対面
その古びた屋敷は、実家の二倍はあった。父は侯爵だ。ということは、それ以上の身分に違いない。こんな辺境にいる上級貴族といえば、一人しかいない。
ユノ・ザンダー・ハート。通称、数字狂いのハート卿。
とにかく数字が好きで彼の生み出した数式はそれこそ数知れないと噂されるが、そもそも誰にも理解できないものがほとんどで、役には立たないのだとか。それでも彼の功績により飛躍的に学問は進歩しており、一生遊んで暮らせる大金を得たらしい。国王にもいざという時のためにその頭脳を重宝されているそうだ。
もっとも、「その時」が来るまでは屋敷に引きこもって怪しげな研究に没頭していて、社交界に顔を出したことは一切なく、容姿、年齢、好悪、その実体は謎に包まれている。資産目当てに近寄ってくる人間は、容赦なく追い払うという話だ。
屋敷の前で私を出迎えたのは、ハート卿ではなく、中年の侍女だった。彼女は何故か同情に満ちた表情で私の挨拶に頷き、速やかに中へ招いた。
歴史を感じさせる屋敷の外観とは異なって中はこざっぱりとしていた。建物の装飾自体は華美な箇所が多いが、それに伴う高価な装飾品の類は全くなかった。
もう少し外から眺めてみれば誰が建築を手掛けたのか分かるかも知れない、と思うくらいには内部の柱や窓辺に滑らかな模様が描かれている。
確か私の荷物には建築史に関連するものも持ってきてあるから後で見てみようか…などと考えていると、突然侍女が立ち止まった。
「旦那様!何故ここに!今日も一日中お部屋にいらっしゃると…」
「お前達がこそこそと何をしているのか気になって見にきたら案の定だ。勝手に中へ入れるなんて…」
旦那様。
では、これが、ハート卿。
想像していたよりもずっと若く、そして細身だった。三十にもなっていないのではなかろうか。多少癖のある紺色の髪に、切れ長のグレーの瞳。肌の色は白く、全体的にやや不健康そうな印象だ。神経質そうに彼は眉を潜め、トントン、と骨張った指で腰を叩いている。
彼は鋭い目をこちらに向け、苛立ったように問いかけてきた。
「君が、かの悪女か」
「旦那様!何てことを!」
「いいえ、事実でございます。この度は、私のような者を受け入れてくださり、誠に…」
「御託はいい」
笑顔で挨拶しようとした私を遮り、ハート卿はイライラと続ける。
「僕が言いたいのはただ一つ。僕の邪魔をするな。君が愚者でも腹黒でも構わない。僕は子供ができればそれでいい。夜、定時になったら僕の部屋に来い。それ以外の時間は好きにしろ。男を漁ろうが散財しようがどうでもいい。ただ、僕の邪魔はするな」
「旦那様!そんなあけすけな!」
「子供…ですか」
体目当て。ということは、無理に愛想を振りまく必要もないだろうか。
「そうだ。周囲の奴らが世継ぎ後継ぎと喧しいんだ。君は子供ができやすいんだろう?」
「な!旦那様!あなたって人は!最低ですよ!面と向かって!」
「うるさい。事実なんだろ?悪名高い君を引き取った僕に恩を感じているのなら、早く返してくれ」
少し誤解しているようだ。私は妊娠したこともなければ、経験もない。王太子の側近に迫られたことはあるが、なんだかんだと言い訳を使って回避した。流石に未婚で子供ができたらとんでもないことになる。
「申し訳ございませんが、私は未経験ですので、早くできるかは分かりません」
「ふうん、ならせいぜい努力しろ。僕だって暇じゃないんだ」
「分かりました」
ハート卿はそのまま立ち去ろうと背を向けて、「ああ、そうだ」と振り返った。
「結婚式とか面倒なことはしないぞ。いいな?」
「はい」
「では、以上だ」
「あの」
今にもいなくなりそうだったので、呼び止める。不愉快そうにハート卿は「何だ」と短く答えた。
時間を取らせて悪いが、これだけは聞いておかなくてはならない。
「書庫はございますか?」
「ああ」
「使わせていただいても?」
「勝手にしろと言っただろう」
「ありがとうございます」
頭を下げ、上げた時にはハート卿の影も形もなくなっていた。
やりとりをぽかんと口を開けて見守っていた侍女は、「最近の若いもん…こわ」と何故か戦慄した面持ちだった。
自室を与えられ、実家で持たせられた嫁入り道具を配置したあと、私は両手で持ち切れない書物の一部を抱えて教えられた書庫へ向かった。
入った瞬間に、思わず歓喜の声をあげる。
「おお…!」
思った通りだ。ずいぶん年季の入っているこの屋敷ならば、それに準じた今では手に入らない年代の本もあるに違いないと。
目の前には、私の背丈以上もある本棚がいくつも並び、吹き抜けとなっている階段の上にも同様の光景が見える。
ハート卿は言った。好きにしろと。夜には務めを果たさなければならないが、それまでは自由。
楽園だ。こんなところにいていいのか。姉は私のせいで苦しんだというのに、私は何の罰も受けていない。
いや、それとこれは別の話だ。本は悪くない。こんなにあるのだから、読まずにいられないのは仕方ないことだ。そうだ。
私は早速自分の所有する本を開いている場所に何往復かしてまとめて置くと、どれから手をつけようか吟味し始めた。
書庫には小窓がある。そこから差し込む光は微少なもので、あってもなくても気づかないほどだ。
だからといって、言い訳はできないのだが。
とりあえず端から読みふけっていた私は、中年の侍女、メイド長であるマリエッタの探す声でようやく日が沈んでしまったことに気づいた。
慌てて捜索していた使用人達に謝罪し、一人、夕食をいただく。
「きっと一日中泣いていたんだわ…見て、あの目。しょぼしょぼしてる」
「かわいそうに…無神経な旦那様にあんなこと言われて、平気でいられるはずもないわ」
「あの話だって、冤罪だって噂よ。王太子に脅されていたとか…」
何か話している声が聞こえるが、私はそれどころではなかった。
なんとあのリオニス三世に関する新たな手記を発見したのだ。とても古いもので外装はボロボロになっており、中身も何箇所か汚れがついていたが、それでも読めなくはなかった。
どうやらリオニス三世は悪逆な行為を繰り返す一方で、身内にはやたら甘かったらしい。母が危篤となれば戦線を放り出して駆けつけ、弟が怪我をすればすぐにその原因を排除し、娘がペットを欲しがったら国中の動物を集めて差し出した。
やはり一面から判断はできない。多層的に分析していかなければ…。
満月の夜。私はハート卿の部屋にいた。これから何をするかは言うまでもない。
身につけているのは実家の使用人が持たせてくれた中にあった黒いネグリジェだ。「うう、お嬢様が獣の毒牙に…」と涙目になりながらも彼女らはしっかり用意してくれた。
これから何が行われるのか、知識はある。本を読んでいてもたまにそういう話は出てくる。大抵「そうして女は男に身を委ねた」などという一文で締められている。
だから、今から私もそのようになるのだろう。
しかし、ハート卿は動かない。
眉間にシワを寄せ、腕を組み、バスローブ姿で椅子に座ったまま、動かない。身は既に私も清めた。ので、いつ始まってもおかしくない。のに、彼は動こうとしない。
少し寒くなってきた。素肌が晒されている腕をさすっていると、ようやくハート卿は口を開いた。
「いつまでそうしている気だ?早くしろ」
「あ、はい。いつでもどうぞ」
「は?」
「え?」
会話が噛み合わない感覚。
ハート卿はトントン、とこめかみを指で叩きながら苛立たしげに文句を言う。
「君が動かないと始まらないだろ」
「え?そうなんですか?」
「普通そうだろう?女は男に奉仕するものじゃないのか」
「ああ。確かに、そうですね」
そういえばそんな意味の台詞は何度か耳にした記憶がある。だが、だとすると困った。私から動けと言われても、何をすればいいのか全く分からない。そんな描写は本にはなかった。必ずといっていいほど省かれていた。
具体的に何をすればいいのだろうか。
「申し訳ございません。勝手が分かりません」
「何だと?じゃあどうするんだ」
「ハート卿から先導していただけると…」
「そんなこと知るか。あと僕のことをそう呼ぶな、耳障りだ」
「では旦那様。お願いです、私では最善が尽くせません」
頭を下げると、ハート卿は盛大に舌打ちをして、「もういい。出ていけ」と私を部屋から閉め出した。
明日には離縁だろうか、と落ち込んでいると、廊下の隅から覗いていた、マリエッタを筆頭とした使用人達と目が合った。
彼らは最初気まずそうにしていたが、私からことの顛末を聞くと、「何だそりゃあ!」と怒り、ハート卿に対して短小だと暴言を吐き、奴が何を命じても絶対に追い出したりしないと約束してくれた。ありがたい。