番外編 私の性悪な婚約者
レア(王太子の婚約者)視点です
「学園生活も残り一年か。嫌だな、あと一年で自由が失われるのか」
「今まで散々暴れてきたのだから、粛々と受け止めなさいよ」
「暴れるとは人聞きの悪い。これでも制御しているさ」
「嘘でしょう?」
「ああ、嘘だ」
そんな会話をザックとしながら食堂に向かっていると、「やあ兄上!聞きましたよ、トレヴァー君との一件。いやあ、まさか兄上が人の嫌いなものをわざと贈ってその反応を楽しむなんて悪質なことをするとは思わなかったなあ」といつものごとくヘラヘラしたニコラスが廊下の角から姿を現し、立ちはだかった。
瞬時に彼がニヤニヤと笑顔になって言い返す。
「ああ、聞いてくれよニック。彼がかなりのトカゲ好きだからこの間俺も探して見せてみたんだよ。そうしたらこれはカナヘビだって激怒してな、全く、どっちでも同じようなものじゃないか。なあ?」
「あはは、兄上でも間違えることがあるんですね。トカゲよりカナヘビの方が尻尾の面積が大きいんですよ、覚えてろ!」
最後に捨て台詞を吐き、素早くニコラスは消えていった。
その後ろ姿に吹き出し、「あいつは本当に馬鹿だな」と彼はけらけらと笑う。
第二王子のニコラスは王太子に一度も勝ったことがない。正式な勝負から小さな賭け事に至るまで、彼は兄に敗北し続けている。
彼らの関係性を表すエピソードとして、こんなものがある。
かつて国内で対戦型のパズルが流行ったことがあった。幼いニコラスはそれに熱中し、大人相手に連勝し、並居る強敵を試行錯誤の末どんどん打ち破っていった。これなら得意かも、とニコラスはとても嬉しそうだった。
だが、後ろで見ていただけのザックが「もっと効率的な戦略があるのではないか」と言い出し、初歩の知識しか押さえていない状態でニコラスと戦い、新たな戦法でいとも容易く弟を打ち負かしてしまった。
どれだけ先にニコラスが始めていたとしても、ザックはすぐに習得し、あっさりと追い抜いてしまう。
彼が兄に反発心と憎悪を抱くのは、そう遠くなかった。
そして、正攻法では兄に勝てないと諦観するのも。
悟ったニコラスは本来の自分を偽った。「僕は馬鹿です。馬鹿なので、馬鹿なことしても許してくださいね」という態度をとり、「厄介者」や「ぼんくら」、「出来損ない」としての立場を確立した。
そうして、ことあるごとにザックに難癖をつけ始めた。虎視眈々と彼を引きずり下ろす機会を狙って、城でも、成長して入った学園でも、どこでも彼の粗を探した。
もっとも、これだけで兄を崩せるとは思っていないだろうが、それでもボロを出してくれたら儲け物、くらいの心持ちでいるのだろう。成功した試しはないが。
兄弟の言い合いが発生する場面に遭遇したことがあるのは、何も彼の婚約者である私だけではない。この学園の生徒なら、一度は目にする光景だろう。
ある日は授業終わりの廊下で、ある日は昼下がりの食堂で、ある日は夕暮れの中庭でちょくちょく催されているため、大半の生徒は慣れっこになっている。
その現状にザックは何とも思っていない(むしろ注目を浴びて喜んでいる)が、ニコラスは相当疲弊しているようで、人通りのない階下で無表情に壁を殴っている姿をたまに見かける。
そんなに辛いならやめればいいのに、と思うが、一時期ニコラスがふざけるのをやめて一切ヘラヘラしないまともな生活を始めた時、それを寂しがった彼の方から絡みにいって強制的に弟を元に戻したことがあったので、やっぱり諸悪の根元はザックであり、彼をどうにかしない限り、ニコラスの平和は訪れないのである。
私の婚約者は人と接するのが好きだ。
無駄に見た目が良く、秀麗なので、外見に騙された人が大量に寄りつく。
どれだけ取り囲まれても、邪険にはしない。
彼らと世間話をするのが好きだからと嘯くけれど、私は知っている。
ザックは、彼らをからかって遊ぶ方がよっぽど好きなのだ。
私と彼が初めて会った時、王城の庭で彼は、側近候補であった温室育ちの少年数人の目の前で落とし穴に落ち、泥だらけで「誰だこれを掘ったのは」と怒鳴りつけていた。
青ざめ、震える少年を一人一人尋問した後、聞きつけた世話役が彼らを追及するのを遠目に、「ま、あれは俺が掘ったんだがな」と茶色い肩をすくめた。
悪趣味だと軽蔑したら、後日婚約者に指名された。
それだけでは終わらない。
私の婚約者は、自分に好感を覚えていない人間が大好きだ。
誰かが自分を嫌っていたり、避けられたりすると、大いに喜んでその人に付き纏う。これでもかと一緒に行動して、構い倒す。しかし我慢の限界を見極めるのがうまく、爆発しそうになるとスッと身を引く。
とても厄介だ。
何が厄介かって、その人が仮に、彼と話していくうちにほだされて彼に好意を抱くと敏感にそれを察知し、一瞬で冷めるのだ。
そして自分を嫌う次の人を探しにいく。
残された人はせっかく彼を好きになったのに急に素っ気なくされて、「どうして!?何が悪かったの!?」と悩み、婚約者の私のところへ相談にくる。
「もう一度殿下と仲良くしたい」と訴えられても、「じゃあまた彼を嫌いになれ」とはとても言い難いので、あの人は移り気で仕方のないことだから諦めろと諭し、「私で良ければ仲良くしましょう」と提案することで落着する。
おかげで学園内における私の人脈はかなり広くなってしまった。
それについてザックは笑顔で、
「レア。君は本当に人望があるな。やっぱり君が相手で良かった」
誰のせいよ、と声を荒げるのは、はしたないかな、と感じたので、拳一つで勘弁してあげた。
ザックの今度の標的は、クローブ侯爵の次女、ソフィアという娘だった。
ニコラスこと第二王子の婚約者であり、成績優秀、容姿端麗、教師からの受けも良いフレイアの妹ということで密かに注目していたが、彼女は授業時間以外はどこかへ行方をくらませており、好奇心の強い令嬢がサロンに誘っても用事があるとかでやんわり断られるので、その実態がいかなるものか、誰も把握できていない。
でもフレイアの妹ならきっと関わったら面倒なので、放っておく。
そんな娘を、自分に興味を持たず、自分との(というより他人との)接触を避けるソフィアを、彼は引きずり出した。
潔く彼の一団と共にお茶会をする姿を見て、令嬢達は「私達が誘った時は断ったくせに!」と憤りを募らせる。
多分、彼女は王族関係者という肩書きに弱いんじゃないかなと思う。だから王太子の婚約者な私が誘ったらおそらくついてくる。誘わないけれど。
「ところで、浮気なの?」
「ニックみたいなことを言わないでくれよ、レア。これまで相手にした人達と同じように、彼女とお茶する時は二人きりにはならないし、必ず屋外で行っている」
「まだ彼女はあなたのことを嫌っているの?」
寮の私の部屋にて、だらしなく椅子の上で伸びる彼に問いかけると、「ああ」と多少姿勢を正して笑う。
「予想するに、長期戦になるだろう。彼女は全く俺に関心を持たない。俺と話している間も、全然違うことを考えている気がする」
「そう。楽しい?」
「ものすごく」
「やっぱり浮気ね」
「違うよ」
彼の彼女に関する話を聞いていると、まるで人形に話しかけているようなものではないか、という感想が浮かんでくる。
何にせよ、フレイアとは異なる人種のようだ。
そう簡単に心を開かない、長期に渡るということは、彼と彼女の交流が人の目に触れやすいということ。この件は監視を続けるニコラスの格好の餌食になりそうだ。
そのうち絡んでくることだろう。
「何か弁解はございますか?」
フレイアが高々と告げた時、彼女は可哀想なくらいに動揺していた。
国王陛下がたまに学園を訪問して生徒の活動を見守る日(生徒の間では授業参観日と呼ばれている)には必ず、学園長は全校生徒が参加する集会を開く。
そこでニコラスは己の婚約者であるフレイアと共に前に出て、ザックとソフィアを槍玉に挙げた。
いつもと違うのはニコラス、ザックのやり取りに侯爵家の姉妹が加わっていることだが、どうせ今日も同じ結末を迎えるのだろうと生徒はとぼけた顔で見物し、学園長は陛下の機嫌を伺い、陛下は「んもー」とため息を吐いた。
だが、私は違和感を覚えていた。
ニコラスが「兄上、その人と随分仲がよろしいんですねえ?甥姪の誕生に期待しましょうか?」と当てつけるのなら、いつもと変わらない。
けれど今は、フレイアが矢面に立っていた。
妹は罪人だと、罰するべきだと堂々と明言していた。
ニコラスは平然と控えているが、予定通りなのか。この主張はいささか、大袈裟ではないのか。
まあ、大方誇張だからザックが一蹴すればそれで決着するだろう。
皆が見つめる前で、フレイアが胸中を告白する。その隣でニコラスはヘラヘラ笑い、対面のザックはニヤニヤ笑い、彼の隣でソフィアは何とか直立してはいるが、顔色が悪く、今にも倒れそうだ。
ザックはフレイアが話し終わった瞬間に反論を開始しようと息を吸う。
どこまでいっても想定内。
その場にいる誰もが、次の展開を読めていた。
ザックが華麗に言い返し、ニコラスが悪態をついて退散していく姿が、誰でも目に見えていた。
そう、授業が終わったらすぐにどこかへ引きこもり、食事をとるのも忘れて何かに熱中するような生活を送っていなければ、誰でも。
「それでも貴女はお父様の実の娘。跪いて許しを乞うなら恩赦は…」
「申し訳ございませんでした」
ソフィアが膝を折った。ザックが咄嗟に止めようとするが振り払われ、彼女は流れるようにして額を地面にくっつけた。
生徒が、教師が、ざわつく。
彼女にはプライドというものがないのか。
少なくともこの学園にいる令嬢ならば一様に、床に手をつくことさえ嫌がるのに。
フレイアがよろめいた。ニコラスがそれを支えるが、彼もまた笑顔が消え、唖然としている。
そして、ザックは。
口を小さく開けて、青い目を丸くし、身動き一つせず、これ以上ないほど動揺していた。
彼のそんな姿を見るのは初めてだった。私と彼が揃って王城の池にはまった時も、ここまで焦りはしなかった。むしろ爆笑していて、激怒した私に叩かれていた。
ソフィアがフレイアに命じられるまま退場しようとする後ろ姿に、ようやく彼は我に返り、
「待て。待て、どういうつもりだ、君は」
けれどソフィアは振り返りもせずに去っていった。
それを受けて、笑う者がいた。
「ふ、ふふ、はははははっ!あはははははは!!」
ニコラスが久しぶりに生き生きとした表情で、兄を指差した。
「どういうことか、説明いただけますよね兄上!彼女は、何故、謝罪したのか!」
そう、そこだ。そこなのだ
彼女は素直に謝罪した。これでは、本当に王太子とソフィアはただならぬ仲にあったと暴露するようなもの。
生徒もあまりに予想外の事態にざわめきが止まらない。
「ねえ!答えてくださいよ兄上!ど、う、い、う、こ、と、で、す、か!」
「…俺も説明してほしいね。さっぱり心当たりがない」
「まさか!知らないんですか!?王太子たる兄上にも、知らないことなんてあるんですねえ!びっくりですよ!」
あんなに楽しそうなニコラスは何年ぶりだろうか。
絶好調、という単語がぴったりと当てはまる。
「はー、心当たりがないなんて、そんなことあるはずないじゃないですか。とぼけるのもいい加減にしてくださいよ兄上。だって、見たでしょう!?彼女は謝罪したんです!罪を認めて、あんなに身を削って、謝ったんです!これで彼女との間に何もなかったなんて言い訳、通用しませんよ!」
ザックは、苦虫を大量に押し込まれ噛み潰すも溢れたような表情で、「俺と彼女が二人きりになった時間など存在しない。お前は本当に調べたのか?」と反論する。だが、それでは弱い。
それでは論点のすり替えにもならない。
「兄上、どうしたんですか?いつもの余裕綽々な兄上はどこへいったんですか、ねえ。筋道立てて反論してくださいよ、いつもみたいに、僕を言い負かしてくださいよ、ほらほら!」
「ニック…お前…」
「あははははは、そうですよねえ、言葉も出てきませんよねえ。常に気を配って何があっても痕跡を残さず身綺麗にしていた兄上も、まさか当事者に裏切られるとは思っていなかったんですねえ。まさか姦通していた彼女に皆の前で公にされるなんてねえ、あーはっはっはっはっ!」
「本当に?」「そんな馬鹿な」「あの殿下が?」「浮気?」「嘘でしょ?」「ついに下克上か?」という生徒の声がそこかしこから聞こえてくる。
やがて彼らの視線は一か所に集まった。
もし本当にザックとソフィアが繋がっていたならば。
一番の被害者は誰か。
一番怒るのは、誰か。
大勢の目に見つめられ、私は、一度まぶたを閉じてから彼に届く程度の音量で声を上げる。
「ザック、あなた、やっぱり浮気だったのね」
「レア…」
彼の、今は揺れている涼やかな碧眼が私を捉えた。じっと見つめ合う。
不意に、彼はふっと笑った。
そして、表情を消した。
「戯れが過ぎるようだな、ニック」
平坦な声で淡々と告げる彼に、ニコラスがひるむ。その顔には緊張が走っている。
いつもの笑顔でも、先刻までの焦り顔でもなく、無表情。まさか逆鱗に触れたのか、と彼は恐れを抱いている。
しかし、優位に立っているのはこちらだ、とニコラスは再び攻撃を開始した。
「戯れ?ええ、今までの僕はそうでした。でも今は違うでしょう。何と言っても、ソフィア嬢は…」
「謝罪した。だが、それは本当に俺との関係についてか?」
「…何が言いたい」
あまりにも堂々としたザックの姿に、ニコラスが汗を垂らす。
ザックは弟の隣で、ずっと睨みつけてくる令嬢に目を向け、
「俺は彼女にそれほど詳しくない。だが、彼女とフレイア嬢の仲が良くないことは知っている。姉妹なのに話しているところも見たことがないからな」
「ええ…フレイアと彼女にわだかまりがあるのは事実ですが、それがどうしたんです?」
「彼女はフレイア嬢に後ろめたいことでもあったのではないか?」
「だから、何なんですか」
「仮にそうだとしたら、フレイア嬢に責め立てられた彼女があっさり謝罪したのにも理由がつくだろう」
「いや、姉妹ですよ?幼い頃から一緒に育ってきた姉妹同士。いくら何でも…姉妹喧嘩で平伏する人がどこにいるっていうんですか」
「不仲ならばそういうこともあるだろう」
「度が過ぎますよ」
「それはお前の方だろう」
そこまでやり合ったところで、絶句していた陛下が「もう良い」と盛大な嘆息で割って入った。
「埒があかぬ。おぬしらがじゃれ合うのは構わぬが、他者を巻き込むな」
「お言葉ですが陛下!私の義妹は当然の罰を受けたまでです。いえ、あの程度では罰とも呼べませんが…」
「うむ。それも踏まえて、後日ゆっくりと話し合おうぞ。今は控えよ」
鶴の一声。その後解散となったが、生徒達の話題が今回のことで持ちきりになったのは言うまでもない。
「なかなか刺激的な時間だった」
後ろ向きになって椅子の背もたれにのしかかりながら、ザックは微笑む。
「でも、随分急な出来事だったわね」
「ああ、本当に…予想外だったよ」
長い足をぶらぶらさせながら、彼は斜めに座る私を面白そうに見やる。
「君が俺を裏切者と殴ったら、違う展開になっていただろうな」
「生憎、付き合いが長いのよ」
ザックが浮気なんてできるはずがない。
あの、自分以外の人間は皆遊んで楽しい玩具か、楽しくない玩具に分類して、自分を嫌う人間を口説き落とすのが大好きなくせに陥落したその後は一切興味を失う彼が、まともに人と不義を働けるものか。
彼が人を人として愛せることはない。私も含めて。
幼い頃から、周囲の人間にその身分で、その容姿で、その賢さで、一様な好意しか向けられず、彼らを自分と同種だと認識できなかった彼は、人に純粋な愛情を抱けない。
彼の言葉は、誰よりも薄っぺらい、模造品だ。
「それで、どう始末をつけるつもりなの?」
「そうだな…少々面倒なことになったが…」
「もしここで失敗したら、残り短い学園生活もおしまいね」
彼は大きく首肯し、退屈そうな顔つきになった。
「そう、それが困るんだよ。自由にしていいのは卒業するまで…その先はもう人をからかうことも、誰かに付きっきりになることも、面白そうな人間と遊ぶこともできなくなる。今までの素行を反省し、心を入れ替えて、体面を完璧にしなくてはならなくなる。だからせめてそれまでは目一杯楽しみたかったのだが…」
「策はあるの?」
顎に手を当てて長らく思考していたが、やがて「仕方ないか」と感情のない小声でこぼした。
「オーウェンに頑張ってもらおう。彼は確かソフィア嬢に言い寄って振られていた」
オーウェンというのは彼の側近の一人の名前だが、あまりにも平静に言うので、反応が遅れてしまった。
「…言い寄るって」
「ああ、まずは体から手に入れようとしたらしいな。全く、女性と接した経験が少ない人間はこれだから困る、と呆れていたが…摘発しなくて良かった。こんなところで役に立つとは思っていなかったが」
「…そうね」
ソフィアとただならぬ関係になっていた(未遂)のはオーウェン。
ザックはあくまで、彼女としばしば交流していただけ。
オーウェンの奇行を目撃した者が、彼がザックの命令で動いていると勘違いしたのだろう。
この事態を引き起こし、罰を受けるべきなのは、オーウェン。
そういうことにするのだろう。
その後、身の潔白を主張した王太子に側近オーウェンは生贄として差し出され、全ての責任を押し付けられ、謹慎処分となった。
ザックには直々に陛下から長時間に及ぶ厳重注意がなされた。
落ち度を認めたソフィアの方は、フレイアとクローブ侯爵、および関係者と第三者によって会議がなされ、辺境の貴族と婚姻を結ぶこととなった。実質王都からの追放だろう。
フレイアの苛烈な性格は私もよく知っているので、よく彼女がそれで妥協したものだと驚いた。
彼女はいつも自分が頂点に立たないと、一番でないと気が済まない。
そんな彼女が、今まで散々不満に思っていただろう妹の処遇を嫁入りで済ませるとは…。
きっとクローブ侯爵が粘りに粘ったのだろう。尊敬に値する。
オーウェンが切り捨てられ、ソフィアが追放され。再び平穏が訪れた。
ザックとニコラスの関係も変わらない。ニコラスは多少疲労していたが、すぐに道化に戻った。
ただ、己に対する聞くに耐えない噂や悪評を大量に耳にしたフレイアは、流石に塞ぎ込むようになった。
あの騒動が人々の記憶から薄れ、大衆が次なる事件に目を光らせていた頃。
王城で開催されたダンスパーティーに、とある夫婦が参加した。
妻の方は少しばかり前に王都を騒がせた張本人だったが、人々は夫の方に注目していた。
何故って、その姿すらも見たことのない者が多かったからだ。
数字狂いのハート卿が若妻を連れてやってきた。
妻の方は終始微笑み、どこにでもいる貴族と変わらないが、ハート卿は違う。笑顔を浮かべるでもなく、愛想を振りまくでもない。受け答えも定型句ではない。格好は貴族然としているのに、何と物珍しい。
人々がハート卿に殺到する傍らで、ザックは案外元気そうなソフィアに目をつけ、
「ぜひ挨拶をしたいものだな。構わないだろう、レア」
憎たらしいほど爽やかな笑みを浮かべ、彼は私の手を引いて、陛下への謁見を済ませたばかりの彼らの元に見参した。
「やあ、やはりソフィア嬢だったか!」
「元気そうで何よりだ…君には悪いことをした。深く反省していたのだよ」
「何て顔をしているんだ、君は何も悪くないさ」
「まだ分からないかい?あれは茶番だ」
「だが俺も、まさかあんな場で平伏する度胸のある女性がいるなんて予想もしていなくてね…」
流石兄弟というべきか、今のザックは、あの時兄を散々に煽ったニコラスそっくりだった。
彼の一方的な物言いに、美しく飾り付けられたソフィアはあからさまに混乱し、狼狽していた。
予想よりずっと人間らしかったハート卿は、彼の勝手な言葉に明白な怒りを示す。
それを受けてザックは「邪魔者は退散しよう」とわざとらしく私の方を振り返り、悠々とその場を立ち去る。
「ああ、すっきりした。やっぱり人に皮肉を言うのは楽しいな」
「本当に趣味が悪いわね」
「もうこれきりだから勘弁してくれよ」
「卒業したら迷惑をかけた人にきちんとごめんなさいするのよ」
「君もついてきてくれるかい?」
「いやよ」
「そんな殺生な」
彼の気分が晴れたところで、ダンスが始まる。
三曲目に入ったところで、まるで私達に対抗するような形で近くにハート卿とソフィアが踊り出てきた。
それを見やって、珍しくザックが眉をひそめた。
何事かと私も視線を送り、息を飲んだ。一瞬動きが乱れる。
ソフィアが笑っていた。
今までの取ってつけたような、貴族ならば誰しもが浮かべるような見せかけの笑顔ではなく、本物の笑顔。学園でも一度も見たことがなかった、彼女の微笑。
彼女だけでない。ハート卿も笑っていた。
これ以上の幸せはないとでも言わんばかりに、他の者などどうでもいいと、互いだけを見つめ合って。
ダンスそのものは、体裁は整えられているが、決して巧さで上位に入るものではない。
それでも、あまりにも幸福で、あまりにも楽しそうで、あまりにも、満ち足りた光景だった。
誰があれに勝てるだろうか。
誰があれに対抗しようとするだろうか。
誰が、あれを真似できようか。
少なくとも、私には、無理だ。
ザックも思うところがあったのか、曲が鳴り終わる前に、早々にダンスをやめてその場を離れる。
「ああいう者は、今までにも見たことがある」
遠くから踊り続ける彼らを見つめたまま、素っ気なく彼は呟いた。
「彼女はおそらく自分ではなく、他人に重きを置くタイプだ。そういう種類の人間は少ないが、いないわけではない」
二人が踊り終わった。
ソフィアがこちらを見る。
彼はため息を吐いた。
「誰とも関わろうとしなかった娘が、誠実な男と結ばれ光を得る。なんて真っ当な幸せなんだろうな」
人に捻じ曲がった好意しか抱けない彼と、彼の歪みを矯正しようとも思えない私。
上っ面だけの私達では、決して届かないもの。
肩をすくめ、私は彼の綺麗な顔を見上げて、尋ねた。
「そこまで落ち込むなんて、やっぱり浮気?」
すると彼は軽く笑い飛ばす。
「やめてくれよ。俺は君を誰よりも、何よりも、世界中を敵に回しても、愛しているのだから」
「嘘でしょう?」
「ああ、嘘だ」
「まあ、あなたがどうであろうと、私はあなたを愛しているわ。世界で一番ね」
「嘘だろう?」
「ええ、嘘よ」
そんな会話をしながら、私達は称賛を浴びる彼らに背を向け、人ごみに交じって逆方向に歩き出した。
次は主人公後日談の予定です