決定
次の日。朝食も昼食も夕食も相変わらず一人で済まし、再び夜が始まる。
あれから使用人に聞いて、知識は得た。が、あくまで知識。本当に実践できるかどうか、不安だ。
そわそわしている私とは対照的に、ハート卿はうんざりしているようだった。
どうやら、昨日の一件で使用人達から多大なる苦情を浴びせられたらしい。実家では父に使用人が意見するなんてことはなかったので新鮮である。
「君は何だ。一日接しただけなのにあいつらにこんなに気をかけられて、何なんだ。そういう星の元に生まれたのか?」
「どうでしょうか…」
なんだかんだ言っても実家も含めて使用人達には良くしてもらっている。確かにそういう可能性もあるのかもしれない。一代で貴族に匹敵する財を築き上げた商人テルセドも、自らを「幸運の星の元に生まれた」と称するほどラッキーな人物だった。
あれこれ考えていると、ハート卿はため息を吐いた。
「冗談だ」
どこがだろう。
「あいつらは僕をダメ人間だと思っているんだ。だから、僕の妻になった君を哀れみ優しくしているだけだ。自分が好かれているなんて勘違いはするなよ」
「はい。ありがたいことです」
これまでもそうだった。使用人達は同情から、私の世話を焼いてくれた。学園に入ってから王太子に目をつけられたのも、私が妾の子であることも多少は起因しているだろう。
改めて姉の立場で考えてみると、疎ましいだろう。人々は境遇を哀れんでいるだけなのに、まるで本当に彼らに愛されているかのように振る舞う腹違いの妹など、目障りだったに違いない。
当然の返答だと思っていたが、何故かハート卿は唖然とした表情のまま固まっていた。
「…君は自己肯定感というものを持っていないのか?」
「人並みにはあると思いますが…」
「では怒りか?君は怒ったことがあるか?」
怒ったこと。
周りには私よりも上の立場の人ばかりがいたから、私が怒ったところで不敬になるだけ。
だから、怒った記憶は、思い浮かばない。
無言で頭を絞る私に、やっぱりそうか、とハート卿はまたため息をこぼした。
「君には欠陥がある。だからこんなところにまでたらい回しにされたんだ。そうでなければ今頃絶縁を言い渡しているだろうさ」
「絶縁、ですか。ハート卿が私に」
「君が、僕に、だよ。あとハート卿と呼ぶのはやめろと言っただろう」
分からない。
私に欠陥がなければ、私はハート卿に絶縁を申し出ていた、という。
何故?
「本当に分からないか?普通の令嬢ならば、昨日、僕があんな対応をした時点で見限って出ていくんだよ。こんな男と結婚なんかできない。侮辱された、訴えてやるってね」
「ああ、そういうことですか。確かに、私は罪人ですから、どんな扱いをされても文句は言えません」
欠陥というのは罪のことだ、罪もない清廉な令嬢ならば、不当な扱いを受ければそれは怒るだろう。合点がいった、と喜ぶ私に、ハート卿は重々しく「違う」と否定した。
「君は自分が世界で一番下にいる人間だと勘違いしているんだ」
「世界で一番とは思いませんが、私は罪人ですので、立場が下であるのは事実かと」
「だからといって、謂れのない批判まで受け入れる必要はない」
ハート卿は椅子に深く腰掛け、鷹のように鋭い目をこちらから一切逸らさないまま、
「僕の妻を名乗るなら堂々としていてもらいたいものだね。僕は社交界には出ないが、君は出るのだから」
と、衝撃的な言葉を口にした。
話が違う、夜伽以外は自由にしていていいと仰ったではないか、と泣きついた私に、ハート卿は「これはそんなに嫌がるのか」と微妙に驚きつつ、
「その夜伽がうまくいかないのだから、他で役に立ってもらうのは当然だろう。引きこもりだの人でなしだのなんだかんだ言われて関係ない人間に押し掛けられるのはもううんざりなんだ」
「それはハート卿ご自身が出ないと意味がありませんよ!私だけでは…!」
「何なんだ君、急に感情豊かになったな。そんなに社交界が嫌いなのか」
別に社交界は嫌ではない。笑顔を貼り付けて相手に合わせれば良いだけ、今まで散々やってきたことと同じだから、それはいい。
私が嫌なのは、あんなにたくさんの書物と離れることだ。
時間は有限。あれを全て読破するのにどれほど時間がかかるか分からない。
そして人はいつ死ぬか分からない。
せっかくこれから天国のような場所で生活が送れると歓喜していたのに、途中で「やっぱり駄目」と取り上げるなんて酷いではないか。
そういったことを切々と訴えると、ハート卿は得心がいったとばかりに頷き、
「なるほどな。君の原動力はそこか。僕にとっての数字は、君にとっては歴史というわけだ。気持ちは分かる」
ならば、と期待を込めて顔を見上げる私に、彼は薄笑いを浮かべて続ける。
「だが初めに示しただろう。君は僕の子を産む。その代わりに僕は君を自由にさせる。君が知識不足で子を産めない以上、自由にさせるわけには…」
「あっっっっまーーーーーーーーーい!!」
扉がとんでもない音を立てて破られた。
雪崩れ込んできたのは、マリエッタを筆頭とした使用人達。
彼らは身を乗り出し、口々に、
「いいですか旦那様!子を産ませるためにまず重要なのは夫側の努力!妻も相応に奮闘はしますが、子供に関しては夫に絶対の責任があるのですよ!」
「それをあんたは妻が同衾の全てを担っているだの子を産む努力は妻がするべきだの、甘い!甘すぎる!」
「加えてそれを弱みとばかりに社交界へただ一人、強制的に送ろうとするなどあり得ない!」
「つまりですね、そのせいで奥様が社交界に出る必要があるというのなら、旦那様も出る必要があるということですよ!」
「いい機会です!ちょうど一月ほど先にお城でダンスのパーティーがありますから、そこに二人揃って出ること!」
「そして二人で、いいですか、二人で協力して!互いにいたわりあって頑張って子供を作ること!」
「以上!」
口を挟む暇を与えず、使用人達は扉を元通りに修復して消えていった。
「…ハート卿も、パーティーに?」
呆然としているハート卿に声をかけると、彼はやっと我に返り、音を立てて椅子から身を起こし憤慨した。
「なっ…何を馬鹿な!出るわけないだろうそんなもの!僕は絶対にこの家から」
「だーんーなーさーまー」
第二ラウンド。
「あんたが数字好きで部屋から出たくない、ずっと研究してたいってのは私らが充分に分かっていますよ!今までお世話をしてきたのは私らですからね!」
「でもね、こんな若い奥様を一人戦場に放り出して、自分は家に引きこもっておこうってんなら、私らも黙っちゃいない!」
「何よりこんな不健康な生活をずっと続けさせていたら大旦那様への顔向けができない!」
「旦那様が何と言おうと、私らはやりますよ!旦那様と奥様、二人をどこに出しても恥ずかしくない格好に仕立ててお城へ送って差し上げます!」
「ただしそこからはあんた達の力で乗り越えてもらわなきゃ、成長に繋がらない!」
「クビにしますか?いいですよ、こちとら覚悟はできてます!」
「ただし、私らのようにあんたが小さい頃からずっと面倒を見てきて、勝手が知れている使用人を皆解雇して、代わりに雇った使用人が旦那様にどれほどの時間をかけて馴染むか、見物ですね!」
「旦那様の好物も、嫌いなものも、旦那様が触れられたくない部屋も、書類も、なーんにも把握していない人達が旦那様の領域を無遠慮に荒らす光景が目に浮かぶようです!」
「それでも構わないってんなら、どうぞ解雇するがいい!」
「それで困るのは旦那様ですけどね!」
ハート卿はぶるぶると震えながらグレーの目を見開いて、「お、お前ら…!」と呻いた。
使用人が雇い主に歯向かい何らかの要求を押し通す。似たような事例だと、オクタヴィアス家の反乱が近いだろうか。休暇も与えられず働かせ続けた使用人達が給金の少なさに怒り狂って当主一家を閉め出し、労働に見合った料を払わなければ反抗し続ける、と屋敷を占拠した事件。
ぼんやりと立てこもり事件の全容を思い出している私の隣で、ハート卿は拳を振りかざして「こんなことをしてただで済むと思っているのか」と怒鳴った。
「お前達が僕に適した人材だとしても、他に探せばいくらでも…!」
「いくらでも?本当に?じゃあ私らは引き継ぎもしないで出ていきますね。そんなに有能な人がいくらでもいるってんならね!」
「い、いくらでも…」
「素直になりましょうよ、旦那様」
猛然と煽っていた使用人達だったが、各々、やがて寂しげな笑顔を浮かべた。
「…私らだって、出ていきたくはないんです。でも旦那様が心配なんですよ。このままじゃいけないと思うんです」
「やっと見つかった奥様じゃないですか。冷たくするより、仲良くした方がずっと良い未来を作れますよ」
「ぐっ…」
ハート卿は頭を抱え、最後の力とばかりに使用人達を睨みつけたが、彼らは全員、覚悟を決めた、引き締まった顔をしていた。
「……くっ、ああ、分かった、分かったよ!お前達の策略にかかってやる」
「旦那様!」
「君も。文句は言わせないぞ。主人の僕が我慢するんだ。君も我慢してもらう」
仕方ない、と言わんばかりに緩く首肯し、次いで苦々しくハート卿は私を見つめた。
書物に触れる時間が短くなるのは残念だが、ここまでされて拒否することは私にはできない。
「分かりました」
そして、次の日から特訓が始まった。