新たな命
神殿に左右に並べられている長椅子の最前席に、アリとブリョウはそれぞれ座っている
アリの腕の中には生まれたばかりの赤ん坊が、無垢な瞳でこちらを見ていた
母音のみで何かを訴える小さな命が、空に向かって手を伸ばす
どうした? と聞きながら、アリは赤子のぷくぷくしている頬をつっつく
世の中の容赦ない攻撃に晒されながら、赤ん坊は反撃するようにささくれ立った指を掴んだ
指先を掴むちいさな指に、心の柔らかいところを掴まれたような、慰められたような、そんな気持ちになりながら、隣の長椅子に座るブリョウに赤ん坊を渡そうとした
「俺はいい」
「良くないだろう、お前の子だ」
一文字の口元がさらに引き結ばれ、ブリョウの瞳が揺れている
「ゆるく腕を組め、その上に乗せる。お前は動かなければいいだけだ」
そろそろと組んだ腕の隙間に、赤ん坊をそっと乗せて動くなよ、絶対に動くなよ、と念押しして離れると、ブリョウは銅像のように動かなくなった
もともと動きの少ない奴だが、息もしていないのでは無いだろうかと思うほど、ピクリとも動かなくなった
「ふふっ」
ひそやかな笑い声が聞こえて振り向くと、入り口から女がやってきた
切れ長の目が印象的なブリョウの女だ
一歩後から司祭が続いている
動けなくなった父親の腕から母親が赤ん坊を取り上げると、父親は大きく息をしてくたくたと崩れた
司祭が壇上に上がり、おほん、と咳をして親子を促す
司祭の前に進んだブリョウがポケットから小箱を取り出した
二つ並んだリングが白銀にきらめいている
街の劇団の宿舎の端から忍び足で抜け出したジュールは、一晩語り合った宿を見上げて、泊まった窓辺から手を振る踊り子に小さく手を振った
朝というには遅く、昼にしてはまだ早い時間の商業街は、開店し始めた店先から順に、伝染するように1日の活気が生まれていく
十字路の角で花の手入れをしている看板娘に頬をくっつけて挨拶すると、赤い花を一輪もらった
鼻を近づけて大きく息を吸い込むと、花の匂いは薄かったが、摘みたての植物の青い香りが鼻孔をくすぐった
硫黄の匂いですぐに花の香りは消えてしまったが、青い香りは心に残った
「朝から赤いバラの花? 」
図書館の前ですれ違った知り合いの司書の女に、似合いそうだと花を渡す
花の香りを吸い込んだ女の目元が優しくほころび、堅い顔が少し和らぐ
程々にしなさいよ、と下心にクギを刺す司書のお姉さんと別れて、街の雑踏に足をのばした
朝から昼にかけての温泉街では、チェックアウトした旅人が次の街への旅支度に追われている
馬車待ちの列が大通りのあちこちに出来ていた
大通りを歩くジュールの背後から、勢いよく近付く気配に振り向くと、疾走するメッセンジャーの女が麻袋を投げてよこした
片手に乗るくらいの大きさの袋には何通もの手紙が入っている
「ラブレターのお届けでーす! 」
これは私の! と言って袋にねじ込まれた手紙には、ハートマークのシールが貼ってある
袋から出てきた手紙には、どこかの紋章が蝋印された香水付きの封書や、押し花が貼り付けられたつたない文字が書かれた葉書などがあった
走り去るメッセンジャーの女の尻を見送って、冒険者ギルドに向かう
仲間たちとの集合時間にはまだ早いが、時間つぶしの読み物が手に入った今、腰を据える場所が必要だ
大きく息を吸う
ゆっくりと時間をかけて息を吐きだす
徐々にへこむ腹を意識して、内臓がどう動いているか、マナがどう循環しているか、外のマナと内のマナがどう混じり合っていくのかを、呼吸とともに何度も繰り返し探った
外のマナに変化が起きる
浸食してきた水の気の強いマナが、ケントのマナに干渉して、呼吸を乱していく
大海のような濃度と深みが、ケントの泉のような小さなマナを飲み込んでいった
散り散りになりそうな魔力の流れを細いマナの糸先で辿り、魔女の力の本流へと干渉していく
「器用なもんね」
陣取り合戦は唐突に終わり、掴みかけたと思った世界の真理は、指をすり抜けて消えていった
「あんた、魔力量は中の上くらいしか無いのに、妙に色々術を覚えてんのね」
五行の適性値のバランスがいいのね、と褒められたが、魔女の魔力量に触れてしまった今は褒められた気がしない
板間に敷かれたクッションから立ち上がり、体を伸ばす
平屋の縁側から見える庭先には色々な植物が生えていて、まさに魔女の館の装いだった
エゴの木に鈴なりに生った小さな実が、風に吹かれてパラリと落ちる
「残念だけど、これ以上あんたの魔力量が増えることは無いでしょうね」
灰汁の強いエゴの実をついばむものは無く、避けるように隣のブナの木に小鳥がとまった
「生命力も強いし前衛の動きをよく読む目もある、低いけどバランスのいい適性で、戦士を目指した方がいいとこ行ってたんじゃないの? 」
「それは自分がよく分かってるよ」
失敗したとは思わない
魔法使いに転向したとき、心を捉えて離さなかった魔導への探求は、今も確かな熱を持ってケントの心を捉えたままだ
ただ、理想どうりにはいかなかっただけで
少しのいじけをなだめるように深呼吸をする
空を見上げると、庭先の植物園の奥には領主の館の屋根がチラリと顔を出していた
「あんたらこれからどうするんだ? 」
問いかけに、勝気な瞳が伏せられる
「あたしはとりあえず、領主の薬師としてギズモにいるよ。コーデリアは子供の顔を見にいくって。ニーナはわかんない。ふら〜っとどっか行った」
前衛を揃えればまた、Sランク冒険者としてやってけるけど、と投げ捨てるようにタチアナが言う
炉に火のマナを入れて、湯を沸かす
食器棚から出した缶の蓋を開けて、茶葉の香りを吸い込んだ
このお茶いい匂いだね、と言ったローザの言葉を思い出し、湿りそうになった心を振り切って、別の缶を取りだした
「あたしら、ローザが好きでそばに居たからさ」
沸かした湯に映る魔女の瞳が揺れて、キャビネットの上の水晶玉が魔女のマナに反応して白く濁った
「世界は混沌として濁っていて、その中で光るローザの魂が、私は好きだった。彼女と居ればきっと良いことがある、って思ったんだけど……」
タチアナの入れたレモングラスの香りが部屋に広がった
茶に顔を近づけると、クローブの甘い匂いが僅かに香る




