Episode 1. 月城桜子、拉致される
拝啓、天国のお父さん、お母さん。お元気ですか。
桜子はとても元気です。社会人生活も5年目に突入し、ついに後輩の教育係を任されるまでになりました。それもこれも、二人が残してくれた遺産と人脈のおかげです。本当に感謝しています。
ところで、桜子は二人に謝らなければならないことがあります。
実は去年の命日、お墓参りを忘れてしまいました。5歳の頃から欠かさなかった墓参りですが、去年は激務で疲れ果て、ついつい忘れてしまったのです。本当にごめんなさい、決して悪気はなかったのです。
もし怒っているならどうか許して下さい。そして娘を想う深い慈悲の心で、この桜子を助けてください。
実は今、桜子は見知らぬ男たちに拉致されています。
会社に向かう道すがら、無理やり車に押し込まれてしまったのです。本当に一瞬のことで何が何だかわかりませんでした。
確かに人通りの少ない道をぼさっとした顔で歩いていたのは認めます。でも一体誰がこんな早朝から拉致されるなどと想像しましょうか。
私はただいつものように会社に向かっていただけなのに。
*
東京都某区市街地を走る一台の車――センチュリーロイヤル――その後部座席の真ん中で、桜子はじっと身を縮め膝の上の拳を見つめていた。
彼女の座る座席のカバーは高級感のある黒いレザーであるが、その座り心地を堪能する余裕などある筈もなく、彼女は唇を無一文時に結び、恐怖で酷く冷える手足を強張らせてただじっと座っていた。
――私、何かした……?
止めどなく溢れてくる冷や汗を吸収したであろう彼女の下着が、体温をじんわりと下げていく。
桜子は声も出せないまま、ただただじっと固まっていた。そして、混乱した頭で必死に考えを巡らせていた。
彼女はつい先ほどのことを思い出す。
いつものように家を出て、いつものルートで駅に向かっていた、そのときのことを。
そうしたら後方から走ってきた車が自分のすぐ真横で急停車し、あっという間に車に連れ込まれた。恐らく目撃者はいないだろう。
それに、この車はなんと言っても黒塗りだ。ということはもしや、この男たちはヤのつく職業の方だろうか。
だが、桜子にはこのように拉致される理由に全く心当たりがなかった。
確かに一人暮らしを始めてからというもの生活は苦しかったが、だからといって借金などつくったこともないし、カードの引き落としが間に合わなかったこともない。勿論ホスト通いもなし。
ああ、それともあれだろうか。誰か他の人と間違われている、とか。それなら確かに納得がいく。
何故って自分の容姿は平々凡々、中の中。良く言って中の上。その辺によくある顔だ。
悲しきかな人違いということなら、納得がいく。
――聞く? 聞いちゃう?
桜子はぎゅっと拳をにぎりしめる。
手汗が酷い。いっそ本当に、そう、一思いに聞いてしまおうか。もしかしてさらう相手を間違えてはいませんか? と。
――いや、やっぱりやめよう。
だが、桜子は思いなおした。
両脇を大柄の男に挟まれて、控えめに言って身動き一つとるのさえ神経を使うような状況で、下手なことを言えば一体どうなってしまうのか。
もし、万が一、人違いでなかったらどうなることか。――こんなところで死にたくはない。
だが――そんな桜子の心中を察してくれたのだろうか。ようやく、一人の男が口を開いた。
「手荒な真似をして、大変申し訳ございませんでした」
「……え」
車内に連れ込まれてから恐らく5分以上が経過しているだろう。先程まで市街地を走っていた筈が、気付けば首都高にのっている。
いや、しかし、男の言葉の内容を鑑みるに、もしかしたら本当はほんの1、2分だったのかもしれない。あまりにも怖くて、時間間隔がおかしくなっていた可能性だってある。
桜子はそっと息を吐いた。
――大丈夫よ、桜子。一度落ち着くの。
男の言葉には一応の誠意が込められているようだった。それに、謝罪の意を示している。話し合いは出来そうだ。
「あの……一体どういうことですか? 私、あなた方のこと知らないし、その……全く身に覚えがないのですが」
桜子は顔を上げ、なるべく淡々としゃべるよう努めた。感情を殺して、出来るだけ冷静に。
今車内にいるのは桜子を含めて5人だ。真っ黒なスーツにサングラスをかけた運転手と、それと同じ服装の男が桜子の両脇に二人、そして最後に、今桜子に話しかけた助手席の男。どういう訳か彼だけは黒ではなくダークグレーのスーツを身に着けている。
それに彼の耳にかかるのはサングラスではなく、普通の眼鏡だ。歳は三十代前半だろうか。カラーリングとは縁のなさそうな真っ黒な髪はどこぞのビジネスマンの如くオールバックにきっちりとまとめられ、やたら清潔感がある。
桜子が男の様子を伺えば、その男はバックミラー越しにじっと自分を見つめ返してきた。
眼は切れ長で、その瞳は冷静さを通り越して冷たさを感じさせる。
「もしかして……人違いでは?」
桜子の問いに、男は抑揚のない声で答えた。
「いいえ。人違いではございません、月城桜子様。わたくしは榊と申します。榊……とお呼び下さい」
「榊……さん?」
「はい」
桜子は小さく深呼吸する。どうやら人違いではなさそうだ。けれど、このような所業を受けなければならない理由に覚えがないのは事実。とにかく尋ねてみなければ。
「どうして私を……全く身に覚えがないんですけど。それに、これから会社に行かないといけないし。出来れば今すぐ下ろしてもらいたいというか。せめて退社後に出直して頂ければ私も心の準備が――」
彼女は混乱する頭で必死に言葉を絞り出す。混乱しすぎて話が支離滅裂だが、この状況では致し方無いだろう。
けれど榊は、桜子の言葉を遮るように大きく咳ばらいをし、信じられないようなことを口にした。
「月城様、突然のことで混乱されているとは思いますが、本日の出社は諦めて頂くほかありません。しかしどうぞご安心を。月城様の勤め先には既にこちらから連絡を入れさせて頂いております。上司の方は、有休消化を快く承諾して下さいましたよ」
「……え、ええっ?」
――どういうこと!? もう会社に連絡したって、この人今そう言ったの!?
榊の言葉に、桜子の口から呆けたような声が漏れ出る。
だって常識的に考えてあり得ないではないか。無理やり人を車に連れ込んだあげく、あまつさえ勝手に有休の申請をしたなどと……。
いや、それ以前に、この男は桜子の名前のみならず勤務先まで知っている様子。
まぁ、冷静に考えれば住所を知られてしまっているのだから、勤務先を知られていたとしても何らおかしくはないのだが、そもそもの問題はこの男が一体何者なのかということだ。
桜子は恐怖も忘れ後部座席から身を乗り出した。
榊のあまりの物言いに、今の今まで混乱していた頭が逆にクリアになっていく。
「信じられない、会社にまで連絡するなんて……。大体、こちらの質問にも全然答えてくれてませんよね。私が聞きたいのは、どうしてこんなことされなきゃいけないのかっていう理由なんですが。
それに課長は当日の有休なんて絶対認めない方なんですよ? 有休を取ったなんて本当は嘘なんじゃないですか?」
桜子は語気を強める。
もともと彼女は大人しい性格ではない。
先ほどまでは緊張のため控えめだったが、どちらかと言えば性格はきついし、曲がったことは大嫌い。基本的には相手が誰であろうと物怖じしない性格だ。
そんなわけで、頭に血がのぼってしまった桜子は榊に食いかかる。
「榊さん、そもそもあなた、一体どこの誰なんですか。私言いましたよね、あたながたのことなんて知らないし全く身に覚えもないって!」
だが榊は、そんな桜子の言葉など気にならないようだ。
彼は平静を保ったまま「これは大変失礼致しました。名乗っただけでは不十分でございましたね」――などと言いながら、懐から取り出した一枚の名刺を桜子に差し出す。
「どうぞ、こちらを」
「何、名刺? 名刺なんてもらったて私……、――え」
刹那、彼女は思わず言葉をなくした。
名刺に書かれたその社名に。そしてその、役職に。
「……え。榊さんって、伊集院物産の役員秘書……なんですか?」
「はい。僭越ながらわたくし、伊集院グループ商社事業部、伊集院物産の専務秘書をさせて頂いております。本日お呼びだてしたのは、専務である西園寺様から月城様に重要なお話があるためでして」
「重要な……話……?」
――伊集院物産の専務が……私に?
桜子は困惑したまま、じっと名刺を見つめた。ますます意味がわかならい――と眉をしかめながら。
桜子の勤める会社は、国内きっての財閥企業、伊集院グループの製薬部門である株式会社エリクシーの孫請け会社だ。
孫請けなので実際に薬の開発や製造をしているわけではなく、ほぼ事務的な手続きや作業を請け負っている。つまり、全然大した会社ではない。だが、榊の勤め先の伊集院物産は訳が違う。
そもそも伊集院グループは、製薬会社だけでなく、商社、建設、電機電子機器、ソリューション、重工業、保険会社など幅広く展開している大財閥企業だ。その企業数は国内外合わせて50を超え、国内GDP第1位。
その中でも商社事業と建設事業を手掛ける伊集院物産のグループ内での売り上げは、ここ20年間トップであり、桜子のような一般市民からしたら雲の上の企業と言っても過言ではない。
そんな会社の専務が、自分のような一市民に一体どんな話があるというのか……。
「あの……どのようなお話で……?」
先ほどの勢いはどこへやら、桜子は再び声を小さくして榊に尋ねた。仕事関係での呼び出しというのなら、可能性がないとは言い切れない。
「もしかして私、何か重大なミスをしてしまったのでしょうか? 個人情報を漏洩させてしまったとか? それとも、書類に不備があったとか? 何か賠償問題に発展してしまった……とか?」
桜子は襲い来る眩暈に堪えながら、脳みそをフル回転させる。だが、いくら考えてもわからなかった。
そもそも、もしも上記のような問題があったとして、自社の社長に呼び出されることはあっても、全く関係のない事業部の役員に呼び出されるなどまずあり得ない。
――のだが、今の桜子はその考えに至るまでの余裕がなかった。しかも、意地の悪いことに榊は否定も肯定もしないのだ。
「申し訳ございません、その質問にはお答え出来かねます。内容はわたくしにも伏せられておりますので」――などと言うのみで、桜子がいくら尋ねようとも話が全く進まない。本当に知らないのか、知った上で隠しているのか……。それすらもわからないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
「お願いします! 教えて下さい! せめて謝罪のフレーズを考えないと……」
「どうでしょう。恐らく謝罪は必要ないと思いますが」
「そんな! お金で弁償しろってことですか!? でも私、そんなお金ありません!」
「……金銭での弁済も必要ないかと」
「だったら一体どんな理由なんですか!」
「お答えできません」
「そんな……!」
そんな無意味な押し問答が続き――結局話は平行線のまま、ついに桜子の乗った車は一軒の広大な邸宅の前で停車した。