月が綺麗ですねとは言い難い
高校時代に一度だけ、女の子と一緒に下校した。
木下さんという女の子だ。
彼女にとっては何ら特別な事ではなかったかもしれないが、僕が青春を語るとすれば、それが一番色濃い思い出になる。
確か、当時の担任が結婚する関係で、僕たちのクラスはフラッシュモブをやろうという話が上がっていた。
「先生サプライズとかダメな人だったらどうしよう」
「プロポーズならまだしも祝うのが前提なのでそこまで嫌がられないかと」
「あー、ねー。私もフラッシュモブでプロポーズされるの無理ー」
「僕も人目に晒されるパターンのものはキツイですね」
「ノーって言いづらい空気に持ってくのちょっと姑息」
「せめてイエスをもらえる確信ができてからですね。やるなら」
「あとあれだよ、『月が綺麗ですね』」
かの文豪が〝I love you.〟をそのように訳したという。
「あれですか。死んでも言われたくない?」
「そこまでじゃない。でも実際言われたら反応に困る口説き文句」
「もしかして言われた事が……」
「あー図書委員やってたからかな、私別に読書家でもなんでもないんだけどそういうイメージもたれてたのかも」
「読書通ぶりたかったんですね、その彼は」
「あんちょくー」
「明治、大正、昭和辺りまでなら風流だったのかもしれませんが、今や陳腐化してますね。雑学系ネットメディアに蔓延してるくらいには」
「そう思うと漱石ちょっとかわいそう」
「まあ、ほんの例題程度に訳したらしいので、そこまで思い入れがあったかどうか……そもそもこの逸話自体本当なのかどうかっていう……」
木下さんがふふふと笑い出し、「梅田ぺディア」と突かれ、からかわれてしまった。
マンスプレイニングをやらかしてしまったらしい、恥ずかしい。
反応に困っていると、木下さんがスマホをいじり始めてしまった。
「あー本当だ、出典不明なんだね。しかも『月が綺麗』じゃなくて『月が青い』……」
「青かろうが綺麗だろうが、一緒に景色を共有してるってのがポイントなんでしょう」
「あーね。そんな状況にいる男女二人なんて好き同士じゃんっていう」
「どんな原文なのかちょっと気になりますね」
「月明かりの下でアイラブユー?」
「ですね。流石に昼間のシーンだったら『月が〜』とは訳さないだろうし」
「英語圏の人がプロポーズしてる時って絶対向き合ってるよね。相手の目を見て『I love you.』って言うの。でも『月が綺麗ですね』だと二人で夜空見上げてるよね確実に。あとなんか縁側っぽいイメージ」
「明治時代の価値観に合わせて舞台設定をローカライズするならそれもありえそうですが」
「ああそっか、明治時代なんだよね。明治の男に目を見てプロポーズなんてハードルが高いか」
「今はむしろ『月が綺麗ですね』の方がハードルが高いですね」
――月が綺麗ですねとでも訳しておけ。それだけで、十分伝わる。
漱石はそんな風に言い放ったらしい。
初見で伝わるんだとしたら、漱石はきっと色男なんじゃないか?
そんな十年ほど前の記憶。
僕は何度か反省会をした。
「好き同士だと思いますよ」
そんな風に答えて、彼女を見つめて、手でも握っていればなと。
しばらくあの同意を求めるような上目遣いが忘れられなかった。
***
社会人になった僕と木下さんは、夜の公園で涼んでいた。
飲み会の帰り――と言っても、僕も木下さんもお酒は飲めないので、酔ってはいない。
炭酸飲料片手に子供の頃の話、高校の時の担任の話、木下さんの将来の事……。そんなことを語り合っていた。と言ってもほとんど僕は聞き役だったけど。
僕は酔っていなかった。情緒不安定だとも思っていなかったのだけど、僕はふと泣き出してしまった。そこでやっと自分が情緒不安定なのだと気がついたぐらいだ。
なんだか不思議なのだけど、泣けば泣くほど心の中が冷えて行く。「何泣いてんだこいつ」と、自分で自分を白々しく感じる気持ちと、今現在身体が引き起こしている生理現象が全く一致せず、動揺する。しかしまた冷静な方の僕は、「ああこいつは」と、自分の身体が泣き出した理由に当たりをつけた。
この十年僕は何も成し遂げていない。ただただ流されるように生きて、手に入れられられる範囲で妥協して……。
「だ、大丈夫?」
木下さんの右手が僕の背中をさすり、もう片方の手がハンカチを取り出し頬に押し付けてくる。目元を隠していた手を退けて、メガネをずり上げ目頭に押し付けてくる。
その指だ。
その左手薬指に輝く華奢な指輪が、僕が何も出来ない人間なんだということを、痛烈に、えぐるように、知らしめている――最たる象徴。
しばらく木下さんが背中をさすってくれていたけど、僕は席を立ち、公園のトイレに駆け込み、ダダ漏れになった鼻水と涙を洗い流した。
重い頭、しかし先程よりもだいぶ気分はスッキリとしている。
メガネをかけ、木下さんのもとへ戻る。
僕がやるべきことは、案外とてもシンプルなんじゃないか。
戻ってきた僕を見て、ベンチから立ち上がった木下さんを座らせ、僕も座った。
「すみません急に……」
「ううん、泣くのって大事だから」
「はい……」
僕はおもむろに彼女の左手を取り、その指輪をなぞった。
木下さんが驚き言葉を詰まらせているのを感じる。
「綺麗ですね」
彼女がこれから、幸せになろうとする事を象徴する指輪だ。この指輪を贈った男は、いったいどんな思いで彼女を手に入れたのか、微塵も興味はないけれど、いささか申し訳ない。
「ごめんなさい」僕はそう呟いて、指輪を外し始めた。
「え……」木下さんは少し指を曲げて抵抗する。
「少しの間だけ、この指輪を外してほしいんです」
「…………」
無言になった彼女の指から指輪を外し、そして彼女の手に握らせた。
「僕と木下さん、一度だけ一緒に帰ったの覚えていますか」
「あ……うん」
木下さんは顔を俯かせている。きっと僕がやろうとしていることが、気まずいのだろう。
「あの時夏目漱石の話をしたんです」
「したね……反応に困る口説き文句」
これは牽制だろう。
「木下さんは、あの物語の二人は空を見上げてると言っていました」
「言ったかも……」
木下さんは未だに俯いたままだ。
「でも僕は違うと思うんです。『月が綺麗ですね』と言った男は、どう考えても相手のことを見てるんです」
まだ彼女は視線を逸らしたまま。
「昔、あなたの姿を見て、僕はその事に気付きました」
その日、彼女を照らしていたのは月ではなく、花火だった。
彼女の隣にいたのは僕ではなく、別の男だった。
僕もその男も、花火を見上げる彼女を見つめていたけど、彼女が見つめ返したのは、僕ではなかった。
それはごく当然のことで、ああそういう事なのかと、ストンと腑に落ちた。
「木下さんは男の人と一緒でした」
今日、この公園には月は出ていない。
彼女を照らすのは、青白い街灯。
彼女はゆっくりと視線を上げ、僕の視線に向き合った。やっと見てくれたのが嬉しくて、僕は瞳を細め、唇が自然と弧を描いた。
「当たり前なんですけど、好きな女性ってどうしたって綺麗に見えるんです」
きっと、「月が綺麗ですね」と言った男が欲しかった言葉は、凄くシンプルな言葉だ。
ちょっとだけ、僕を見て微笑んで欲しい。たった二つの文字で構成される、肯定を意味する言葉。
「タイミングが悪いですね」
分かっていたけど、木下さんがくれた言葉は僕が思い描いたものではなかった。
「だから――」
なかったけれど、僕はキョトンとしたのち、心を躍らせた。
「満月の夜に、また会いませんか」




