後日談 接触
途中でマリエッタ(メイド長)視点が入ります
ダンスパーティーから数週間が経った。
ユノ様と屋敷に戻り、一ヶ月間鍛えてくれた使用人達に礼を述べて、私達は日常に帰ってきた。
けれど、あの夜から、色々なものが変化したように感じる。
私はユノ様と一緒に食事をとるようになったし、たまに時間を割いて取り留めのない話をするようにもなった。
相変わらず、彼は研究部屋に、私は書庫にいる割合が一番大きく、それも幸せだけれど、私は彼と少し会話をしたり、目を合わせるだけでも、ほんのり温かな気分になる。
彼も同じ気持ちでいてくれるといいなと思う。
***
王都から帰ってきてから、旦那様の様子がおかしい。
部屋にこもって研究をしているのは前と全く変わらないが、時折、奇声が聞こえてくる。その度に心配して扉をノックすると、「やめろ、来るな!」と叫ばれる。密かに覗いてみると、旦那様は書類だらけの机に突っ伏し、呻いていることが多い。
そのくせ、奥様との食事の際はやけにキリッとした顔で現れて、何てことないように振る舞い、奥様が話しかけると短く返事をしている(奥様も慣れているのかどれだけ素っ気なくても気にしない)のに、奥様がいなくなった途端に頭を抱え、苦悶する。
やめてほしいのは深夜の屋敷を徘徊することだ。ちょっとした用事で部屋を出た瞬間に旦那様と鉢合わせした時は心臓が止まるかと思った。
その被害は私だけでないようで、何人かの使用人から苦情が寄せられている。
とうとう我慢しきれなくなった私達は、眠る前の旦那様の部屋を襲撃した。
使用人に取り囲まれ、旦那様は「何だお前ら、血迷ったか」と身構えたが、
「旦那様。最近、様子がおかしいですよね?」
と私が代表して尋ねると、うっと声を漏らして顔を背けた。
「旦那様はまだ若いとはいえ、ずっと引きこもってますから、まさかとは思ったんですが…」
息を吸って、勇気を持って告げる。
「ボケてますか?」
「は?」
「深夜徘徊はその兆候です」
「旦那様、俺ら嫌ですよ。旦那様の介護を奥様がなされているところなんか見たくありません」
「奥様は十六歳ですよ!旦那様だって三十になってないってのに、こんなに早いなんて…ううっ」
「もしこのまま進んだら奥様は未亡人?」
「世継ぎはどうするんですか!」
「僕達、大旦那様に顔向けできませんよ!」
旦那様は途中から鬼のような形相になっていたが、一人が「でも奥様、旦那様がボケたら、ちゃんと面倒見てくれるんですかね…」と呟いたところ、一気に色を失った。
発言したのは馬丁(弟子)の青年、ジェフだ。彼は旦那様が滅多に遠征しないので、よく仕事のやりがいがないと嘆いている。そのため少々旦那様への当たりが強い。
「奥様なら見てくれるだろ」
「でも、俺忘れてませんよ。旦那様が奥様に子供産んだら用済みだの性奴隷だの暴言吐いてたの」
旦那様は「そこまで言ってない…」と唸ったが、出会った当初、奥様に酷薄な言葉を叩きつけたのは紛れもない事実だ。私も同席していたのではっきり覚えている。
まあ、それには理由がある。
実はこれまでも何回か縁談はあったが、旦那様はこの手法で見合い相手を追い払っていたのだ。
私がいくら取りなしても肝心の旦那様がこれでは、令嬢も激怒して出ていってしまう。
同僚も同じ考えにたどり着いたようで、半眼で、
「まああれは例によって結婚面倒だから相手から見限って欲しくてわざわざ刺々しい言い方したんでしょうけど、言っちまったもんは取り消せませんからね」
「そもそも奥様今もそれ分かってないでしょ。あのパーティーで多少仲良くなったようですが、そんなこと言う人の介護なんてしますかね?」
「いや流石に…」
「でも旦那様と長年付き合うなら不満が積み重ねられて最後には…」
そんな風にわいわいと談議していると、旦那様がどんどんいたたまれなさそうになっていったので、一旦止める。
改めて旦那様に問う。
「それで、旦那様は一体何を悩んでいらっしゃるのですか?」
グッと唇を引き結び虚空を親の仇のごとく睨みつけていたが、彼はやがて肩を落とし、白状した。
「集中できないんだ」
「えっ」
「数字狂いの旦那様が?」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない。何をしていても集中できない…彼女のことばかり頭に浮かんでくるんだ」
私達は顔を見合わせ、一瞬の間の後、手を叩いて喜び合った。
「旦那様がそんなこと言うなんて!」
「こりゃあすげえ。お祝いだ!」
「旦那様を真っ当な人間にしてくれた奥様に感謝!」
「酒持ってこよう酒!」
「黙れ、笑い事じゃない!!」
浮かれる私達を、旦那様が一喝した。すぐさま元の陣形に戻り神妙な顔つきになる私達を苦い顔で見つめ、旦那様は盛大なため息を吐いた。
「もしこのままだったら、僕は死ぬ」
「はあ!?何を言い出してるんですか」
「やっぱりボケてるんじゃ」
「僕の研究がもし停滞し、進められなくなったら、人類にとっての損失だ。周りからも散々に言われ、後世にも僕の失態が残るだろう。そんなのは死んでもごめんだ」
つまりまとめると、
「ボケはボケでも、色ボケしてるってわけですか」
「それで研究が進まず、悩んでいたと」
「確かに旦那様がそんな状態だってバレたら絶対ネタにされますね。貴族の皆さんはそういうの大好きでしょ」
「最先端の数学者が色ボケ引きこもりに」
「数字狂いのハート卿が奥様狂いのハート卿に」
「うわ、ダサい」
言いたい放題の私達にちょっとショックを受けるあたり、旦那様は相当参っているようだ。
しかしそういうことなら私達も協力できる。
「旦那様。それなら色々試してみましょうか」
「何だと?」
「どうやったらまた集中できるようになるか。私達で案を出します」
旦那様は嫌そうに顔をしかめた。少しは信頼してほしいものである。
「ユノ様に、ですか?」
とある研究のため奥様にも手伝ってほしいと頼むと、彼女はつややかな淡い茶髪を揺らし、首を傾げた。
その手には何年前のものか分からない古臭い本が開かれており、彼女もまた旦那様と同種であることが伺える。
ここに来て初めの頃は、奥様は「悪女とされているが実際は巻き込まれた被害者で、旦那様との結婚も仕方なしに受諾した普通の令嬢」だと思っていたが、今ではそれは間違いだったと分かっている。
普通の令嬢は一日中埃まみれの書庫にこもったり、この屋敷が「うん年前に誰それが作ったものだ」と知って興奮したり、睡眠中に「〇〇年、何ちゃらかんちゃらの停戦」などと寝言をこぼしたりはしない。
「私は構いませんが…お役に立てるかどうか」
「いえもう、奥様でないと駄目なんですよ。奥様にしかできないんです」
「…分かりました。やってみます」
真面目な表情で頷く。
出会った当初、ニコニコ明るく笑って挨拶していたのが嘘みたいに、普段の彼女はそれほど笑わない。しかし読書中はちょくちょく微笑んでいるので、そういうところも旦那様と似通っているのだろう。
奥様を連れて、旦那様のいる部屋に直行する。廊下で同年代の同僚、ジェフの師でもあるダンとすれ違い、「旦那様を逃すんじゃねえぞ」と視線で合図される。
勿論、遂行させる。頷き返し、再び歩く。扉の前について、私は旦那様に声をかけた。
「旦那様。奥様を連れて参りましたよ」
中でドタバタと音がした。ガシャンと物が落ち、何をしているのか、旦那様の悪態が聞こえてくる。
「旦那様。入りますよ」
予感がしてドアを開けると、窓から旦那様が身を乗り出していた。
逃走確認!
「出合え、出合え!」
速やかに使用人が集合し、ジタバタと暴れる旦那様を確保する。
「あんたは何考えてるんだ!」
「そんなに高さはないとはいえ窓から逃げようとする人がいますか!」
「この臆病者!」
「恥知らず!」
「うるさいうるさいうるさい!」
旦那様は喚き、屈強な男達の腕の中でもがく。
「だいたい、作戦がおかしいんだ!何だ、あのふざけた内容!僕を馬鹿にしているのか!」
「やってみなきゃ分からないでしょうが!」
「ほら奥様もわざわざ来てくださったのに、あんたが逃げてちゃどうしようもないですよ!」
その言葉に、ピタリと旦那様の動きが止まった。
男達から解放され、旦那様は、もはや意味もないのにすまし顔で奥様に向き合う。
奥様は平静だった。そのヘーゼルの瞳はどこかきらめいており、おそらく「この騒ぎ、〇〇の乱に似ている」などと考えているのではないだろうか。
「…君には悪いが、少々実験したいことがあったんだ。別に今日でなくてもいいんだが」
「私はいつでも構いませんので、ユノ様の都合に合わせます」
「そうか、じゃあまた別の日に…」
追撃が入る。
「あんたこの後に及んでまだそんなこと言うか!」
「本当に懲りない人ですね!」
「こんなんじゃ十年経っても進展しませんよ!」
耳元で騒がれ、旦那様は頭痛がするとでも言いたげにこめかみを押さえ、しばらく呻いてから、
「…膝の上に乗ってくれないか」
と、ようやく本題を切り出した。
***
妙なことになった。
何故か、私が、椅子に座るユノ様の膝上に座っている。
本当に、何故、こんなことに。
分からないことだらけだった。マリエッタがやけに張り切っていたのも、使用人達がまるで騎士団のように統制された動きをしていたのも、旦那様がこんなことを言い出したのも。
重くないですか、辛くないですか。邪魔ではないですか。そんな問いかけが浮かんで口に出かかるが、ユノ様が凄まじいスピードで書類に何かを書き込んでいくので、それを邪魔するのも気が引けて、結局何も言えない。
何か別のことを考えて気を紛らわせようとしても、彼の体温が、呼吸が、動作が、すぐそこから伝わってきて、思考がかき乱される。
何か別のことをしようにも、客観的に見て、私は彼に包み込まれるような体勢になっている。
つまり、触れている箇所がとてつもなく多い。
無闇に動けない。
どうしようもなく、あの夜のことが浮かんでくる。
忘れろ、と言われて、記憶の底に封印しようと努めてみたけれど、やっぱりユノ様と接すると、ふとした時に思い出してしまう。
頬に触れた細い指。
クッと持ち上げられた顎。
ほんの少しだけ触れた…。
駄目だ駄目だ、忘れろって言われたのに。
…仕方ない。
最終手段だ。
王太子御一行とお茶会の際によく活用した、暇つぶしにやるあれをしよう。
目を瞑り、淡々と年表を、その年に何があったのかのみを思い起こす。
深く、深く没入する。
…年、グリフビーズの停戦。将軍フーウィーの誕生。ミカッツ村の災害、消滅。
モノスの大虐殺。
リオニス二世の初陣、凱旋。ヅィ・エラーの帰還計画始動。マルセ…
「これで完成だ!」
反復が打ち切られる。
ユノ様は私の耳のすぐそばで、「何ということだ。まさかこんなに集中できるとは…!君は何かそういう成分でも発しているのか?」と弾んだ声で聞いてくる。
声が近い。声が、近い。何だこれ。
「ふう、これは大発見だったな…あいつらが提案してきた時はついにクビにしてやろうかとも思ったが。試してみるものだな。また頼むぞ」
今何て言った。
また?これを?
本気で?
愕然とする私を満足げに膝から下ろし、ユノ様は晴々とした雰囲気で背伸びした。
扉の方を見やると、例によって覗いていた使用人達が「やってやったぜ」とでも言いたげにポーズをとる。
私の味方はどこにもいなかった。
数分後、長時間私を乗せていたことによる足の痺れでユノ様が崩れ落ち、しばらく歩けなくなったのは、また別の話だ。
次に投稿するのは王太子辺りの番外編の予定です