黒狼と白うさぎ
昔々あるところに、一匹の小さな白うさぎがいました。
彼女の名前はマヒナ。
マヒナは群れの仲間と一緒に、平和な野原で暮らしていました。
「マヒナ、走って」
マヒナは仲間によくそう言われました。
マヒナだって走っているのです。けれどもみんなより体が小さいマヒナは、めいっぱい脚を動かしても群れから遅れてしまうのでした。
置いて行くわけにもいかないから、みんなはある程度走った先でマヒナを待ってくれます。マヒナはそれを申し訳なく思って、小さな体をいっそう小さくちぢこめるのでした。
でもその時は違いました。
みんなは脚の遅いマヒナを待ってはくれないし、マヒナも体をちぢこめる余裕などありませんでした。
マヒナたちの巣穴は黒毛の狼たちの襲撃に遭いました。
寝入り端を襲われ、白うさぎたちは四方八方逃げまどいました。マヒナもあっちへオロオロこっちへウロウロ走り回り、小さな体のお陰でなんとか狼の追跡から逃れることができました。
ほっと息をついたのもつかの間、今度は自分が一匹きりでいることに気が付きました。辺りを見回しても、うさぎはおろか何の動物の気配もありません。
マヒナは群れから完全にはぐれてしまっていたのでした。
小さな白うさぎはしょんぼりして、草をかじりながら野を歩きました。
みんなどこへ行ってしまったのでしょう。無事に狼から逃げることはできたのでしょうか。
俯いて考えごとに浸っていた小動物は、自分が大きな黒い影に向かって歩いていっているのにも気が付きませんでした。
ついにごつんとぶつかって、マヒナははっと顔を上げました。
そしてぼわっと全身の毛を逆立たせ、大慌てで身を翻しました。
後ろ脚に力を込めた途端ぐきっと嫌な音がして、マヒナの腰から下は勝手に力が抜けてしまいました。
前脚だけでどうにか逃げようともがくけれど、芋虫のようにもぞもぞと動くばかりでちっとも前に進みません。
マヒナは最後に泣き出しました。
その様子を、額に一束白銀の毛を持つ黒狼は訝しむように注視していました。
狼にしてみれば、目の前の出来事は茶番以外の何物でもありません。
小さな白うさぎがもぐもぐ草を食みながら歩いて来て、自分にぶつかって、ぼわっと毛を逆立てて逃げようとしたら足をくじいて泣き出したのです。
そして今は体を丸めて「食べないでください……私は食べてもおいしくないです……」と言いながらぶるぶる震えています。
もともとさして空腹でも無かったのですが、その様子を見ていたら食欲も失せました。
狼はびくびく怯えているうさぎの首根っこを甘噛みして持ち上げ、自分の巣穴まで運んでいきました。
自分は狼に食べられるものと思い込み、マヒナは相変わらずぷるぷる震えていました。
狼が洞窟の平らな場所に草を敷いて自分を寝かせ、薬草を摘んできてくれて、脚の痛みがかなり和らいだところでどうやらこれはふつうではないと気が付いたのでした。
「ありがとうございます。もう良くなりました」
追加で草を摘んできてくれた狼に、マヒナは体を起こしてそう言いました。「あなたのお名前を伺ってもいいでしょうか」
「ダグラスだ」
狼は短く答えました。
「ダグラス様……」
マヒナは知ったばかりの彼の名前を口にしました。
「どうして私を助けて下さったんですか」
白うさぎが尋ねると、ダグラスは少し意地の悪そうな微笑を浮かべました。
「空腹ではなかったからな」
「で、では、ダグラス様のお腹が空いたら私は食べられてしまうのでしょうか」
マヒナは再び震え出しました。
「さあ、どうだろうな」
ダグラスは笑いながら、たとえ自分が死ぬほど飢えていても、この白うさぎを手に掛けることはできないだろうと思うのでした。
脚がすっかり良くなると、マヒナはダグラスと一緒に外へ出られるようになりました。
しかし怪我が治っても、マヒナの脚は遅いままです。
「まだ良くなってないんじゃないか?」とダグラスに聞かれるほどでした。
俊敏さがとりえのうさぎに生まれながら鈍足だなんてと、マヒナは穴があったら入りたいほど恥ずかしく思いました。
マヒナはダグラスに案内され、彼と山道を登っていました。怪我をして彼の巣穴で休ませてもらっていたとき、薬草をどこから摘んできているのか尋ねたことがあり、ダグラスは「君の脚が良くなったら案内しよう」と言ってくれたのでした。
マヒナの脚は上り坂ではいっそう遅く、自分でも不思議なほど前に進みません。
少し先を行っていたダグラスは、マヒナのもとまで戻って来てしまいました。
「も、申し訳ありません……」
「君は山道に慣れていないのだから無理もない。それに脚だってまだ万全ではないのだろう。だが、このままでは日が暮れるな。私の背中に乗りなさい」
そう言ってダグラスは身を屈めました。
マヒナはどうしていいか分からず、狼の大きな黒い背中をきょろきょろ見回しました。
「どうした? さあ、早く」
「あ、あの……乗ってもいいのでしょうか」
「さっきからそう言っているだろう」
「私、重いと思います……」
「うさぎ一匹、私にとってはなんでもない。もたもたしていないで早く乗りたまえ」
「は、はい」
マヒナは狼の背に跨るように乗りました。
「しっかり掴まっていなさい」
そう言われてマヒナがダグラスの首元にぎゅっとしがみ付いた後、彼は立ち上がりました。
「きゃっ……」
白うさぎは思わず顔を伏せました。
「どうした?」
「た、高くて怖いです……落ちてしまいそうで」
マヒナの言葉に、ダグラスはふっと笑いました。
「私が君を落とすと思うのか」
その声は自分自身に対する自信に満ち溢れていて、マヒナの胸にすっと沁み込んでいきました。
ダグラスの脚は驚くほど速く、そして信じられないほど滑らかでした。
彼の背中に乗っているマヒナは、まるで空気の中を滑っているような心地がしました。
草をかき分け森を抜け、二匹は山を登って行きました。
「ここだ」
ダグラスが静かに立ち止まったのは、崖の上の花畑でした。
背中から下ろしてもらうと、マヒナは思わず駆け出しました。
赤青黄色、色とりどりの花が一面に咲いています。空は青々と晴れ渡り、遠くの山々の影も見渡せました。
勢いあまって足がもつれて、マヒナは花々の中に突っ込みました。
ぱっと花弁が舞い、良い香りに全身を包まれました。
「大丈夫か?」
近付いてきたダグラスに、マヒナは笑顔で返事をしました。
「はい。とても素敵なところですね。こんなに沢山の花が咲いているのを見るのは初めてです」
嬉しそうなマヒナに、ダグラスも優しい微笑みを返しました。
「ここには大抵の植物があった。君の薬草もここで摘んだんだ」
「あった、ということは、前は今よりもっとたくさん種類があったんですか?」
マヒナの問いにダグラスは答えず、「あまり端へは行かない方が良い。妙な臭いがする」とだけ言いました。
脚の怪我のせいでしばらく外へ出られなかった反動もあり、マヒナは花畑を思う存分駆けまわりました。優しい春風が心地よく、ダグラスが傍にいてくれて、周りは草花でいっぱいで、マヒナはとても幸せでした。
いつの間にか空が曇り始め、雨雲がすぐ傍までやってきていることにも気付かず、白うさぎはいつまでもこの幸せが続くと思い込んでいました。
雲に隠れる直前の太陽が、花畑の中の一か所を鋭く光らせました。無邪気なマヒナは不思議に思って小さく光った場所に近付いて行き、それに気付いたダグラスはやにわに走り出しました。
大きな狼に突き飛ばされ、マヒナの小さな体は宙を舞いました。そのままマヒナがぼすんと花の中に落ちるのと、ばね仕掛けの金属の牙がダグラスの脚を噛むのは同時でした。
聞いたことの無い硬い音に、マヒナは慌てて体を起こしました。少し離れた所で、ダグラスがうずくまっています。
「ダグラス様っ!?」
彼のもとへ駆け寄ると、狼の太い後ろ脚はギラギラ光る大きなものに挟まれていました。ダグラスは蹴るように脚を振ってそれを外そうとしますが、銀色の化物はびくともしません。
「ダグラス様っ……」
マヒナもその金属を噛んだり蹴ったりしましたが、少しも役に立ちませんでした。
歯でぎりぎりと鉄を噛みながら、白うさぎはぽろぽろと泣き出しました。
「申し訳ございません……私のせいで、こんなことに……」
「君のせいじゃない」
ダグラスは優しく言って、マヒナの白い頬を濡らす涙を舐め取りました。
「君をここへ案内したのは私だし、君は私の言いつけ通り端には寄らなかったのだから、君に責任は無い」
「でも……でも……」
マヒナは彼の慰めではちっとも心が楽にならず、がじがじ鉄を噛んでいました。
噛んでも蹴っても、金属の牙は少しもダグラスの脚を離そうとはしません。彼が自分でこじ開けようとする時の方が、まだ何とかなりそうです。しかし鋭い刃が相当深く刺さっているようで、手負いのダグラスではあと一歩力が足りないようでした。
うさぎではどうにもならず、また傷を負った狼でもあと少し及びません。
「ダグラス様、ここで少し待っていて下さい。私、誰か助けを呼んできます。きっと貴方をそこから助け出して見せます」
「な、待て――マヒナ!」
白うさぎは脱兎のごとく駆け出して、後ろで狼が呼びとめるのにも気付きませんでした。
下り坂だからか緊急事態だからか、いつもはあんなに遅い自分の脚が、今はとても速く感じます。
彼を助けたいと、自分を助けてくれた彼を今度は自分が助けてあげたいと、その想いだけがマヒナの脚を動かしていました。
金属の口は堅く閉ざされています。
うさぎではどうにもならず、また傷を負った狼でもあと少し及びません。
それならばと彼女は考え、あるものへ向かってただひたすらに駆けていました。
それならば、彼らならダグラス様を救い出せるかもしれない。
――傷を負っていない狼なら。
ダグラスは後ろ脚を片方引き摺りながら暗い森の中を歩いていました。
失敗を繰り返した末に漸く金属の口をこじ開け、自力で罠から脱出したのでした。
骨まで砕かれた脚は絶えず熱と痛みを放っていましたが、それよりもマヒナのことが気掛かりでした。
彼女は助けを呼んでくると言って飛び出したまま、日が暮れてもダグラスのもとへ戻って来ませんでした。
あるいは逃げたのかもしれない、とダグラスは考えました。
もとよりうさぎにとって狼は天敵です。ダグラスが罠に嵌って動けなくなったのを幸いとして、彼女は自分の群れに戻っていったのかもしれません。
それでもいい、むしろそうであってほしいとダグラスは思いました。
山の中を進んで行き、一匹の狼は森の中の開けた場所に辿り着きました。
木々の下では分かりませんでしたが、今夜は満月でした。
青白い月明かりの中、ダグラスは立ち止まりました。
血の臭いがしました。そして、狼の眼は捉えました。
一群の狼と、その近くに転がるズタズタになった白うさぎ。
ズタズタにされた白うさぎ。
君が俺から逃げて自分の群れに戻っていてくれたら、どんなに良かったか。
君が与えてくれたあのつかの間の安らぎだけで、俺は十分だったというのに。
この身に余るほど、幸せだったのに。
一束白銀の毛を持つ手負いの獣は、咆哮をあげながら黒狼の群れに突っ込んでいきました。
白うさぎの毛は血で汚れて、もはや白くはありませんでした。
ダグラスが近付いても、傷を舐めても、もう震えることも泣くこともありません。
彼女の体にこれ以上傷をつけないよう細心の注意を払いながら、ダグラスはマヒナの体を崖の上の花畑まで運んでいきました。
そこは、彼女が笑顔を見せてくれた最初で最後の場所でした。
ダグラスは一番見晴らしの良いところに白うさぎの体を寝かせ、その周りをたくさんの花で飾りました。
そしてそれから、彼女の体を包むように静かに横たわりました。
一束の白銀の毛も血で汚れて、もはや白銀ではありませんでした。彼女のために摘んだ花も、血で汚れてしまいました。
マヒナの体は冷たいはずなのに、どうしてかダグラスには温かく感じられるのでした。
「愛していたよ、マヒナ」
最期にそう呟いて、狼は静かに目を閉じました。
黒い夜の闇は去り、山の端から差し込む朝日が花畑を照らし出します。
柔らかな春の風が花の香りを運んでいきました。