後日談 意識
途中でハート卿視点が入ります
膝上に乗ったあの日以来、ユノ様からの接触が目に見えて増加した。
彼が書き物をする際には、前回は体勢に問題があって結果麻痺した、ならばこれはどうか、こういう方法はどうだと代替案を提示され続けている。
結局どれも触れ合いに繋がっているので、快く頷けない。
「これは研究のためだぞ。つまり仕事の一環だ」と真剣に諭されたが、それでも許諾できない。
彼の仕事に協力したくないわけではない。
彼に触れられるのが嫌というわけでも決してない。
ただ、彼と接触していると、妙な気分になる。
それを論理的な思考に直すととんでもない事実に直面しそうなので目を逸らしているが、それもきっと長くはもたないと頭のどこかで分かっている。
自覚がある。
私は…汚らわしい女だ。
「奥様はこれまで恋をしたことってないんですか?」
そう問いかけてきたのはお茶をいれてくれた若い侍女、純朴な外見のエマだ。
若いといっても私よりは年上だ。というより、ここで働いている人で私より幼い人を見たことがない。同年代なのも一つ二つ年上な馬丁のジェフくらいだ。
いつも通り書庫にこもっていた頃に、「書庫の掃除を終えるまでここ使ってください、ていうか終わってもここで読んでください」と侍女達に追い立てられ、私はユノ様の研究部屋に近い一室に案内された。
室内が汚れていようが私は気にしないが、自分達が気にするとの猛抗議。特に場所のこだわりもないので、ありがたく日当たりの良い清潔な部屋で過ごさせてもらっている。
彼女らは本を運ぶついでにちょくちょくお茶やお菓子を持ってきてくれて、今日もそれを受け取ったところだった。
エマはふと口に出した様子だったが、彼女と仲が良くて一緒に行動しているペトラとシェリーに焦ったように両脇をつつかれ、あっと声を上げた。
「ああ、すみません!いや、あの噂もすっかりデタラメだったって分かってますし、それで、奥様が王子様に付き纏われてたのも知ってますけど、その…出会いはなかったのかなあって」
だんだん声量が小さくなっていく。
別に聞かれて嫌なことでもないのでそんなにかしこまらないでほしいと伝えると、照れ笑いを浮かべながら「それなら」と丸テーブルの対面に座ってきた。
成り行きを見守っていた親友二人も続く。
エマとペトラとシェリーの三人組を見ていると、かつて幼馴染の間柄で結託し、数々の秘境を踏破した冒険家ベエ・ハク・モーセのでこぼこトリオによる冒険日誌を思い出す。あれは創作物としては傑作だったが、記録としてはあまりにも奇抜だった。
そんな思考が渦巻く私を彼女らはじっと見つめる。ペトラはキリッとした、シェリーはふわりとした印象で対照的だが、どちらも目が輝いている。
「格好いい人はどれくらいいました!?」
「王太子はあれでも、優雅な他のご子息とか、紳士な先生とか!」
「毎晩校内でパーティーしてるって本当ですかー!?」
次々に質問を浴びせられて一瞬ひるむが、どれも答えが一致していることに気付いて、すまない気持ちになる。
「…分かりません」
「えっ、それはどういう!?」
「私、授業時間と消灯時間以外は図書室にこもっていて…あまり人と関わっていなかったのです」
すると、彼女達は「ああ…」と何故か納得したように顔を見合わせた。
見事な期待外れだろう。少しでも彼女達が喜びそうな何かがないかと記憶を絞る。
「…でも、殿下の側近には、見目麗しい殿方が多かったですよ」
「あらやだ!王子様ったら顔で選ぶ人!?」
「その美男子達に自分を囲わせていると!?」
「夜な夜な側近と一緒に秘密のパーティーをー!?」
彼女達はその情報で尋常でないくらい盛り上がり、興奮した面持ちで、王太子は変態だの婚約者には内緒だのこの国の未来が心配だのと騒ぎ始めた。
その手にいつの間にかカップが握られているのを見て、少し心が温かくなる。
結局彼女達が落ち着いたのは、騒ぎを聞きつけたマリエッタら他の侍女達がお茶会に参加して盛況になり、騒音に腹を立てたユノ様が怒鳴り込んでからだった。
「あいつらがぎゃあぎゃあ喚くのはいつものことだが、君まで参列しているとは思わなかったぞ」
使用人達を皆部屋から追い出し、二人になったところで、じっとりとした視線を送ってくるユノ様に「職務を遮って申し訳ない」と素直に頭を下げる。
だが彼もそこまで怒ってはいないのか、「別に謝罪はいらない」と私の額を柔らかく持ち上げた。
急に触れられて、思わず身を震わせる。
動作を敏感に察知したようで、ユノ様はその姿勢のまましばらく沈黙し、「…そういうことか」と頷いた。
何が、そういうことなのだろう。
嫌な予感がしつつ、それを問いかけると、目を瞑ったユノ様は平静な声で、
「君があの件を拒否していたのは僕に触られるのが嫌だったからだろう。あの日以来、君の様子がおかしいことには気付いていた。だが、理由が分からなかった…今悟ったよ。そういうことなんだろう…愛想が尽きたか?」
「…え?」
予想外の問いかけに、思考が止まる。
「それともあれか?君と初めて会った時に僕が言ったことか?あのパーティーで、君にも怒りという感情があることは確認できた。あの時のことを改めて思い出したら怒りが湧いてきたのか?そういうこともあるだろう。手酷い発言をした自覚はある。実際君以外の奴らはその場で激怒した」
やや乱れている髪の陰で、俯く彼がどんな顔をしているのか読み取れない。
ただ、声だけが妙に静かだった。
「…僕が嫌になったか?」
その言葉で頭の回転だけでなく、息も止まった。
「…君がどうしてもというなら考えないでもないが、僕は…」
「違います!そういう話ではありません」
「じゃあ、何だというんだ」
問われ、私は答えるのを躊躇った。
今ここで、自分の卑しい部分を直視して、明かさなければならない。
それはとても苦しいけれど…ユノ様を傷付けるよりは、格段にましだった。
***
彼女はなかなか答えなかった。
そんなにも僕には言い難いことなのか。嫌いになって、拒絶したいのでないとすれば、一体何の話なのか。
もし、本当に彼女が僕に幻滅していたら…いや、気を落とす必要はない。少し前までの生活に戻るだけだ。
人の心が永遠に変化しないなんてことはない。ちょっとしたことでも揺らぎ、移ろう、曖昧なものだ。
嫌われ、避けられるのには慣れている。だからこっちから先に避けてやれば、問題は生じない。
ようやく、彼女の息を吸う音が聞こえた。
「…私は、あなたに劣情を抱いたんです」
「…は?」
今なんて言った?
いや、聞き間違いだろう。あまりに想像とかけ離れている。
そう思って顔を上げて彼女を見ると、病なのかと錯覚するほどに赤面していた。
真っ赤な彼女はヘーゼルの眩い大きな瞳を伏せ、ギュッと唇を噛み締めて胸の前で白い手を組み、羞恥に悶えていた。
「…いや、え?は?君、何を言って…」
「あなたに触れられると…その、胸が、心臓が、痛くて、本当に痛くて、おかしくなってしまって。ものすごく恥ずかしくて…耐えられなくて」
もはや涙すらたたえながら、細かく振動している彼女は掠れた声で続ける。
さっきから思考が追いつかない。
誰が誰になんだって?
「触れている間、あなたはただ真剣に取り組んでいるのに、私がこんな具合では、と…過剰に意識する自分がみじめになってしまって。わ、私だってこんな自分が嫌で嫌でたまりません。きっと普通の方なら何てことない接触に、浮ついて、心を乱して、勝手に悩んで…でも、本当にそうなんです」
確かに、実際に彼女に触れている時、僕は妙に頭が冴えて異常な集中力を発揮したが…それが、彼女の、なんだってそんなことに。
「だから、あの件についてはお断りしていたのですが…そのせいでユノ様に懸念させてしまって、本当に申し訳ございません。全て私の責任です」
深々と頭を下げ、たわやかな茶髪を揺らして、背筋を伸ばした彼女は至極真面目な顔つきで宣言した。
「ユノ様を不快にさせたままというわけにはいきません。これからは耐えます。ですから、あの件もお受けします。大丈夫です、年表を使えばギリギリ平常心でいられるはずですので」
別に不快ではないとか。
我慢してまで協力してくれることはないとか。
年表とは何のことだとか。
そもそも僕なんかに触れられてドキドキするとか価値観が捻じ曲がっていないかとか。
言いたいことは色々あったが、その告白がとてつもなく衝撃的で何も口から出てこなかった。
彼女は深呼吸し、グッと拳を握りしめてから、意を決したように顔を上げ、
「それと…私は、ユノ様をお慕いしています」
「は?」
突然付け加えられて、頭が真っ白になる。
落ち着こう、こういう時は素数を数えるんだ。2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37…
数字が脳内に広がる僕を横目に、彼女は語り続ける。
「私を受け入れて、守ってくれたユノ様を嫌がるなんて、ありえませんから。ユノ様が私に愛想を尽かして、出ていけと命じられるまで…ここに置いていただければ、と思います」
「いや、僕がそんなことするわけないだろう」
反射的に返すと、彼女は一瞬固まった後、柔らかく目を細め、しかし気恥ずかしいのか視線を泳がせて「ありがとうございます」とか細い声色で礼を述べた。
何ともいえない空気が漂っている。互いに部屋の中で一定の距離を保って突っ立ったまま対峙しており、動こうにも動けない。
彼女は、よくできた子だと思う。辺境に追いやられて、こんな男の元に嫁がされても、僕を煙たがることもなく、下手なダンスの練習に付き合わされても不満一つ漏らさず、あのパーティーの時は僕の隣でずっと支えていてくれた。年若い女の子が…。
これだけ健気で、清廉で、しかも外見も優れている彼女ならば、本来は嫁の貰い手など腐るほどにいただろうに。
自らを格下と固定して、何をされても受け入れ逆らわないという欠点はあったが…しかし、彼女は僕のために怒ってくれた。これまで怒った経験はないと告白した彼女が、いくら自分を貶されても微動だにしない彼女が、僕のことになった途端に。
…しまった。連動してうっかり思い出してしまった。
おのれ、忘れろと命じた本人が覚えていてどうする。
否、僕は悪くない。
あれはパーティーの変な熱にあてられたせいだ。
そうだとも。僕が考える前に行動することなどあり得ない。僕には理性がある。本能で動く輩とは違うのだ。
それも、こんな小さな女の子相手に衝動を抑えられなかったなど…。
そういえば彼女は何歳だったか…確かあいつらが言っていた。「奥様はまだ十六歳ですよ!」そう、十六歳。4で四等分できる素敵な数字。
そんな年頃の娘を三十近い男が抱きかかえている図。
あの日、僕が彼女にしでかしたこと。
…あれ、これまずいんじゃないか?
良い集中方法が見つかったぞ、くらいの気持ちでいたが。
ダンスとは違って、いつもの研究の一環という心持ちで、いたのだが。
くたびれた引きこもりの未経験な男が清楚で可憐な乙女を腕の中に?
…駄目だ、年齢的には合法なのに、犯罪にしか見えない。
まずい、一回意識するとここ数日の彼女に対する行為が全部悪手に思えてくる。
いくら彼女が受け入れてくれようとしていても、だ。
何故僕は彼女がここに来た最初の頃、即座に、ことに及ぼうとしたのか。
投げやりだったのと、彼女の気持ちなんかどうでも良かったからだ。
今は無理だ。
「やっぱりあの件はなしにしよう」
「え?」
今し方の彼女の決心を無駄にすることにはなるが、今まで自分が何の気なしにやっていたことがとてつもなく由々しき行いに思えてきた今、実行することなど不可能だ。
そう、焦る必要はないのだ。
彼女がもう少し大人になってからだったら、多分僕と並んでいても違和感はなくなるだろう。
うん、時間を置こう。
決して逃げるわけではない。
彼女が心身共に成長し切るまで待つだけだ。
逃げじゃない、うん。
僕は正しい判断をした。
…それなのに彼女は何故そんな残念そうな顔をするのか。
「分かりました」
だがそれも短い間だけで、彼女はあっさりとその感情を表から排除して承知した。
本当に、聞き分けが良くて助かる。
良すぎて心配になるくらいだ。
***
ユノ様の誤解も解け、あの件も白紙に戻った。
今回のことで、私も決意を新たにした。
ユノ様がずっとここに私を置いてくれるのならば、私もその分、彼に返す。
何があろうとも、彼を思い続ける。
それが彼に報いる道だと信じて。
一生を彼に捧げるのだ。