鱗山からの略奪 前編
トンビが鳴いていた
空は晴れている
追いかけるように滑空する2羽の番いが、空高く旋回して去っていった
雲ひとつない青空のキャンバスに、絵具を落としたように二つの色が滲んでいる
赤青二つの巨大な月が、空の半分を侵食していた
太陽に照らされた昼間の月は、薄く霞んで浮かんでいる
アシムはチラリと上空の月を睨み、また視線を前方に戻した
身の丈2mはあるだろうその者の眼光は鋭く、巨躯から見下ろす景色の先には、道の向こうから走り寄る影がよく見えた
絡まるように根をうねらせながら、縄張りに入り込んだ獲物に向かって這い進むそれらに、アシムは特段の危機感もなく、近づいてくるのをただ眺めた
人間が鱗山と呼ぶ山の中腹で、登山道から外れた道無き道を登りながら、アシムは前方から来るトレントの群れに杖を向けて詠唱を始める
「し、師匠、あんまり派手にやるとバレますよ」
膨れ上がるアシムのマナに、後ろを歩く弟子のイワンが慌てたように口を挟んだ
小鬼にも怖れられるだろう、アシムの鋭い眼光がさらに細められ、不機嫌そうに片眉が吊り上がった
チッと一つ舌打ちをして、アシムは詠唱のランクを下げる
「撃ち漏らしはお前が捌け」
「はい」
イワンは左手を背後に回し、背負ったリュックにくくり付けていた片手剣を勢いよく引き出した
レフトハンドソード
それが旅に出る時のイワンの武器だった
剣に右利き、左利きなどあまり聞かないが、より左利きに特化した専用武器だ
アシムの前に出て、剣を前方の敵へ向ける
イワンが師事するのは鍛治師のアシム
鍛治師見習いとして弟子入りしたイワンの師匠はこだわりの強いひとで、これと決めたらどんなに危険であっても未知の素材を求めて世界各地を旅に行く
アシムのお供をするのに、丸腰では生きて帰れない
見習い一ヶ月でそれを悟ったイワンが、左利きの自分のために制作した武器の完成形だ
完成形、それは、イワンが作ったのではなく、アシムが打ったものという意味でそう表現した
イワンが作っているのを見たアシムが、左手専用武器というものに興味を示して打った、この世に一つの完成されたレフトハンドソード
白と黒が光に踊るしろがね色の刀身に、炎のような紅い刃文が染み出すように浮いている
何色も映さず全てを弾く白色の刀身は、装備者のマナの色だけを刃先に滑らせていた
アシムはそれ一つ作って興味を失ったようで、それきり左手剣を打つことは無かった
やると言われた訳では無かったが、取り上げられることも無かったので、自分で満足するものが出来るまではイワンの護身になっている
「ファイアストーム」
アシムの手に持った杖に嵌められた、青緑色の宝石が輝いた
プリムスラーヴス
アシムが戦闘中に主に扱う武器だ
2mを超えるアシムが持つと、まるで指揮者のタクトのように華奢に映った
戦士でも通用するだろう筋骨逞しい見た目に反して、豊富な魔力を持つアシムは主に魔術を行使する
術者の体格に不似合いにうつる華奢な杖は、全身黒ずくめの巨躯を背景にして、宇宙に浮かぶ水の惑星のように浮かび上がった
トレント達の足元に魔法陣が焼き付けられ、立ち昇る熱気に揺れる空気の流れをなぞり、黒炎が巻き上がる
蜃気楼のように空間が歪み、空気が一瞬で炎に食い尽くされていった
パチッ、と最後の火花が弾けて消えると、炭化したトレントの残骸が後に残る
辛うじて生き残ったものも半分炭化し、動くたびに崩れ、自滅していった
顔にも見える木のウロから人の嘆きのような音が鳴り、生き残ったトレント達が、アシムの前で剣を構えるイワンに襲いかかった
イワンは剣を持った左手を前にして慎重に、しかしすみやかにトレントへと距離を詰める
近付いてくるイワンに、恨み言のような音を出しながら、枝を振り回してトレントが襲いかかった
イワンは剣を盾にして攻撃を遮り耐えた
攻撃は一切せずに防御に徹して、トレントが崩れるのを待つ
イワンの腕に攻撃の衝撃が重く響いた
弱ったトレントではあるが、Bランクの魔物だ
鍛冶屋が腕を壊すわけにはいかない
攻撃の軌道上にしっかりと剣を構え、足を踏みしめて衝撃を受け止める
踏み締めた足が一撃ずつ地面にめり込んでいった
他のトレント達に囲まれないように注意しながら、枝が折れ、姿勢が崩れたトレントを一体ずつ確実に倒していく
剣で木を斬りつけるという、どこか効率の悪さを感じながらも、最後の一体までを慎重に捌いた
周囲の木々が全て黙り込むのを確認すると、アシムは一休みもする事なくまた山を登り始める
イワンはその後に続きながら、すれ違うトレントの残骸から無事な枝を数本切り落としてリュックに括った
焼け過ぎで炭化したトレントは燃料になるかもしれなかったが、熱くて持てないので諦めた
ほとんどヒノキしか無いだろうが、まれに元とねりこのトレントが居たりするので無視も出来ず、行きがけに枝を切り落としていく
素材の剥ぎ取りに時間をかけると置いていかれてしまうので選別も出来ない
識別を後回しにして、ランダムに枝を切り落としながらアシムの後を追った
前を歩くアシムは、トレントからぴょんと伸びた、毛先のような小さな枝を一本手折った
小枝は手の上で溶けるように消えていき、アシムの腕に嵌められたバングルが淡く輝く
アシムが作ったバングルタイプの魔法箱だ
イワンはアシムが折ったトレントを見てみるが、ただのヒノキのトレントだった
初めは何か珍しい素材なのだろうかと、イワンはアシムが触ったものばかりチェックしていたが、雑木や廃石など、素材にならないものばかりだったので諦めて自分で判断して採取している
イワンはまだ魔法箱を持っていないため、背負ったリュックが全財産だ
採取出来る量も限られてくるし、早く魔法箱を買いたかったが、見習いが造るものにそうそう値段は付かないので貯金が無かった
トレントの残骸が途切れると、代わりに雑草が獣道を遮っていく
背の低い草木ばかりで、イワンは振り回していた剣を鞘にしまった
剣をしまうと緊張感が遠のき、腹の虫がぐうと鳴き出す
リュックから水と干し肉を取り出して噛みながら、アシムの後をついていった
イワンが今登っている山は鱗山と人に呼ばれる活火山で、トレント以外に大型の魔物はいない
ときたま小型魔獣のグッキーに遭遇するくらいで脅威は少なかった
世界的に魔物の少ない地方の一つで、その理由は鱗山の頂上にドラゴンが居座っているからだ
山に根を張るトレント以外に、ドラゴンの縄張りに入り込む魔物はいなかった
トレントの気配が消えた山林は静かだ
息を潜めて戦闘を見守っていた昆虫や小動物達が、危険が去ったと判断し動き出すのはもう少し後からだろう
整えられていない山道は草が生茂り、草に埋まった倒木に足を取られそうになる
アシムが居なければ、草に足を取られて転んだ拍子に方角が分からなくなっていたかもしれない
切り倒されたヒノキの香りが、静まり返った獣道に充満していた
呼吸音だけが耳を打つ中を、ただ黙々と足を動かしアシムの後をついて行く
羽でも生えているのかというくらいのスピードで進むアシムの後を、走る速度でイワンは追った
2mを超える身長のアシムのコンパスについて行くには、青年になりたてのイワンの身の丈では2倍の努力が必要だった
未だ人生経験も見習いの時分だから、その内コンパスの差が縮む事もあるだろうが、今はまだ、置き去りにされない様に喰らいつくしかない
木々の切れ間から見える青空は次第に細く小さくなっていき、鬱蒼とした森の中を進んだ
思考も消えて無くなるほどに、アシムの背中を必死で追いかけていくと急にアシムは立ち止まり、イワンを振り返った
「今日はここで一旦休む」
アシムはそう言って、いつの間にか目の前に現れた沢に降りていった
ボーッとした意識のままアシムに続いて沢に降り、呼吸が落ち着き酸素が脳に十分に供給されると、見上げた空がすでに日が暮れているのに気がついた
木々が途切れた小川からは、夕日が消えた藍色の空が西から夜を迎えている
イワンは川に頭を突っ込んで、水を飲みながらバシャバシャと頭を掻いて汗を流した
首に巻いていた手拭いで顔を拭き、頭に巻きつける
リュックから水筒と小鍋を取り出して水を汲んで、キャンプの準備を始めた
「師匠、火をお願いします」
イワンと同じように沢で水を飲み、河原に引き上げてきたアシムにイワンが言うと、アシムの腕のバングルがひかり、照明の魔道具と小さなナイフがアシムの手に現れた
クリス・アカラベス
師匠はそのナイフをそう言っていた
「マグマプロージョン」
河原の石にナイフを向け、言葉にだけマナを込めたアシムの魔術は、河原に魔法陣を描いてすぐに消えた
マグマの様なマナの塊が魔法陣から溢れ、炎が広がる寸前で立ち消える
後には赤々と熱された河原の石が残った
イワンはその上に水を張った鍋を乗せ、リュックから取り出した干し肉と麦を入れて夕飯を炊き出す
アシムはランタンにマナを流して灯りを付け、いつの間にか取り出していた簡易イスに座っていた
バングルがまた光り、取り出したハムをクリスナイフで削いで焼き石に放る
ジュッと肉が焼ける音がして、焼き出された肉の脂が石の上で弾け飛んだ
漂ってくる肉の匂いに、イワンの胃がよじれる
「それで師匠、火竜ゼリンをどう出し抜くつもりなんですか?」
リュックから毛布を取り出し尻の下に敷き、門番よろしく鍋を見張りながら、イワンはアシムに今回の旅の算段を聞いた
火竜ゼリンというのが、鱗山の主のドラゴンの名前だ
ドラゴンはよく光り物を集めるというのが広く知られている習性で、使えもしないのに金銀財宝を溜め込んでいるため、冒険者のターゲットにされている事がしばしばだった
その金銀財宝を狙って、鍛治師のアシムが鱗山の主に狙いを定めた
財宝が欲しいわけでは無い
珍しい素材を求める、それがアシムの習性だからだ
ドラゴンのお宝に珍しい素材があるかもしれない
そんな事を考えて、本当に実行に移すのがイワンの師匠だった
ぐつぐつと鍋が煮立ち、中で麦が踊っている
溶け出した干し肉の旨味が、沸騰した湯の表面に浮かんで、踊る麦に薄く絡まった
鍋の向こう側では、表面が軽く焼けたベーコンがひっくり返されている
裏を焼き、クリスナイフで切り分け、一切れ摘んで口に入れる
その旨さを想像してイワンの口がモゴモゴと動いた
焼き石の向こう側で贅沢な晩餐をするアシムを横目に、イワンはリュックから芋を取り出して焼き石の隙間にねじ込む
腹の虫が、焼け石に水、と言ったようにぐうと鳴った
アシムからの回答は無く、沢の水音がふたりの間の沈黙を埋めるように流れた
ぽくぽくと口の中でつぶれる麦を飲み込んで、ふやけた干し肉を最後に噛んだ
残り汁を飲み干して、鍋に水を入れる
鍋についた最後の汁までうるかして飲み干し、油の一つも浮かなくなってからようやく鍋を洗い、リュックにしまった
満足はしていないが、適度に膨れた腹をさすってから、イワンはリュックにくくったトレントを取り外して識別をはじめた
99%の諦めと、1パーセントの期待は、諦めが勝利した
ほとんどがヒノキで一つがカシの木だった
たとえ使い道のない枝でも、とねりこならば小さな杖でも価格がつくところだが、時の運はイワンに転がり込んでは来なかった
イワンは練習台だと割り切って弓を作ってみることにした
道具もない中、出来そこないの弓しか出来ないだろうが、ようは出来上がりのイメージが湧けば良いのだ
捨てるつもりで大ぶりのヒノキから手をつける
アシムはすでにここには居なかった
肉体は焼き石の向こう側に居たが、瞑想に入った精神がイワンの都合で帰ってくる事はない
ランタンの白い光を頼りに、はじめのひと削りがヒノキの木材に吸い込まれた