印字を借りて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おーい、こーらくんよ。保証書と買った時のレシートは見つかったかい? ものを修理に出す時には必須のものだからね。今度からはちゃんと、自分が分かりやすいところにしまっておくんだよ。
――と、見つかったのかい? どれどれ……って、これじゃダメダメじゃん!
すっかり印字が消えちゃって、何がなにやら。一応、光に透かしてみれば判読できないこともない……か? 太陽にかざした手のひらの血管並に見づらいぞ。お店の人、対応してくれるだろうかね?
ふう、どうにか預かってもらえてひと安心だな。
ああいうレシートとかは、文字が書かれている面を内側に折りたたむべし。本とかも表紙は傷みが目立つが、中身はそれほどでもなかったりすることあるだろ? やっぱ外から見えない場所って、防御力が高い。
だけどね、こいつらと一緒に隠れている「不思議」って奴は、まだまだ得体のしれないことが多そうだ。
僕がその「不思議」に出くわした話、聞いてみないかい?
あれは学校の図書室で、本を借りた時だったっけか。
放課後に少しつまみ食いして、「おっ、これ面白い!」と思ったから借りたんだよ。
ところが、家に帰って開いてみると、ページが真っ白なわけ。見間違いかと思って、いったん閉じてから開き直しても、パラパラページをめくってみても同じだ。二百ページほどはあるハードカバーの本から、文字がすっかり消えちまったんだ。
そりゃもう驚いたさ。だが、それも長くは続かない。夕飯作っている母親のとこまで持って行って事情を説明した時には、文字はすでに元通りになっていたんだからな。
「あんた、ゲームのやりすぎで目を悪くしたんじゃないの」
なんてお言葉を、ため息交じりに賜っちまう始末。
自分の部屋に帰ってから、思わず舌打ちした。自分が自信をもって判断を下したものを間違い呼ばわりされると、無性に腹が立たないか? もしこいつが借りた本じゃなかったら、床なり壁なりに叩きつけて折檻してやるところだった。
改めて開いた本の中には、整った印字がびっしりと張り付いている。「なんだよ」と思いながら、どんどん読み飛ばしていった。
学校で読んだ時のわくわくはどこへやら。自分に不快を運んで来た奴を、一刻も早く片付けたくてしょうがなかったんだ。
学校で読んだ分も合わせ、二時間足らずで終盤に差し掛かる。もう残り数十ページってところまできて、俺はついと手を止めた。
めくったページ、その見開いた一面の文字に金粉らしきものが光っていたんだよ。もちろん他のページにこのような細工は成されていない。蛾の鱗粉のようにも思えてね、触るのははばかられたよ。
結局、本はいいところでほっぽったまま、次の日を迎える。
もうさすがに読む気にはなれなかった。登校したら真っ先に図書室へ行って、返却してしまう腹積もりだったさ。
だが着替えを終えて台所へ降りていくとき、父の「なんじゃこりゃ」という声が聞こえてきたんだ。見ると、父は今日の朝刊を広げていたんだが、そのページの文字や写真がすっかり消えてなくなっていたんだ。
今度は母も、父の隣でしっかり見た。一面と裏面のテレビ欄だけ鮮明に写っているのに、他はまっさらな白紙の状態。僕もそこへ加わって、一同目を見張りながら新聞をめくっていったさ。
消失は、ものの十秒ほど。何度か紙面を往復するうちに、ひとりでに文字と写真たちは戻ってきた。だが、僕が借りていた本と同じく、一部は金粉混じりの装飾が施されている。
父も気味悪がって早めに席を立ってしまい、母も僕も、もう朝刊には目をやらず、触ろうともしなかったさ。
学校へ行って本を返してから、僕はみんなにこのことを話した。
てっきり、笑い話で終わるかと思いきや、半分以上の人が同じようなことを昨日から今日にかけて体験していた。
ブツそのものに違いはあれど、共通しているのは印字がされて、折られたり綴じられたりした文字の部分だということ。そして消失はものの十数秒で終わり、帰ってきた文字や画像の一部には、金粉らしきものがひっついていることも。
どうやら、デジタルの写真とかは無事らしい。インクや塗料のたぐいのみが狙われていることが、うすうす察せられた。
この奇妙な体験は、にわかに僕たちの関心を集める。もしその日の授業中、同じことがあったら騒いでやろうと、ひそかにみんなと示し合わせていたくらいだ。あいにく、そんなことはなく、休み時間中も熱心に教科書とか開いてみたけれど音沙汰なし。
時間を置くと熱も冷め、帰りのホームルームが終わる頃には、もう僕を含めて数名しか例の現象に興味を持たなくなっていたよ。
「あれ、夢だったんかなあ? そうとは思えないけど」
いまだ本当のことだと信じる友達と、二人並んでの帰り道。お互いに適当な本を開きつつ、てくてくと家へ向かっていた。
親さえ確認したものだ。絶対に見間違えなんかじゃない。どうにか確たる証拠をつかみたかった。
そんな考え事をしながら、とある高層マンションの近くまで来た時だ。
僕と友達。二人の広げていた本から、文字がいっぺんに消えた。驚きの声をあげ、同時に足も止まる。「消えたよな?」とお互いの本を見せ合いつつ、ページをめくり出す。
それからわずかに遅れて。頭の上から人の悲鳴が聞こえたかと思うと、ばしゃんと数歩先で大きな水音が立ったんだ。
反射的に顔を袖でガードしつつも、そのすき間から見えたのは、小さい子供が目の前に横たわっている姿。
つい先ほどまでは、影も形もなかったはず。それに先ほどの悲鳴の主がこの子だとしたら、答えは簡単だ。このマンションのいずれかの階から落っこちてきたんだ。
僕たちが足を着けているのは固いアスファルト。そこへ頭から落ちたように見えたから、本来ならここに出血をはじめ、悲惨な光景が広がっていたはずだ。
それがない。子供が落ちた場所にはどうしたことか、彼の身体がすっぽり入ってしまうほどの水たまりができていたんだ。彼の身体の大半を沈ませるほど深く、そして真っ黒いものが。
とまどう僕たちの前で、池はひとりでに、みるみるそのかさを減らしていく。声を聞きつけた近所の人たちが飛び出してくる時には、もうその姿は完全になくなっていた。子供にこびりついていた黒い部分もなくなっている。
面倒ごとに巻き込まれるのはごめんと、その場を足早に去った僕たちだけど、改めて本を開いてみる。
そこには先ほど消えていた本の文字が、再び浮かび上がっていた。ただめくっていくと、ところどころにはさんだ覚えのない小石。そして元のインクより若干赤黒くにじんだ部分があったんだよ。