表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

接近

 ハート卿と一緒にダンスパーティーに出ることになった。

 今まで彼は真面目な会合以外の招待状が来たら即座に破棄していたが、今回はそれを受け入れる形になる。

 しかしダンスとは。ハート卿は運動するイメージがないが、踊れるのだろうか、と思っていたら、やっぱり彼は初心者だった。


「旦那様!奥様の歩幅を考えてください!」

「はい、はい、ほらそこの動きが遅いですよ!」

「こら、やる気を失うんじゃない!振り付けをめちゃくちゃにしない!」


 こんな具合で、心得のある使用人達からバンバン改善点を指摘され、地獄の底から湧いて出たような呻き声をあげながらも、旦那様は初歩のステップの練習に勤しんでいる。


 一方、私はというと。


「おお、流石奥様!完璧です!」


 一応少し前まで学園で令嬢をやっていたので、それなりに知識も経験もある。ではダンス以外の場面はどうか、と使用人に抜き打ちテストをされたがそれも合格し、あとはハート卿の成果を待つばかりだった。

 やることがないなら書庫に行きたい、という考えが頭を掠めたが、それをしたらハート卿に末まで恨まれそうなのでやめておく。


「何なんだ?こんなことをして一体何の役に立つんだ?この練習時間を執務に当てた方がよっぽど有意義なんじゃないのか?貴族は馬鹿ばっかりか?」


 ハート卿が荒れている。先ほどから絶え間なくその口から悪態が流れ出していたが「それを公共の場で喋ったらしーんとなりますよ、しーんと。旦那様は注目の的です」とマリエッタがなだめると、大人しくなった。

 意外に注目されるのを嫌うのだろうか。ハート卿なら「凡夫には言わせておけばいい」とでも言いそうだと勝手に想像していたが。

 そんなことを考えて見守っていると、指導を交代し終えたマリエッタに「ちょっと」と呼ばれた。


「旦那様はあれで繊細なお方です。他の方との会話の際には、奥様もついていてあげてくださいませ。見知った人が隣にいるだけでも勇気が湧いてくるでしょうからね」


 私は、可能な限り、と頷いた。




「ああ嫌だ嫌だ。今回出たらどうせ次回も出ることになる。あいつらはそれを分かってて僕に負けたらクビの大勝負を仕掛けてきたんだ」

「ですが、ハート卿はそれを受け入れられた」

「…やめられたら面倒だからな」


 眉を寄せてトントン、と眉間を細い指で叩き、不機嫌そうにしながらも、その口調にトゲはない。使用人達は彼にとって大切な存在なのだろう。


 練習の休憩中、私とハート卿は二人並んで座り、ぽつぽつと会話をすることが多くなった。

 今はハート卿の動きも上達し、私と実際に組んでダンスをしてみているが、やはり本物の相手がいるのといないのでは大きく違い、苦戦を強いられている。

 私は同年代の女性の中でも背の高い方だが、ハート卿がそれ以上に長身なので、合わせづらいというのが要因の一つ。

 それとハート卿が私と密着するのを露骨に嫌がるというのが一つ。


「あいつらは僕の研究にも一応理解がある。雑事を手伝ってくれることもある。それをぽっと出の新人なんかに任せたらめちゃくちゃにされるのは目に見えているからな」

「研究というと、やはり数字の?」

「数学だ」


 私にその分野の知識はないため、算術とどう違うのか分からない。口数の減った私を彼は珍しく愉快そうに眺めた。


「水辺に石を投げ込んだとするだろう」


 唐突に別の話が始まり、それと何の関係があるのかと思いながら続きを促す。


「その時、水面には波紋が広がる。想像できるか?」

「ええ」

「それを数式で表すことができると僕は踏んでいる」

「えっ!」


 どういうことだ。

 混乱する私にハート卿は噛み砕いて説明をしてきた。

 が、私の頭脳ではそれでもほとんど理解できなかった。

 波紋の広がり方には法則があるとか、振動の方向は異なるとか、波がどうとか、音がどうとか。

 理解はできなかったが、朗々と語るハート卿の瞳はキラキラと輝いていて、本当にそれを愛しているのだなと実感させられた。


「この世界は数式で成り立っている。水も、風も、火も、全ては数字で表せるんだ」


 だから、数字以外は必要ないと思っていた、とハート卿は静かに付け加えた。


「君だってそうだろう。君にとって、歴史はそういうものじゃないのか?」

「…ええ」


 首を縦に振って肯定する。


「過去があるから現在がある。今この瞬間にも時は流れ、過去に変わっていく。歴史が積み重ねられて世界は構成されている。そして、歴史は繰り返されることが多いのです。ならば、歴史を学べば未来に何が起こるかも、予測できる」

「君は未来予知がしたいのか?」

「いいえ。ただ、知りたいのです。過去は変わらない。確かにそこにあったもの。だから…生きる人の心のように、曖昧ではない、信頼できるのです」


 ハート卿は腕を組んでしばらく沈黙していたが、僕らは本当に似たもの同士だな、と大きくため息を吐いた。


「君もそういう経験が?」

「自分を好きでいてくれた人にある日突然嫌われる。これまで冷たくしてきた人が急に優しくなる。誰にでもそういう体験はあるのでは?」

「そうだな。誰にでもある。月並みな過去だ」


 それを何てことない思い出の一片としてしまえるかは、人それぞれだがね、と彼はつまらなそうに補足した。

 それから、休憩が終わるまで無言の時間が続いた。

 部屋に戻ってきたマリエッタに呼びかけられ、ハート卿はゆっくりと立ち上がり、


「さあ、練習に戻ろうか。これが慕わしい過去として残るか恥ずべき過去として残るかは、僕ら次第だ」




 一ヶ月という期間はあっという間に過ぎていった。


 居残りの使用人に見送られ、屋敷を出て懐かしい王都に向かう。馬車に乗り、流れていく風景を見ていると、姉に断罪され、父に迷惑をかけてしまったあの日の自分が思い出される。

 隣のハート卿が私から視線を外して前を向いたまま問いかけてくる。


「何を考えている?」

「昔のことを」

「ふん、昔のことより先のことを心配しろ。恥をかいてからじゃ遅いんだぞ」

「ええ。何があっても私がフォローいたしますので、ご安心を」

「…僕の話じゃなくてだな…」


 ハート卿は顔色が悪い。まだ本番まで時間があり、王都の観光をする余裕もあるが、これでは大人しくしていた方が良さそうだ。

 指定された宿に一時待機する。城の使者に「参加する」と伝令を出したらそれはもう驚いていて、少し面白かった。

 宿についてもハート卿の落ち着きは戻らなかった。




 パーティー当日。

 本番は夜だからと焦りもなく過ごしていたが、実際に過ごしてみると一瞬のようだった。

 私とハート卿は朝から装いに時間を取られ、互いに顔を合わせる暇もなかった。

 馬車に乗り込む時にようやく、相手の姿を確認する。


 まるで別人だった。


 癖のあった紺の髪は丁寧に梳かれ、過度な装飾のない上品な黒を基調とした正装に、すらりとした体からは、普段の不健康そうな印象は一切見受けられない。誰に聞いても、彼は雅な上流貴族に違いないと答えるだろう。

 細められたグレーの瞳だけが、よく見慣れたものだった。


 これまで私は歴史に名を残した人々の肖像を多く目にしてきた。大抵が洗練され、物語の登場人物のように素敵だった。

 そのどれも、目の前にいる彼には敵わなかった。


 何故かハート卿の方も私を前にして言葉を失っていたが、やがて「…行くぞ」と手を引かれ、二人で一緒に馬車に乗った。


 パーティー会場について、そこに集うたくさんの人を目にした時、ハート卿は繋いだままの手を痛いくらいに握りしめた。


「私がいますから、大丈夫です」

「…分かっている」

「それに、ハート卿は悪夢にうなされるほど練習してきたのですし、心配せずとも…」


 視線を彷徨わせていた彼がようやく私の方を向いた。

 先ほどまで揺れていたグレーの目がしっかりと私の目をとらえる。


「…ハート卿じゃない。ユノだ」

「はい。ユノ様」


 短く言葉を交わして、一歩を踏み出す。

 彼に気づいた人々が一様に笑顔を浮かべ、その実、様々な感情を含みながら、こちらに近寄ってきた。




「いやあ、まさかハート卿にお目にかかれるとは思っていませんでしたよ!」

「ええ、何という幸運!それもこんなに立派な御仁とは!いやはや、国の未来は安泰ですな」

「こちらも会えて光栄ですが、流石に買い被り過ぎですよ」


 返しはやや素っ気ないが、それでも彼は頑張っている。練習の最初の頃に実に嫌そうな顔で「どうも」とだけ会釈していたことを思い出せば、彼がどれほど努力しているか分かる。

 ただ、笑顔ではないが、それは仕方ない。無理に笑顔を浮かべさせたら悲惨なことになったので、険しくならない程度の真面目な顔つきになってもらっている。

 それに、私がその分笑えば問題ない。


「それにしても、また随分と可愛らしい奥方を召されたものですな」

「確か、クローブ侯爵の…」


 気の良さそうに見えても、やはり彼らも貴族。どんな些細な情報でも足を引っ張る材料は見逃さず、隅々まで行き渡る世界に身を置く彼らが、私を知らないはずもない。

 陰ではきっと下品な女だと笑っているのだろう。


 私自身は何を言われても構わないが、ユノ様に迷惑をかけるのは本意ではない。


「その節は…」

「彼女は僕の妻だ。それ以上の肩書きがいりますか?」


 ユノ様が詫びを口にしようとした私を隠すように前に出た。見上げると、表情が強張っている。私は大丈夫なのに、と腕を引くと、ぎこちなく手を握られた。そうではなくて、と呟くも、不可抗力で頬が赤くなる。


「ハッハッハ、然り。全く王太子のお戯れも困ったものですな」

「いやあ仲睦まじそうで羨ましい、ハッハッハ」


 彼らは一切気にもしていないように笑い飛ばした。

 王太子。そういえば、彼もこの場に来ているのだろうか。

 そして、私を憎んでいる彼女も。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ