終結
ダンスが始まった。
彼の動きは初めはぎこちなかったが、やがて周辺で同じように人々がステップを踏み出すと、集団に溶け込めたことへの安心感からかだんだん滑らかに私をリードしていった。
動作の繰り返しに必死で強張っていた表情も今では、笑顔こそ浮かべていないものの緊張が抜け、悪い気分ではないことが読み取れる。
「お上手です」
「世辞はやめろ」
「本当ですよ」
そんな問答を小さく交わしているうちに、次の曲へと切り替わった。ややテンポの遅くゆとりのある前曲とは異なり、今度は跳ねるように軽やかで、可憐な音楽だ。
再びユノ様の顔が固くなった。
今まで同じく踊っていた集団からも何人かが抜け、穴が空いたようにまばらになる。
しかしそれも短時間の話で、すぐに新たな人が参加してきてスペースは埋まっていく。
それでも、ユノ様はさっきのようにそれで落ち着きを取り戻すことはなかった。
「くっ…」
彼の視線が一点に向かっているのでその先を追うと、フロアの中央に、王太子と婚約者の令嬢のペアが踊っていた。流石というべきかどちらも所作が洗練されており、決して付け焼き刃でないことが伺える。観客と化している人々の注目の的だ。
「比べる必要などありませんのに」
「うるさい」
彼はそっぽを向いて大きく一歩を踏んだ。慌てて合わせる。少し遅れて、動きがずれる。体勢をどうにか整えてから「…悪かった」と彼が俯いた。「それが私の仕事です」と答えると、思い詰めた顔になった。
また曲が変わる。
しっとりとしていて、明るく晴れやかで万人受けする曲調とはずれているが、それでもどこか心惹かれる、物寂しく妖しい調べ。
先の曲を春の目覚めの朝と例えるならば、これは秋の夕暮れの風だろうか。
作曲者は誰だろう。私は音楽系にはそこまで強くない。
華やかなパーティーでこんな曲が流れるとは、という驚きはあるが、私は好きだった。
ユノ様も、同意見のようだった。
「ふん、まるで僕らのために用意された曲じゃないか。主役は僕らだな」
「ロマンチックなことを仰いますね」
「たまにはいいだろう」
日常とかけ離れた時間に身を置いて、多少気分が高揚しているのもあるのだろう。ユノ様はあどけなく笑い、私の手を引っ張った。
会場の真ん中、王太子に近い場所に移ってダンスを続ける。
相手方はこちらをチラリと見た、ような気がする。よく分からない。
どうしても視覚に王太子と彼女の姿が入ってそわそわする私に、ユノ様は片手で私の頬を触って強引に自分の方を向かせた。
「どこを見ている。君は僕を見て、僕のために踊れ」
「あなたのために?」
「僕だけのために。僕も君のためだけに踊ろう」
ここに来たのも、最初からそのためじゃないか、とユノ様は囁いて、体を揺らした。
ユノ様のことだけを思って。
動きに合わせてふわりとなびく紺色の髪を、こちらを見下ろして細められるグレーの瞳を、普段は眉間に寄せられることが多いが、今は楽しそうに上がっている形の良い眉を、出会った当初は少しだけ荒れていた薄い唇を、腰に添えられた、一般の男性よりほっそりとして骨張った、それでいて頼もしい腕を、彼の全てを、全身で受け止める。
彼だけを視界に収めて、彼のためだけに身を捧げる。
彼と片手を繋いだままくるりと回り、黄色いドレスの裾を広げ、また彼の腕に戻る。
彼もまた、私だけを見てくれた。
夢のような時間だった。
でも、あっという間に終了してしまった。
音楽が鳴り止んでも、私はしばらく夢見心地のままだった。
それを覚ましたのは、観客の拍手と、名前を呼んで称賛する声だった。
彼らの注目は、いつの間にか私達の方に移動していた。
付近にいたはずの王太子を探すと、既に遠くにいたが、目が合った。
何故かつまらなそうな顔をして背を向ける。隣の令嬢は私の視線に気づくと肩をすくめて、彼の後を追った。
「…楽しかったですね、ユノ様」
「そうだな…」
私も彼も重大な事件を終えた後のようにぼうっとしていた。でも、それは不快な類ではなかった。
激しい疲労に見舞われたのは、その後、ダンスを見物していた客達に取り囲まれてからだった。
しばしの休憩時間を経て、また新しい曲が流れ出したが、私も彼ももう踊る気はなかった。もう充分だとお互いに理解していた。
常設されている酒ではない飲み物をちびちび消費しながら、彼とは別々に、続々とやってくる貴族の方々に対応する。
中には、私の父と交流があって昔に話したことのある方もいて、「あんなことがあったから心配していたけど、杞憂だったね。こんなに幸せそうに踊るんだもの」とからかわれて、ちょっと恥ずかしくなった。
彼の方も顔見知りがいたのか、その表情は穏やかだった。
ダンスも終わり、私の方の挨拶も一段落ついた。あとはユノ様を待って、二人で帰るだけ。
波乱もあったけれど、満足のいく夜だった。
余韻に浸っていた私は、突然に腕を掴まれ、バルコニーに連行されても、まだ事態が飲み込めていなかった。
「貴女は、どれだけ私の心をかき乱せば気が済むのよ!」
そう夜空の下で叫ぶ彼女の姿を目の前にして、ようやく私は理解し、血の気が引いた。
姉は私をあの日と同じか、それ以上の憎悪を込めた瞳で睨み付けた。
「貴女が、辺境で、大人しく、家の中で、暮らすというから!私は、それで、済まそうと、我慢していた!それが、何よ!話が違うじゃないの!貴女は…どうして貴女はそんなに幸せそうなのよ!」
「お、お姉様」
「誰が貴女の姉よ!」
失言をした私の肩を掴んでがくがくと揺らす彼女の腕は怒りでぶるぶる震えている。
私は何を言えばいいのか分からず、彼女のなすがままに、手すりの際まで追いやられた。
「私の気持ちが分かる?散々こき下ろされて、貴女は悪くなかったのではないか、私が過剰だったのではないかという噂を流されて、関係のない人達から白い目で見られて!それでも貴女はきっと私より酷い環境にいる。罰を受けている。そう思って耐えて、ようやくここに出られるまで回復したのに、そこには貴女がいて、人々から褒め称えられていた!」
血を吐くような叫びだった。すぐ近くではまだ人々がダンスをしているのに、ここは妙にしんとしている。彼女の叫声も暗闇に吸い込まれていくくらいに。
「貴女は…どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのよ!」
彼女の白い手が私の首にかけられる。
下がって回避しようにも、背中に柵が押し当てられていて、これ以上の後退は不可能だ。
彼女は、私の喉を容赦なく絞める。お前が邪魔だと、お前さえいなければと、凄まじい力を持って私を追い詰める。
自然に視界が上を向く。あまりにも広い星空が映る。これが、私が見る最後の景色になるのか。
嫌だ。
姉の腕を掴もうとする。
でも、力が入らない。酸欠で思考が回らない。
「やめないか」
きっぱりとした制止の声。
彼女の力が弱まり、私はひとまず危機から逃れる。
けれどその声は、私の待ち望んでいたものではなかった。
「フレイア。何をしているんだ。駄目だろう、こんなところでやったら。ああ、申し訳ないですねソフィア嬢。僕の婚約者が」
彼女の婚約者。王太子の弟。
彼女と一緒になって、あの時私を糾弾した、第二王子。
彼は王太子によく似た顔に薄ら笑いを浮かべながら、姉の腕を取って私から引き剥がした。
「しかし驚いた。君がハート卿の生贄になったと聞いたから同情もしていたのに、実に見事なダンスでしたよ。あれで家では虐げられているとしたら、君はとんでもない女優だな」
第二王子がそう言うと、姉はそうだった、とばかりに身を乗り出し、
「何が数字狂いのハート卿、あれのどこが狂人なのよ!全然違うじゃないの!貴女…!…貴女は、本当に恵まれているわね」
恨みを煮詰めてどろどろにしたような、彼女の声。
それについては、私も肯定するしかない。
私は、恵まれている。多くの人に気遣われ、優しくされて、此度の結婚も罰として受けたのに、実際は決して罰なんかではなかった。
「…そういう、星の元に生まれたんでしょうか」
かつて彼と交わした会話を思い出して、ぽつりと呟く。聞きつけた姉は、忌々しげに端正な顔を歪めた。
「何よそれ。何なのよ、それじゃあ貴女は何をしても幸せになれるとでも言うの?おかしいじゃない!不平等だわ!」
「…フレイア様は、幸せではないのですか?」
「貴女がそれを言うの!?」
しまった。また失言だった。
今日は迂闊な言動が多過ぎる。私はどうしてしまったのだろう。心の中で何を考えていても、上辺には出さないことは慣れているはずなのに。
「あはは、やめてくださいよ、人聞きの悪い。それじゃまるで僕が彼女を幸せにしていないみたいだ」
第二王子にもにっこりと微笑まれ、薄ら寒くなる。
「…そうよ。私より貴女が幸せなんて有り得ないわ。私の方がずっと、ずっと貴女より優れているもの。貴女より顔が広いし、貴女よりダンスも上手だし、貴女より愛されている。対して貴女は、皆に同情されているだけの欠陥品」
大きく呼吸をして、姉は私を鋭く見つめながらも、嘲るように口角を吊り上げた。
「ソフィア!」
あの人の声が聞こえた。
それとほとんど同時に、彼女はせせら笑って告げた。
「ハート卿だって、ろくな人じゃないんでしょう。今日は外見だけ整えて、ダンスもしていたけれど、どう見ても稚拙だったじゃない。貴族として当然の嗜みもできない、人付き合いも並にできない、カリスマもない、あるのは数字への偏愛だけ。ハッ、死んでも嫌だわ、あんな人と結婚なんて」
気づいた時には、彼女は至近距離にいた。
彼女が驚いている。
ということは、距離を詰めたのは、私だった。
「あなたに何が分かるんですか!」
考える前に言葉が出てきた。
彼女の肩を掴み、彼女に撤回させようと私はその体を揺さぶる。
「何も知らないのに勝手なことを言わないでください!あなたの想像なんて蹴散らすくらい、彼は、聖騎士アビエルより素敵で、賢者ムーンノック以上に知的で、皇帝リオニス一世を上回るくらい格好良くて、けれど彫刻家イリアのように繊細で、それでも私を気にして、守ってくれるんです!」
声は彼女の先ほどの音量より勝っていた。中にいる人々に聞こえていないだろうか、と頭のどこかでぼんやり思う。
「あなたがどれだけ私より優秀であろうと、私が人より劣っていようと、ユノ様は関係ないでしょう!」
「な、何よ!夫婦でお似合いだって褒めてあげたんでしょう!ろくでなし夫婦!」
「だから…!!」
互いに突っ掛かって、揉み合いにも発展しそうになった時、スッと何かが割り込んできた。
「もういい。そこまでだ」
「ユノ様…!」
険しい表情をして彼は姉から私を引き離し、見物していた第二王子に鋭利な視線を送った。
「趣味が悪いな」
「そうですか?いやあ申し訳ない。兄とは違って、ぼんくらなもので。しかし僕の婚約者とハート卿の奥方は姉妹。つまり僕らは義兄弟です。仲良くしましょうよ」
「断る」
「えー、即答ですか。ああ、兄ならこういう時上手くやるんでしょうけど、僕はほら、厄介者だから仕方がないんですかね」
「ふん、あいつとそっくりだよ。そういうところも」
「あはは、嬉しいなあ。さ、フレイア。行こうか」
笑顔の第二王子は流れるように、髪を振り乱して私を睨む彼女を半分引きずるようにして、中に戻っていく。
その背中に呼びかける。
「お姉様」
「だから、私を…!」
「私は、幸せです。きっと、誰よりも」
喚きとも悲鳴とも区別のつかない叫びが、遠く消えていった。
ユノ様は急にいなくなった私を慌てて探していたらしく、汗をかいていた。「もしこれが続くようならずっと手を繋いでいなくてはならない」と真面目な顔で言うので、「今回だけですよ」と笑った。
「…ところで君。さっき、怒っていたな?」
「え?」
思い返す。
彼女にユノ様を侮辱され、カッとなった。頭に血が上って、制御できなくなった。判断する前に、大声が口から出ていた。
そうか、あれが。
納得する私に、ユノ様は妙に口をもごもごさせている。
ダンスの曲が小さく聞こえてくるバルコニーで、すっかり闇が支配している世界を眺める。夜風が火照った体を涼ませ、心地良い。
しばらくの沈黙の後、ユノ様は意を決したように、
「あれは、君、僕のことで怒っていたようだが、気のせいか?」
「ええ…そうですね。ユノ様のことを貶められて、耐えきれず」
自分を貶されても、それはそうだと、当然のことだとしか思わず、粛々と受け止めていたのに。
彼女がユノ様の話題を持ち出した途端、頭と体が熱くなった。体が勝手に動いた。
余計な捨て台詞まで吐いてしまって、彼女はさぞ立腹しているだろう。何故あんなことを言ってしまったのか、という気持ちもあるが、当然の返しだ、という気持ちもあり、実に複雑だ。
ふと、彼の指が私の頬を這った。
何かと見上げようとした時、顎が持ち上げられる。
一瞬。
瞬きをする間に、彼の顔は離れていった。
「…何ですか、今の?」
「…分からない」
ユノ様は顔を背けている。髪の間から覗く耳が赤い。
「…体が勝手に動いた。忘れてくれ」
「え…」
「忘れろ」
そんなことを言われても。
じわじわと、彼が触れた箇所から熱が広がって、頬を撫でる風がより冷たくなる。
彼は天を仰いでいたが、やがて誤魔化すように咳払いをした。
「ここに来てから調子が狂いっ放しだ。さっさと帰ろう」
「はい…」
ぼんやりとしたまま返事をする。
数歩先に進んでから、彼が振り向いて手を差し出した。
私はその手を取り、再び中へ彼と一緒に歩む。
繋いだ手はどちらのものとも分からないくらい熱を帯び、もう離されることはなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これで完結となりますが時々後日談や番外編も投稿するかもしれません。予定は未定。
ですが少なくとも後日談一本は投稿します。