Episode 3. 伊集院家の跡取り娘
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「――え、今何とおっしゃいました……? 私が……跡取り?」
「ああ。君は伊集院家の跡取り娘だ」
――それは、桜子にとって予想だにしない告白だった。それも、全く嬉しくない方向で。
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今よりほんの少し前、屋敷に到着した桜子は榊によって居間に通された。そして、そこで真澄と対面した。
けれど桜子は最初、彼が例の専務だとは思わなかった。せいぜいその息子だろうかと思ったくらいだ。だから桜子は、真澄から名刺を受け取り彼の正体を知ったとき、驚きを隠せなかった。
「えっ、あなたが専務なんですか!?」
「そうだが。……私が専務だと何か問題が?」
「いえ……あまりにもお若かったものですから、つい」
「ふっ、老人だとでも思っていたのだろう?」
「……正直に言えば。……すみません」
「――いや、当然の反応だ。気にするな」
それが二人の最初の会話だった。そしてこの、どこか的外れな会話のおかげで、桜子の緊張は一気にほぐれた。――のをいいことに、桜子は真澄から、自己紹介も早々に上記の言葉を告げられたのである。「君は伊集院家の跡取り娘だ」という、その言葉を。
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――そして今現在、桜子はテーブルを挟んで、真澄と対峙する形で椅子に腰かけている。
「そんなこと急に言われましても。……私、そんな話両親から一度だって」
「まぁ、それはそうだろうな。君の母親である紫子は、親族一同の反対を押し切って駆け落ちしたのだから」
「えっ、駆け落ち……ですか?」
「ああ。ほら、ドラマなどでよくあるだろう。両親と死別し苦労して生きて来た少女が、実は高家の令嬢だった……というあれだ。まさか知らなかったのか?」
「…………はい、全く」
困惑する桜子と、終始笑顔を崩さない真澄。二人の表情はあまりにも対照的で、それがこの部屋の雰囲気と相まって桜子に居心地の悪さを感じさせた。
「……それに私、もう少女っていう年齢じゃ。見ての通り成人してますし」
「わかってる、ものの例えだ。それに年齢など問題ではない。重要なのは、君が現伊集院家当主、伊集院元蔵氏の孫娘だということだ。そしてこれは君が望もうと望むまいと、誰にも変えようのない事実だということだよ、月城桜子さん」
真澄は笑みを絶やさずに言う。テーブルの上で組まれた両手が、桜子に若干の威圧感を与えた。
――つまり、いったいどういうこと?
桜子は真澄の態度にやや苛立ちを感じながら、それでも決して失礼に当たらないようにと、用心深く尋ねる。
「……ええと、西園寺さん? それで結局、何をおっしゃりたいのでしょう? もし私が伊集院家の跡取りだったとして、それと今日私がここに呼び出された理由に一体どんな関係が?」
彼女はまだ真澄の話を信用したわけではない。そもそも母親が駆け落ちしていたことすら初耳なのに、どうして自分がやんごとなき家柄の跡取りであるなどと信じることが出来ようか。いや、出来ない。
「それに……確かその伊集院元蔵さん……つまり、伊集院グループの会長には既に跡取りがいらっしゃった筈では? 私、以前テレビで見たことある気がするんですが」
――それも、1人ではない、2人いた筈。
すると、そんな桜子の言葉に、真澄は深く頷いた。
「よく知っているな。確かに君の言うとおりだ。元蔵氏……会長には息子がいて、現在彼は副会長に就任している。更に副会長には息子が2人。跡取りの最有力候補はそのうちの長男と噂されていた。名を馨といって歳は私の2つ下。今年で33になる。人望も厚く、仕事のよく出来る男だったよ。
私は分家の出だが彼と歳が近いこともあり、親しくさせてもらっていたのだが……」
「……その馨さんと言う方に、何かあったんですね?」
「ああ、詰まるところそういうことだ。まぁ、何かあった……と言うと語弊があるかもしれないけどな。
つい昨年のことになる。馨が急に相続放棄をして、家を出てしまったんだ。恐らくずいぶん前から準備していたのだろう。伊集院家の息のかからない外資系の弁護士を用意して、周りが止める間もなく手続きを進めてしまった。そしてどういうわけか、それを追うように次男である麗も姿を消してしまっってな。――今、家は跡取り問題で荒れに荒れている」
「そんなドラマみたいなこと……」
「ああ、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ」
そう言って、真澄は「ははは」と冗談めいた笑みを浮かべた。彼は続ける。
「そこで、君の出番と言うわけだ。君の母親の紫子は元蔵氏の実の娘。つまり、君は元蔵氏の孫ということになる。今まで行方不明だった孫娘の君が登場すれば、万事解決と言うわけだ。――理解して頂けたかな?」
「……そう、ですね。一応……事情は」
桜子は予想だにしなかった真澄からの告白に、困惑を通り越して混乱するほかなかった。けれどそれでも、なんとか状況を理解しようと……彼女は挙動不審に目を左右に走らせる。
――そもそもこの告白以前に、この居間に通されるまでも驚きの連続だった。この屋敷、ただ敷地が広いだけではない。たかだか個人の家の筈なのに、ロータリーには屋根がついており――そもそもロータリーがあるだけで衝撃だが――玄関と呼ぶのははばかられる立派すぎる出入口はガラスの自動扉。土間だけでも桜子の住むワンルーム以上の広さがあり、廊下の幅もその辺のホテルよりよっぽど広い。有名な高級旅館だと言われれば、誰もが信じてしまうだろう。
つまり、どう考えても一般市民である自分には似つかわしい場所ではない。
それにこの居間にも、桜子は驚きを隠せなかった。
――まず広い。とにかく広い。一般的な感覚なら、居間だけで一家4人暮らしが出来そうな広さである。加えて床板には希少なローズウッドが使用され、壁には100インチを超えるであろうサイズのテレビが掛けてあった。ヨドバシにもこのサイズのテレビはそうそう置いていないだろう。その手前にはL字型の巨大なソファが鎮座し、天井を見上げれば自動昇降式であろうスクリーンとプロジェクターが。中庭に面した一枚ガラスの窓の側には、定番の観葉植物が品よく佇んでいた。
それに、現在桜子が座っているこのテーブル。どう見ても既製品ではない。桜子には使用されている木材が何であるかわからなかったが、実は一枚板のチークで製造されたオーダーメイド品だ。6脚ある椅子も同じくチーク材で作られている。
――やっぱり私、場違いすぎる。
育った環境が、金銭感覚が、そして常識が……。そもそも、目の前の西園寺真澄と言う男は、本家ではなく分家の者だと言う。その分家の者の家でこのレベルなのだから、本家は想像も出来ないほど凄いに決まっている。陳腐な言葉しか思いつかないが、きっと全てにおいて一般人レベルの自分とは住む世界が違う人間だ。例え「血は水よりも濃い」――などと言われたって、絶対に相容れないに決まっている。
それに経済力だけではない。この真澄と言う男、外見や物腰も一流である。身長は180cmを超え、足はモデル並みに長い。筋肉は白いカットソーの上からでもわかるくらいにほどよく付いていて健康的だ。声はよく通る低音で、色気がある。そしてなにより顔。顔面偏差値が高すぎる。目つきはややきつめだが顔立ちは端正でクール。グレーがかった瞳は不思議な魅力を秘めており、この目に見つめられたらそれだけで大抵の女性は落ちるだろう。髪の色も瞳と同じくグレーが入った黒で――動物に例えるならば、毛並みの揃った狼のようだ。カットソーが見慣れたデザインであるあたりは多少親近感を感じるが、それ以外は自分と何の共通点もない。
そんな一般人離れした外見の真澄である。勿論外見など一人ひとり違うのだから断言出来ないが、もしも、もしもだ。伊集院家の人々が皆、真澄のような素晴らしすぎる外見だったとしたら……。
――確かテレビで見た副会長とそのご子息たちって……皆イケメンだったような。
そう考えて、桜子はゾッとした。彼らと、自分が横に並んだ姿を思い浮かべて。
何故って自分と彼らとでは月とスッポン。美女と野獣――もとい、美男子と女獣だ。絶対に隣には並びたくない。――というかそもそも、お家騒動に巻き込まれるのだってまっぴらごめんだ。
何故なら、今だって十分幸せだから。お金は多少きついが、毎日それなりに楽しく生きている。老後の心配は多少あるが、今の生活が続けばそれでいい。
だが、そんな桜子の考えを知らないであろう真澄は、終始笑顔を崩さなかった。まるで、断られるなど露ほども予想していないというように。そんな真澄の笑みに、桜子はキリキリと痛む胃をさすりながら、どうすればこの話を聞かなかったことに出来るだろうかと頭を悩ませる。
けれどそんな桜子に対し、真澄は再び信じられないようなことを口にした。そう、それは――。
「そこで、だ。これは提案なんだが、私と――結婚してくれないか」
「……え?」
「結婚しよう、月城桜子さん。そうだな……出来れば、今すぐに」
――なんと、プロポーズの言葉だったのである。