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武士道精神はなぜ生まれたか

作者: 武良 保紀

 武士というものは、言葉を換えれば戦における兵隊である。戦乱の世の中にあって、最下層またはそれに近いコミュニティ出身の者が剣を手にして武勲を立て次第に出世してゆくというストーリーは、国内外を問わず、また史実・フィクションを問わずいつの時代も多くの人々の心をとらえてきた。

 しかし、日本人が「武士道」という言葉を口にするとき、それは出世を求めて武者震いしている貪欲な兵隊を想定しているだろうか。筆者にはそうは思われない。武士道という言葉から連想されるものと言えば、精神修養であったり、教養であったり、清貧の生活であったりするように思われる。いずれも戦とはあまり関係が深くなく、清貧に至っては出世を求めたガツガツした生き方とは正反対のものである。

 なぜ日本の「武士道」はこのようなものになったのか、私見を述べてみたい。


1.成長時代の終焉と安定社会の始まり


 武士という身分が「戦争屋」として歴史に現れるのは、日本も外国も変わりはない。貴族に雇われの戦争屋が、戦乱の世が続くにつれて発言権を増していくのは必然と言えるものであろう。それまでの支配者であった貴族に対して次第に力を増し、とうとう支配権を取って代わるに至る。人の世に争いが絶えない限り、その争いに強い者が力を得ていくのは当然である。

 この過程においては、武士たちはひたすら戦を望んでいる。なぜならそれは出世を実現できる場だからである。武勲を立てれば、地位も収入も上がり続けることになる。そのようなチャンスの到来を望まない者はいないであろう。

 そういう意味での武士の存在は、日本では豊臣秀吉の登場で頂点に至る。秀吉の出身についてはそれなりの由緒ある家系であるという記述が残されているようであるが、関白にまで上り詰めてしまった人間がどこの馬の骨かわからないのはまずいという理由から後付けで書かれたものという印象は否めず、実際秀吉は元々「馬の骨」なのであろう。

 その秀吉が、天下を統一した。このことを統一した本人である秀吉以外の武士の目から述べれば「もう戦=出世の機会はない」ということになる。ある日突然「もう戦はありません」と言われて「はい、そうですか」と受け入れられる戦争屋はまずいないであろう。それは「お前はもう無価値だ」と言われているのと同じことであり、より偉くなるためにより強くなることを目指してきた自分の人生のテーマがいきなりなくなったことを意味する。

 出世がしたい、武勲を立てたい、戦をさせろという突き上げは、秀吉もかなり受けたのではないかと筆者は想像している。朝鮮出兵などという無理を秀吉が行なったのも、戦を求める武士階級のためにやむを得ずという面もあったのではなかろうか。自身立身出世の権化のような秀吉には、頂点に立ったからと言って自分の部下に当たる日本全国上から下までの武士に「これからは戦の時代ではない、出世を望むな」などと言うことはできなかった。そのような指示は秀吉にとってあまりにも都合が良すぎ、自分が勝ったところで一方的にゲームオーバーを宣言などしたら、俗な言い方で言うなら「狡っこい」という感情を持たれてしまうことは避けられない。そうなると秀吉自身が他の武士の出世のために骸となる可能性すら否定できない。繰り返しになるが朝鮮出兵というものはそういう武士たちが自分に刃を向けないように矛先を逸らしたという面があるように思う。

 戦をして武勲を立てるのが「良い」ことである世の中から、安定して領地を治めることが「良い」とされる世の中への変化を起こすには、やはり主人公の交代が必要であった。そして現れたのが徳川家康である。

 家康は、上昇志向の強い武士を徹底的に冷遇した。日本の学校で使われる歴史教科書を見ると、まるで家康は個人的な恨みから秀吉の「味方をした」者たちに意地悪で冷遇しているように書かれているが、これは大きな間違いである。成長志向の強い者ほど強烈に冷遇することにより、成長志向の時代は終わったのだという強力なメッセージを発したものだ。

 家康は武士に限らず日本国内全てを成長のない安定社会、経済的には低空安定飛行の社会にしたかったと思われる。なぜなら、武士には米で禄を出し、その米を作っている農民たちには物々交換の小規模な自給自足経済をさせたかったと考えるしかない政策があったからである。それは農民に対する農作業以外の仕事の禁止であった。

 農民たちも戦国時代の記憶が生々しいうちは、蓄財してもいつ戦のために取られるかもわからず、また徴兵があるかも知れないという思いから労力が有り余っている様子をあまり目立ってデモンストレーションするのもまずいという気持ちは少なからずあったであろうから、生産力の余剰を蓄財に使うものは少なかった。必要な分の農作業をこなしたらあとは休んでいたというのがこの時代の農民のあり方だったのだろう。

 こうして、武士には地位に合わせた禄を米で与え、農民には自給自足を行なわせるという、二面性を持つがいずれにせよより多くのものを求めて生きるよりも必要最低限を望むのが「良い」あり方であるという時代が始まった。

 実のところ、筆者は武士たちによる米経済が根底にあり、しかし米ではものの売り買いの際に不便に過ぎるので米引換券としての貨幣が造られ、いつの間にやら貨幣が米から分離して単なる「数字」と化して経済成長が町人の間で起こるようになったのだと考えていた。いわばドル・ショックあるいはニクソン・ショックなどと呼ばれる出来事で貨幣が「金(gold)」という具体的な有価物の裏付けを失った結果、様々なジャンルで「史上最高額の」を冠するものが次々現れたと同じようなものだと考えていたのである。しかしこの考え方は全面的に改めなければいけないようだ。「米本位制」の世で米の代わりとして貨幣が流通したのではなく、そもそもが米経済を営む武士階級と自給自足を行なう農民階級という二制度として江戸時代が始まったと考えるのが妥当のようだ。


2.余剰生産物の発生と貨幣経済の興り


 戦のない時代が長く続き、戦乱の世への恐怖心も次第に人々の記憶から遠ざかってゆくにつれて、農民たちも生産力の余剰を米以外の産品に使い、それを使って余裕のある生活をしたいと思うようになる。こうなると物々交換では不便に過ぎるので、公的な価値象徴物、すなわち貨幣の存在が不可欠となる。

 江戸時代の日本において貨幣は、おおよそのところ東日本が金、西日本が銀を中心として、銅製の銭貨は全日本共通で用いられたようである。また用いられ方も東日本が金製の小判一枚が一両と明確に数値化された貨幣が使われたのに対し、西日本では結局のところ明治維新まで銀の「量り売り」の経済が営まれていたようだ。銀貨はナマコ型の塊として鋳造され、切り売りする際にも公許の鋳造業者によるものだとわかるようにするため鋳造業者の屋号の刻印が隙間なく捺されていた。他に粒状の「補助銀貨」もあったようである。

 なぜ銀貨においては量り売りの経済が続いたのか、その理由は筆者には定かではない。ただ言えるのは東日本には比較的金山が、西日本には銀山が多いこと、そして貨幣の鋳造権を持つ幕府は東日本である江戸に存在したことから、金銀の採掘量に応じて変換レートは金を中心にしてフラフラと揺れたことは十分想像できるところであるということだ。また、科学的なことには筆者は明るくないが金より銀の方が柔らかく切るのが容易だったということもあるのかも知れない。

 また、銭貨は日本国中で同じものが使われたようだが、金銀に対する価値が金一両に対して数百枚から一万枚近くとこれもかなりの幅で振れている。

 江戸時代の日本は世界有数の金銀産出国であったが、実はこの金銀は大量に海外に流出している。密貿易、当時の言葉で言う「抜け荷」がかなり大規模に行なわれていたからである。江戸時代唯一海外に開かれた場所である出島はその舞台ではない。そのような場所で抜け荷を行なったら露見するのは目に見えているわけで、対馬や種子島がその主な舞台であったらしい。外国の珍品を買ってその代金を金銀で支払うだけではなく、銀を受け取って金を渡すという単なる両替も多かったようだ。当時日本国内の金銀の変換レートと抜け荷の相手国である東南アジア諸国のそれとでは大きな開きがあり、海外から銀を持ち込み日本国内で金と交換し、それを持って帰るだけで大きな儲けが出たという資料も残っている。従って特に金は大量に流出した。

 これを受けて幕府が鋳造する貨幣は江戸時代中ほぼ一貫して次第に小さくなっており、純度も低くなっている。金貨には銀が、銀貨には銅が混ざり、最終的には実態は銅貨以外の何物でもない「銀貨」も鋳造されている。また、銭貨にも様々な雑金属が混じり、最終的には鉄で作られたという末期的な銭貨もあった。

 貨幣の歴史についていささか先走って書いてしまったが、つまり江戸時代はほぼ一貫して貨幣が粗悪化していく時期であったのだが、それにより経済的に大きな混乱が起こったという事実は見られない。幕府鋳造の貨幣にはそれほどの信頼が寄せられていたわけである。これが貨幣経済の安定化に大きく寄与したことは言うまでもない。

 最初は小規模な余剰生産物で小金を稼いでいた農民たちは、次第に大規模に農業以外の事業に乗り出す。そうなると必要とされてくるのがその仲介と物流を行なうのが役目の者、すなわち商人である。

 江戸時代のスタート地点では武士と農民による低空安定飛行の経済が意図されていたことは述べたが、商人というのはそのどちらにも属さない、制度的には「異端者」である。従って「士農工商」という言葉に象徴されるように身分的には最下層の人間とされた。

 農民であることをすっかりやめてしまい、余剰生産物だけに携わる者も出て来た。これが職人である。生活必需品の製作に携わる者から明らかな贅沢品の生産者まで様々いたであろう。また、あまり知られていない事実ではあるが、大商人の家に雇われるのではなくあくまでも外部の出入り業者として数軒の商家に関わり、ちょっとした力仕事や簡単な建具の修繕などの軽い肉体労働を頼まれて行なっていた自営業者も職人と呼ばれた。この見方はある意味現代的すぎるかも知れないが、これらの職人は商人と違い自ら体を動かして価値を生産しているという意味から、その存在価値は農民より小さく商人よりは大きいという意味で「士農工商」の三番目に位置づけられたのであろう。

 このように、武士と農民による最小限経済という定められたところからスタートし、予測していなかった規模の余剰生産力とその生産物を扱う者および媒介物としての貨幣の必要性という予期せぬ要素があとから加わって自然発生的に士農工商という身分制度が出来上がっていったように思われる。


3.貨幣経済の成長と武士の貧困化


 繰り返すようであるが、江戸時代は武家は米を中心とした経済を営むように、農民は自給自足経済を営むように設計された経済からスタートした江戸時代であるが、余剰生産力が貨幣経済を生み出した。

 なお、念のため述べておきたいが、江戸時代以前には貨幣が存在しなかったわけではない。金銀による貨幣も造られたし、大陸から渡来した宋銭、明銭が民衆の間では便利な決済手段となった。しかし支配階級が宋銭、明銭を使うことを禁止したり、国産の銭貨の価値をいろいろといじくり回したり、そもそもその支配者がコロコロと変わったりした結果、江戸時代直前には民衆の経済は米や麻布を基準にした物々交換経済という、飛鳥時代と大差ない状態になっていたのである。安定政権を築き、幕府が一両と言うのであれば一両だ、と、金貨の大きさや金の含有量が変わっても同じ価値として流通させることに成功した初めての例が江戸幕府と言うことになる。

 さて、これも前述したとおり江戸時代は民衆は物々交換経済をするように企図されたのであるが、平和が続き生産力があまってくると、貨幣が必要とされ流通を行なう者、すなわち商人の出番となった。

 江戸時代というのは、前述した「抜け荷」が全体としてはわずかにあったのみでほとんど閉鎖空間内での経済のやりとりであった。このことが、日本人に細かい細工の価値をインプリンティングしたものと思われる。

 たとえば、金(gold)を見てみよう。金山から掘り出した金鉱石そのものは、それだけではあまり役に立たない。そこから金を抽出して金塊にする者がまず現れる。金塊が取り出されたら、そこから様々な実用品に加工する者が現れる。たとえば煙管を作ったとする。これも、最初はただの筒状の両端に雁首と吸い口がついたようなものだったが、様々に立体的な彫り物がなされるようになる。現代人の感覚から見ればとても高級品のように思えるが、まだ江戸時代の影響も色濃く残っていたであろう明治初期には、一般階級の市民でもこの程度のものは持っていても珍しくはなかったようだ。そしてそのようにして次々と細工を施していった結果、金の総量それ自体は全く変わりないにもかかわらず、価値は上昇を続けている。そしてそのように価値の上がった金製の煙管を購入するのは、もしかしたら最初に金鉱石を発掘した者かも知れないのだ。

 閉鎖空間内で経済の特徴がまさにこれである。原材料も購入者数もそう大きく変わりはしないのだから、誰もが生きていける程度の経済を営むためには、限られた原材料に対して加工に加工を重ねるしかないのだ。いくらかは廃棄される分もあるのであろうが、現代を生きる我々の感覚でも、廃棄するより購入する方が数が多いであろう。そうして加工品が数多く出回るようになり、その仲介をする商人は大金を手にすることになった。その商人の扱う一次産業、二次産業の生産者、つまり農民や職人もそれなりの金額を手にすることになった。

 ところで、このころ武士階級は何をしていたのであろうか。武士階級にとっては、米は経済の基準である。商取引の利便のために貨幣と引き換えた例が横行していたとは言え、実はそれは商人に頼んで米を買ってもらっていたに過ぎずあくまで武士の経済の主役は米であった。

 ブレトン・ウッズ体制下において、著しく金の産出量が増えたら世界は経済的に大混乱に陥っていたであろう。同じことが江戸時代に米において危惧されたようだ。従って、新田の開発は厳しく制限されていた。

 商人たちは高級品の流通によってますます富んでいき、米の増産が出来ない武士たちは相対的に下がり行く米の価値に頭を悩ませていた。このころ武家が藩単位で大商人から多額の融資を受けたりしているのはこのためである。

 実は、地方の藩からその中の一介の武家に至るまで、経済的に詳しくその懐事情を記した資料は極めて少ない。江戸時代というのは「圧倒的な勝者」を作らないように意図されて営まれていたように思える。経済的には一番豊かな商人は、身分的には一番下。職人の地位は(腕が良ければ)尊敬の対象になったものの「宵越しの金は持たぬ」が美徳で経済的に豊かではなかった。

 そして武士である。身分的には一番上であるが、経済的に今より豊かになりたいという望みは、ほとんどの武士にとって叶わぬ夢であった。

 その最大の理由は、禄が「現在の」身分や働きによって決まるのではなく、その武士の出身である家の格によって決まったからである。その格はどう決まったのかと言えば、江戸幕府が開かれるまでの経緯においてどれだけの働きをしたかということである。会ったこともない先祖の働きによって現在の自分の禄高が決められるということには理不尽な思いをしたものも多かったに違いない。

 実は「安定社会」と「努力などしても無駄な身分社会」は同じものの表と裏に当たる。いささか話が脱線するがそのことについて触れておこう。

 人の集団は、何らかの外部的目的を果たすために作られた集団と、集団でいること自体が目的の集団がある。筆者はこれをそれぞれ「外目的集団」「内目的集団」と呼んでいる。

 外目的集団の典型は軍隊である。従って、武勲を上げた者は同期や先輩を飛び越して出世してゆく。現代ではさしずめベンチャー企業であろうか。トップが全員の個性を把握していられる程度の人数しかいないため、いきなり長期間無断休暇を取ったと思ったら返ってきたら大口契約を取ってきていたりする。そういうことをする者が「あいつはそういうやつだ」と認められて出世したりするのが外目的集団だ。

 内目的集団は、その典型がロータリークラブのようなものである。そのコミュニティに所属すること自体がある意味ステータスであり、ジェントルマンの集まりでなければ困るのだ。だからあまり奇矯なことをする者は、最終的にはコミュニティの利益になってもあまり好ましく思われない。「成果を上げる」ことより「失敗しない」ことが重要視されるのが内目的集団の特徴だ。

 ところで、外目的集団が成長してゆく過程において、内目的集団的要素を少し加味してやるとパフォーマンスが上がる場合がある。会社で言えば「この会社の従業員であることを誇りに思う」ということだ。こういう思いを胸に抱いて従業員めいめいが自分の役割に邁進するのが外目的集団が一番「おもしろい」時期かも知れない。

 しかし外目的集団であるはずのもの(たとえば企業)が次第に大きくなっていくと、トップが全てのメンバーの個性を把握しているというのも難しくなり、全体の統制を取るためにはあまり奇抜なことは、たとえそれが企業のためであっても好ましく思われなくなってくる。好ましくないのは主に一足飛びに出世をした者に「先に行かれた」従業員にとっては面白くない事態だからである。企業もある程度大きくなると放っておいてもある程度の利益が上がるものであるし、そうであれば奇抜な作戦でヒットを飛ばすなどということは短期的な利益になるだけで全体の安定にはマイナスの効果でしかなくなる。まさにこれが「外目的集団の内目的化」だ。

 このように内目的集団化した企業では、出世は年功序列、年功序列では候補者が複数出てしまうときにはその出身大学の偏差値、それも同じなら学部の違い、それも同じなら出身高校の違い、とどんどんその基準は早いうちに決まってしまい、あとから努力することは自分の立場に何の影響も及ぼさなくなる。今することで自分の立場に何か影響が出るとすれば、不祥事を起こしてその詰め腹を切らされる場合だけだ。

 こうなると内目的集団では「失敗しないこと」が人事の唯一の基準となる。失敗しないために一番いい方法は何か。簡単である。何もしないことだ。だから日本のサラリーマンは自分では何も決めない。アメリカンジョークには「人種ジョーク」というものが数多くあるが、その中にこういうものがある。


   もし無人島にふたりの男とひとりの女が流れ着いたら……。

   彼らがアメリカ人なら、女を放っておいて男同士で愛し合うだろう。

   ドイツ人なら、どちらが女と結婚すべきか男同士は議論するだろう。

   ユダヤ人なら、どちらが女と結婚すべきか金で話をつけるだろう。

   ロシア人なら、女は男の一方と結婚し、他方を選ばなかったことを一生悔いるだろう。


 まだまだあるのだが、もし日本人ならどうすると思われるだろうか。こうなるのだ。


   もし日本人なら、ふたりの男は本社にFAXを打ち、どちらが女と結婚すべきか指示を仰ぐだろう。


 ことほど左様に、日本人は何も決めないというのは外国での通り相場になっているわけだ。誰もが何もしないのだから、超安定集団だと言える。もっとも、それが集団と呼ぶべき価値があるもなのかどうかは筆者にはわからない。

 雑談がいささか長くなったが、江戸時代の武士たちにとって自分の立場の「どうにもならなさ」は現代のサラリーマンの比ではない。たまたま生まれついたというだけで、ある者は赤子のうちから多額の禄を得て、ある者は江戸詰などやらされたら領地と江戸の二重生活でたちまち火の車が回り出すわけである。

 どのような理由であれ、物的な豊かさを求めることが社会や自分にとっての不安定材料にしかならないというとき、人間というのは精神的価値を求めに行くものらしい。世界中どこの歴史を見ても、物的・経済的成長が大いに期待できる状態にあっては人々は物的・経済的豊かさを求め、それが頭打ちになってくると精神的価値を追い求め始めるのは共通している。それと呼応するのが物的生産に寄与する生産技術の革新である。日本で言えば陸稲を作れる余地が減ったときが頭打ちの時期であり、水田という技術がもたらされたときが技術的なブレイクスルーである。それもやり尽くしてしまうと、灌漑技術によって水田を作れる余地が広がることがブレイクスルーとなる。人間の物的生産力というのは常に限界→突破→限界→突破を繰り返しており、それと呼応して精神的価値→物質的価値→精神的価値→物質的価値と求められていく。

 日本だけを見ているとわかりにくいが、ヨーロッパを見ると如実にこれが表れている。ギリシャ時代は人口がさほどなかったこともあり成長の余地は多分にあった。そしてこの時代は自然科学が発達し、芸術も写実的なものが多くなっている。具体的な「モノ」が関心の対象なのである。ところがローマ時代に入ると、魔女狩りなどというものが大真面目に行なわれたり、引っこ抜くと叫び声を上げる植物というようなものが百科事典に載ったり、現代の科学技術水準から言えばギリシャ時代から後退したとしか見えないことになる。思想も神学が重要視され芸術も抽象的になる。再び写実性を取り戻すのはルネサンス期だ。いささか大雑把すぎる把握であることは自覚しているが、そう的外れでもないであろう。

 このような流れの中において、武士というのは経済的には赤貧に置かれ、そこから抜け出す手段もこれと言って見つからない状態が続くのである。そのことを表すひとつの例がある。

 いくら武士が赤貧にあって物的豊かさを求めなくなったと言っても、そこは人間が生きていく場である。藩という集団には経理担当がいなければいけないし各武家には家計簿を預かるものが必要だ。ところが、武家においてはこういう世俗的な豊かさ・貧しさと直接関わるものを扱うのは最下層の者の役目だったというのだ。

 藩の経理係はいなければいけないし、領地から年貢を取る以上田を測量しないわけにはいかない。このころ、和算の使い手には既に三角関数と同じものを扱えた者もいたらしい。ところがこういう物的にして具体的な学問は下等な学問と見做された。

 物欲を離れて、精神的な高みを求めるのが武士のありようになったのである。その裏には、モノを求めても得られるはずもないという諦めがピッタリと貼り付いていた。


4.日本の武士が学んだ精神論


 日本列島というものは、地理的に言えば山岳列島である。傾斜地が多く平地は限られている。従って、常にどちらかと言えば生産能力は「頭打ち」の状態が多かった。日本人が家畜を飼ってその肉を食用にすると言うことを基本的には行なわなかったのは家畜というものを食用にしたときに賄える人間の数と、その家畜が食べる牧草を育てる土地を田畑にしたときに賄える数を比較したら、家畜を飼うことが圧倒的に割に合わなかったからであろうと筆者は考えている。何しろ日本は島国だ。動物性タンパク質が欲しければ目の前の海に網を投げれば魚がいくらでも捕れた。増して日本列島周辺は暖流と寒流がぶつかり合う好漁場だ。

 というわけで環境的に食うには困らなかったのが日本列島なのだろうが、それ以上の豊かさを求めるにはあまり適さなかった。広い土地もないので戦をして領土を広げるにも労力の無駄が多すぎる。大陸とは「文化使節団をやりとりするぐらいなら何とかなるが、大軍勢をわたらせるには広すぎる」海で隔てられていた。

 そんなわけで、早くからどちらかと言えば「精神的価値優位」な人間が作られていったのだろう。日本では神道、禅、心学とそれぞれに時代に合った「精神的価値」が作られて、人々の生活の中に浸透していく。

 特に武士道に影響を与えたのが禅ではないかと筆者は考えている。今日、仏教はすっかり「葬式屋」と化してしまっており禅宗の寺院もその例に漏れないが、実は禅宗というものは悟りのためならかなり激しいことも行なう宗派である。公案(いわゆる「禅問答」)を集めた本というのが多く残っているが、弟子の指を切り落としたり、たまたま通りかかった猫を殺したりと結構やりたい放題である。これらの激しさは全て「悟り」のため。悟りが何なのかはよくわからないが、激しさは血気盛んな若い武士を中心に訴求力を持ったであろう。

 禅というのは、ある意味日本純正の思想である神道より日本の様々な文化に影響を与えている。茶道も書道も華道もそれぞれの意味で禅の表現である。そして剣道も体術中心の武道もそうである。

 武士道と修験道が出会って忍者という存在が発生したりしている。忍者をスパイと考えるのならば戦国時代にもっとも活躍が華やかであってしかるべきであるが、今日に伝わる「忍術」はほとんどが幕末ごろの発明品である。

 筆者はここで「武士道とはこういうものである」と断言するのは避けたい。それはあくまでひとりひとりの武士の中で違ったであろうし、何より禅の影響が強いというところが筆者にとって把握を難しくしている。

 筆者は大学でギリシャ哲学を専攻した。元々は日本思想がやりたくて哲学を専攻することにしたのだが、筆者には日本思想は難しすぎた。

 筆者のあくまでも個人的な意見だが、人間には「本当の真実」「紛う方無き真実」を知ることはできないというのは洋の東西を問わないと思うのだが、そこに近づきたいというのが人間の知の営みというものだ。ところが、そこへ至る方法論が東西で全く違うのである。

 西洋の哲学者は、プラトンから(ソクラテスから、と言うべきか)変わらず、わかるところまでは理論で組み立てていって、最後この部分がわかりませんでした、と結論する。有名なデカルトの「我思う、故に我あり」などは、哲学解説書などには「考えている自分がここにいることだけは確かである」などと解説されているが、筆者には「結局なんにもわかりませんでしたが自分は一生懸命考えましたのでそれだけは認めて下さい」という悲痛な叫びに思えるのだ。

 そこへ行くと東洋の、そして日本のアプローチは激しい。「言葉に力は無い」とばかりにわからない「本当の真実」の核心へいきなり手を突っ込み、命懸けの格闘をした後でふと力が抜けたときに「……これが真理か」とつぶやくのが日本のやり方のように思える。「不立文字」とはこういうことではないだろうか。

 日本の武士道がどういうものなのか、これで少しは明らかになるのではなかろうか。金や地位や名誉を求めて武者震いをするのが武士道ではなく、むしろそういう即物的な価値から離れて、己の精神との格闘を続ける。こう考えてみると、今日我々が「武士道」と呼ぶものに比較的近いものが想定されるのではないかと思う。

 つまり「これが武士道です」とはっきり示すことができるものは、平成も終わろうかといういまになってもまだ誰にもわかっていないということである。

 安定社会も終わりになろうかという今日、改めて武士道に思いを馳せてみるのも悪くない。少なくとも、時代物を扱う筆者にとっては。


平成31年4月28日

武良 保紀

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