最高の悪夢に終わりを告げて
文章力向上のための短編集の第二編。
昔から自分の家名が嫌いだった。理由は幼少期の嫌な思い出で、他の人からすれば取り留めのないことだろう。だがそれは僕の心に深い傷を作った。大人になってからは表向きには笑顔を取り繕うことも出来るようになった。やはりそれはあの彼のお陰だろう。
当時僕の両親は怪しげな宗教に入れ込んでいた。教団に尽くせば体は消滅するが、魂は消滅せずに生をもう一度受けられる。一時期は親が商会を続けて在宅信仰するか、辞めて入団信仰するかと迷っていたが、商会を続けると言ってくれた時は心底ホッとした。
教団では幹部になると最高位の教徒である神官に姓を貰うことになっていた。在宅信仰にも関わらず、多大な寄付をしたことで父は幹部になった。父は自分のポテンシャルの高さを自覚していたため、少し商会の経営が悪くなっても些細な問題だったのだろう。そうして僕はチーズなどというイカれた姓を手に入れたわけだ。
チーズの姓に変わってしばらくすると、悪逆非道と名高い領主の館からの注文が来た。服飾関連についてはここらでは評判の我が商会に来たのだ。勿論注文は侍女服の大量発注だった。それも誰も着たことのない新しいもの。以前一枚だけ下ろしたものを改良するのはどうかとの案も出たが、それは領主に却下された。全てが新しくないと許せないと、伺いを立てに行った僕は頭からワインを被った。
結局新しい物が大好きな仕立て屋に頼んで完璧なものが出来上がった。全員が僕が以前びしょ濡れで帰ってきたことを知っているために、誰一人として行こうとする人は居なかった。
仕方なく僕が届けに行くと、上機嫌で領主は十数人の少女を呼んだ。そして僕は尋ねようとした。無礼なことは知っていたが、犯罪に手を染めているのではという少しの正義感と好奇心を抑えるのは困難だった。だが、部屋に入ってきた少女達は怯えや嫌悪を特に示さず、ただ純粋に新しい服を心待ちにしているように見えた。領主もその様子を見て嬉しそうに顔を緩ませていた。ツリ目のせいで良からぬことを企んでいるような顔になっているが、部屋の雰囲気は和やかだった。呆気にとられてその光景を見つめていると、不意に領主が口を開いた。
「赤毛のキャリーは借金の肩にウチに売られた。そばかすのあるココは家出して人攫いに攫われるところを偶然見つけた。それとーー」
「も、申し訳ありませんが少々お待ちください」
「気になっていたのだろう?」
つい話を遮ってしまい、僕はハッと息を呑む。だが領主は怪訝そうな顔をしただけだった。不敬だと投獄されるかもと内心ヒヤヒヤしていた僕は口を開けて呆然としていた。この人は悪徳貴族などではないのだと。ただ少し顔と言葉選びが悪人風なだけなのだと。
それから僕らは度々会った。お互い仕事が忙しくそこまでの頻度ではなかったが、僕らは充分友人と呼べるくらいだったのだ。
ある日、深夜に小腹が空いて食堂に向かった。食堂は下の階にあるため、出来るだけ音を鳴らさないようにゆっくりと下らなければならなかった。ふっと息を吐くと白くなり、食堂で軽食以外にホットミルクも飲もうと足を早めた。軽くガウンを羽織っただけの僕の手足は随分とひんやりしていた。
食堂から僅かに明かりと声が漏れていて、僕はなんだか驚かせたい気分になった。幼少期の悪戯の数々を思い出す。近づくにつれ、声がよく聞こえるようになった。完全には閉まっていない扉を開けて驚かせようと、取っ手に触れたところでその声が両親だったことに気づいた。嫌な予感がして僕は咄嗟に離し、そっと中から見えないように身を隠した。耳を傾けると、話題は僕のことだった。
「それじゃあ、レアを教団に?」
「そうだ。そろそろあいつも地位が欲しくなる時期だろう」
まるで僕が望んでいるかの話しように体の底の方から気持ちの悪い冷たさを感じた。僕は教団なんかに入りたくない。地位もいらない。再認識させられた両親の変わり様に、落ちそうになる涙を歯を噛み締めて留める。言い返す勇気もなくて、黙って部屋に戻った。悶々と考えてしまって眠れない、などということもなくベッドに入るとすぐに意識を失ってしまった。
その日から、僕は彼の屋敷に行くことが多くなった。屋敷に行っては、商談を整えて彼と紅茶を片手に雑談をする。僕が昔親の商会の仕事で訪ねた国の話をすると、彼は身を乗り出して興味津々といった様子で聞くのだ。僕は少し得意になって胸を張って身振り手振りで話し続ける。その時間だけが、僕が僕でいられる時間だった。
それが崩れたのは秋から冬になる頃のある日のこと。ベッドから何とか這い出て着替えようと寝間着を脱いだ僕は下から聞こえてくる怒鳴り声に気づいた。寝ぼけていたためか、騒がしく仕度をしているのだと思っていたがどうにも違和感を覚えて耳をすましたのだ。聞き覚えのあるその声に急いで階段を駆け下りると、人だかりが出来ていた。まだ止まっていない数個のボタンをしめてその中央へ走る。
「ですから息子は教団に入ることになりましたので商談は別の者に任せます」
「そんなことはどうでも良い!レアは了承したのかと聞いているのだ!そんなことも分からんのか」
「待ってください。父様、領主様」
彼は僕を見ると、すぐさま大股で近づいてきた。彼は僕の首根っこを掴むと、外に停めてあった馬車に放り込んだ。突然のことに呆然としていた父達はハッとしたように彼を止めようとしたが馬車が走り出す方が早かった。大きく揺れる馬車の中で僕はしばらく目を瞬かせていたが、彼が不貞腐れたように外を眺めているのが見えた。記憶を手繰り寄せてみるも、思い当たることはなくて、直接尋ねてみることにした。
「ロイド?何でそんなに不貞腐れているんだい?」
「馬鹿者、今更直しても遅いわ」
どうやら彼は先程の領主様という呼び方が不満だったらしい。公共の場でただの商会子息が気安く話せるわけがないとは理解しているようだが納得はしていないようだ。彼はまだ拗ねたような顔で僕に問いかけた。
「お前は良いのか」
「教団のこと?嫌だよ、僕だって。いっそ商会なんて継がずに逃げてしまいたい」
「いつ入るんだ」
「明後日。日が昇る前に行く」
そういうと、それ以上彼は何も話さなかった。僕も話す気分になれなくてその日はそのまま帰ることになった。一人息子の僕は、必然的に商会を継ぐことになる。だが臆病者の僕には全てを捨てる勇気がない。
その後の数日間は怒涛の勢いで過ぎていった。そして黒のローブを身に纏った僕は、手紙を書くことを決めた。書き出しはどうしようか。返事をくれるだろうか。何日も眠れない夜を過ごした。
拝啓 ロイド・ロレンティア様
枯れ木が風に吹かれる季節になりました。とは言ってもついこの間あったばかりですね。こちらに来てからもう何年も貴方に会っていないように感じました。あのように喧嘩別れになってしまったのは心苦しいです。もしまたお会いすることが叶うのならば、手紙を返していただけると光栄です。 敬具
考えれば考えるほど簡素で薄い文になってしまう。だが、これ以上考えても無駄だろうと思い配達員に渡してしまった。あぁ、泣きたい。泣き叫んでしまいたい。出来ることなら、教団ごと全て壊してしまいたい。
数日後、僕の世話係の先輩がノックもせずに勢いよく部屋に入ってきた。驚いて、持っていた小説を地面に落としてしまった。文句を言ってやろうと、立ち上がると僕は目を見開くはめになる。先輩の手には僕宛の便箋があった。領主の家紋を見て、奪い取るようにひったくり、中を確認するとそれは確かに彼の字だった。いつもは侍従に代筆させる彼が僕に手紙を書いたのだ。読み終わると、心配そうにこちらを見る先輩を横目に廊下に飛び出る。
さて、早く事務室に行かなくては。一応客人の立場だ。きっと通るだろう。いや、この街の領主だ。権力に貪欲な幹部達はすぐさま許可を出すに違いない。聖女様の救済の儀式を臨時で用意するかもしれない。サリュと言ったか。覚えにくい名前だなぁ。聖女様はたいそう美しいと言う。彼は惚れてしまうかもしれないな。本当にサリュに参加させろだなんて、相変わらず大変なことを言う。
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すれ違う人の視線も、びしょ濡れの服にも、その頃の僕は気づかなかった。
若かった僕は、随分と愚直だった。書き上げた原稿を眺めてはそう思う。黒く汚れた手の側面が目に入り、休憩でもしようかと席を立つ。ホットミルクをいれて席に戻ると、高価そうな服に身を包む彼がいた。
「よくこんなに覚えているな」
「君だって覚えているだろ?」
「ーーしかも何でずっと彼なんだ。名前で良いだろう」
否定も肯定もせずに彼は不服そうに言った。僕は少し笑って彼の持っていた原稿用紙をそっと取った。少し用紙に目を向けただけで何も言わない彼。僕は言った。
「癖なんだよ」
なんだそれは、と彼は笑った。昔の悪人にような笑いではない。癖なのは嘘じゃない。でも一番はくどいからだ。何度も何度も心の中でロイドと名前を呼んでいた時代なんて知られたいわけがない。彼の方が距離のある気がするだろう。彼もそう感じて、かつてのように不貞腐れてくれるだろうか。
始めまして、親愛なるロイド