!今の取れたわ」
「おらっ!」
…………
「っぶね!」
「セーフ!セーフ!今のセーフだろ!」
…………
「暑いな」
僕は日陰を探しながら再び来た道を戻った。
「ただいまー、遅れてごめんねー今ご飯作るから」
息を切らしながらお母さんが返ってきた。うちの晩御飯は7時と決まっているため、普段ならもうご飯を食べている頃だろう。
「あらー、雄介が洗濯物畳んでるなんて明日は雪かしら」
「失礼な」
僕は家に帰ってからまず初めに食洗器の中の食器を棚にしまった。普段はまずしないようなことだがあまりに暇だったため仕方なくやった。それから洗濯物の取り込み畳をして、その途中でお母さんが返ってきた。
「雄介、食洗器の中の食器まで出してくれたの?」
「うん」
お母さんは目を見開いたままこちらを凝視する。
「…もしかして何かやらかした?」
「ひどくない?」
「ごめんごめん、ありがとね!今日は雄介の好きなすき焼きにしたからね!」
台所に置かれた買い物袋の中には長ネギや豆腐、牛肉の代わりに豚肉が見える。
「「「ただいまー」」」
玄関から三者三様の声が聞こえてくる。その中でも一際|溌溂≪はつらつ≫とした声が響く。
「今日すき焼き?」
靴を放り脱ぎ、駆け足で現れたのはお兄ちゃんだった。
「あんた朝、水筒忘れて言ったでしょ」
「そうそう、無くて困ったんだよね」
「上がる頃にはできてるから風呂入ってきなさい」
「はーい」
スキップで風呂へ向かうお兄ちゃんとは対照的に遅れてリビングに来た二人の足取りは重かった。
「二人ともお疲れ、翔太が上がったらすぐに入ってね」
「はーい、てかなんであいつあんな元気なのよ。部活終わりでしょ?」
その元気はどこから来るのかとお姉ちゃんは訝しげに兄を見つめる。
「思春期の男は肉見るとああなるのよ」
「馬鹿なだけか」
呆れながらもお兄ちゃん同様すき焼きを見つける。
「すき焼き!?」
「アンタも大概ね」
お母さんが呆れた表情をお姉ちゃんに向ける。
「すき焼き!?」
もう一匹馬鹿が発見される。お父さんの目はここ最近で一番輝いていた。
「親子そろってこれなんだから…」
そう言いつつもその表情はどこか嬉しそうだった。
「「「「「いただきます!」」」」」
食卓の中央に置かれた大きな鍋に一斉に手が伸びる。
「自分の箸いれない!」
すき焼きの争奪戦が始まろうとしていた中、一家の主の声が響く。
「ママがよそるから順番に取り皿頂戴」
鶴の一声で一瞬にして場が収まる。
「雄介、あんた食欲ないの?」
「え、そんなことないけど」
改めて自分の取り皿を見ると確かにあまり減っていない。いつも通り食べていたつもりだったがすき焼きも白飯も半分以上残っていた。腹が減っていないわけでも体調が悪いわけでもなかったが箸はあまり進まない。
「味わって食べてただけだよ。めちゃくちゃうまい」
僕はわざとらしくすき焼きを乗せた茶碗を掻き込む。
ブルルル ブルルル
茶碗を掻き込んでいた手と共に僕の中の時間が止まった。心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさを覚える。咄嗟に席を立とうとしたがそれよりも先に電話台に最も近いお母さんが立ち上がった。
「こんな時間に誰かしら」
それは正しく死刑宣告だった。こんな時間に電話をかけてくる相手は一人しか思い当たらない。担任の杉本先生だ。今朝電話した時に両親がいなかったからこの時間にかけてきたのだろう。うちの学校は通常、欠席の連絡は親が掛けることになっている。今回のように緊急で両親がいない場合は自分で掛けることになっているが、初めてのことだったのでこうなるのを読めなかった。
「はい………はい……」
お母さんは相槌を打ちながらリビングから離れていった。それから約10分、僕は無心で箸を口に運んだ。もう大好物のすき焼きの味は感じない。なんの味もしないすき焼きを口へ運ぶ。無意識にちらちらとお母さんが消えた廊下を確認する。
その時、廊下の床のきしむ音がかすかに聞こえてきた。リビングへ戻ってきたお母さんの顔を直視することはできない。今から怒られるんだろうと想像するとうっすらと涙があふれだしそうになった。
「何だったの」
お父さんの何気ない一言で僕は覚悟を決める。
「職場から、なんか明日の早番変わってくれだって」
「えっ」
思わず驚きが漏れる。担任からではなかった。怒られない。隠し通せる。僕の心配は杞憂に終わり、心の底から安堵した。僕はごまかすように再びすき焼きを掻き込む。一口、二口とすき焼きと白飯を交互に口へ運ぶ。今度こそしっかりすき焼きの味がした。
でもなぜだろう、あまりおいしくないのは
「明日朝早いからもう寝るね、おやすみ」
時刻は9時半を回る。急遽早番になったお母さんはいつもより早めに寝ることに。
「おやすみ」
お父さんがそう答える
「雄介もおやすみ」
名前を呼ばれてお母さんと目が合う。
優しいお母さんの目
僕の大好きなお母さんの目
僕はそんなお母さんの目を受け止めきれず、視線を逸らす
「おやすみ」
俯き加減にそう言うと、お母さんに背を向けた。何か見透かされてしまいそうな、そんな気がしたから
「雄介ももう寝ろよ」
「うん」
時刻は11時半を過ぎた。野球特番を見ていたお父さんはテレビを消して寝室へ向かう。他のみんなは既に寝ており、リビングに僕だけ残される。いつもはもう寝ている時間、それなのに一向に眠くならない。僕はリビングのソファに横になり、そのまま寝ようと試みる。しかし目を閉じていることさえできない。
深いため息とともに僕はソファから起き上がり、寝室へ向かう。一歩踏み出すごとに床が軋む。我が家の寝室はキングサイズのベットが二つ並べられており、そこにみんなで寝ている。寝室の扉を開くと右から二番目のスペースが開いていた。僕の定位置だ。右端にお兄ちゃん、左隣にお母さんが寝ている。僕は音を殺して毛布を掛ける。そして仰向けのまま天井をじっと見つめるが当然何も見えない。まだ目が暗闇に慣れておらず、視界に広がるのは闇一色。僕はゆっくりと目を閉じて、今日の出来事を思い返す。満足するまでゲームをして、町中を探検した。そして好きなジュースまで買った。それから学校を見に行って、大好きなすき焼きまで食べられた。いい一日だった。間違いなくそうだ。そのはずだ
「ママ、起きてる?」
僕は今ある勇気を精一杯振り絞り声を上げる。今にも消えてしまいそうなほどか細く震えた声。
初めから気づいていたのかもしれない。
何故、学校から逃げるように帰ったのか
何故、いつもはすることのない家事をしたのか
何故、すき焼きがおいしくなかったのか
何故、お母さんの目が見れなかったのか
何故、涙が止まらないのか
僕は頬を伝う涙を右腕で拭う。でも何度拭っても止まらない。
「起きてるわよ」
背中越しに聞こえた声はお母さんのものだった。僕は荒い呼吸を何とか抑え込み、平然を装う。
「何で…起きてるの」
時刻はお母さんが寝てからすでに二時間近くたっていた。
「なんでか眠れなかったのよ。雄介もこんな時間まで起きてるなんて珍しいわね」
「……」
「僕、今日学校を休んだんだ」
瞼をきつく閉じ、毛布を頭までかぶる。今お母さんはどんな顔をしているんだろう。そう考えると怖くてまた涙が出てきそうになる。
「ありがと、教えてくれて」
背中から暖かい腕が僕を包み込む。お母さんはそのまま僕を引き寄せた。
「うっ……っ……」
堪えていた涙があふれ出てきた。顔中涙と鼻水でべとべとになってもお母さんは僕を離さない。大きな手が僕の頭を優しくなでる。
「何か学校で嫌なことでもあったの?」
僕は一度呼吸を整えてから顔をパジャマの袖で拭う。
「何にもなかったんだけど、急に行きたくなくなっちゃって」
「はぁ……」
大きなため息の後、お母さんは僕の顔を両手でつかむ。視線が合ったところでお母さんの目元がほのかに赤くなっているのが分かった。
「もう……よかった」
今度はさっきよりも一段と強く抱きしめられる。少し苦しいけど今はそれが心地いい。
「お母さん、実は雄介が休んだこと知ってたの」
「え、どうして」
「さっきかかってきた電話ね、あれ先生からだったのよ」
「でも……どうして怒らないの?ずる休みしたんだよ」
「もちろんずる休みはよくないことよ。でもね、どうしても行きたくなくて辛いときは無理していかなくてもいいのよ。一番大事なのは雄介自身なんだから。もう…本当は何か学校で嫌なことがあったんじゃないかって心配してたのよ?」
「うん」
「わかってくれればいいのよ。でもどうして話してくれたの?」
「すごくつらかったんだ。みんなをだましてることが辛かったの。」
「雄介も大人になったのね」
「明日からはまた学校行くね」
「そうね」
僕は学んだ。ずる休みがすごく苦しいってことを。いや、みんなを騙すことがこんなにも苦しいってことを。あんな思いをするくらいなら学校に行ってみんなと遊んでいたい。心からそう思った。
「ふふっ……」
右隣から漏れ出たような声が聞こえた。こちらに背を向けてはいるが、隣で眠るお兄ちゃんの肩が微妙に揺れていた。
「あんたまだ起きてたの」
お母さんは視線をお兄ちゃんに向ける
「眠れなくてね。それより雄介、お前真面目過ぎんだよ」
お兄ちゃんがにやにやと僕の顔を覗き込む
「俺なんか月に二、三回はずる休みしてるよ」
「母さん初耳だけど?」
「そうだっけ?」
「明日の弁当はなしね」
「まじかよ…」
今度は違う意味でお母さんの顔を見ることができない。
「お前は深く考えすぎなんだよ。もうちょっと気抜いていけ。学校なんて友達と話してたらあっという間に終わってんだから」
「そうだよね、ありがとうお兄ちゃん」
「あんたはもうちょっと気を引き締めなさい」
「へいへい」
気づいたときには涙は止まり、心の靄は晴れていた。悩みが消えた途端、激しい睡魔に襲われる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そのやわらかい声を聞いて、僕は眠りについた。
「今日も暑いなー」
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止め、時刻を確認する。
「やべ、ぎりじゃん」
大学の一時限目は九時からのためあまり余裕はない。春から大学に進学した俺は親元を離れ一人暮らしを始めた。その条件として課されたのが講義への無遅刻無欠席だ。朝飯を食べている余裕はないため、歯ブラシを咥えながら、私服に着替える。
「それにしても何か懐かしい夢を見てた気がすんだけど何だっけ」
何か子供の時の夢を見ていた気がするが思い出せない。
「まいっか」
時間は刻一刻と迫っている。準備もそこそこに大学へと向かう。
「あ、そうだ」
玄関で靴を履き終えてドアノブを握ったその時、家の鍵を忘れていることに気づく。
「あぶねあぶね」
駆け足で取りに戻り、机の上に放り投げられた鍵をポケットの奥に突っ込む。
「行ってきまーす」
誰もいない部屋に向かってそう言うと、扉を思い切り開けて外へ飛び出す。
「遅刻だ遅刻!」
太陽が容赦なく照り付ける中、僕は今日も日向を駆け抜ける