相場とイデオロギー
長くて見にくいかもしれませんが、よろしくおねがいします
はじめに、この文章は引用や出典を明示することにこだわらず、持論の証明や論拠にこだわらない駄文や妄言の類である事を明記しておく。書いてある内容が事実かどうか等は、読者諸兄が勝手に調べてほしい。
本来は、いつものごとくツイッターで垂れ流して終わろうかと思ったのだが、奇特な方が小説を書く際の参考になればと思い、エッセイという体裁の駄文にしておこうと思う。
さて、皆さんは、
フォーリン・アフェアーズ・リポートと言うものをご存知だろうか?
欧米の人文系学者が国際政治などに関するリポートを寄稿している雑誌である。
その日本語版2018年の6月号に面白い記事が載っている。私は購読しているわけでも、所蔵している図書館で読んだわけでもないので、見出ししか見ていないが、それでも面白い内容である。
欧米経済の衰退と民主的世紀の終わり
―― 拡大する「権威主義的民主主義」の富とパワー
ヤシャ・モンク ハーバード大学講師(行政学)
ロベルト・ステファン・フォア メルボルン大学講師(政治学)
その紹介文を要約すると次のようなことになる。
民主主義を採用している、西側資本主義諸国が、世界の国内総生産(GDP)に占める割合は半分を割り込んでいる。そしてその割合は将来3分の1にまで減少する可能性がある。というものだ。
これはどういう事を意味しているか?と言えば、国際政治や国家運営において「民主主義を採用している国家は繁栄しているのだから民主主義は優れているのだ」という大義名分を使えなくなる。という事だ。
GDPが必ずしも国家の繁栄を意味しない。というのは、その通りだと思うのだが、少なくともGDPは国家規模の各種インフラの充実度や経済活動の活発さを示しているとは思う。
そして、多くの日本人にとって「経済的な成功」は「絶対の正義」だと思う。なにせ、日本には国教や不変の国家指導者は存在しない。個人の主張に依らない、集団における是非の判断基準は、究極的には「マネタイズ」という事になる。
この「日本」においては「経済的な成功」は「絶対の正義」。という定義が正しいかどうかを考察することは、どれだけ文字数を費やしても、満足できる内容になるとは思えないので、まあ思考実験における前提条件とでも思ってほしい。
さて、西側同盟諸国においてそのイデオロギーは、ほぼ民主主義と資本主義の二人三脚だった。歴史上、資本主義だけを採用している国家というのは存在してこなかった。それは、個人を尊重する個人主義や、自由を尊重する自由主義。そして、それらを制限しつつも包括する民主主義。という自治システムが、資本主義には必須だと思われてきたからだ。
そう、思い込みだったのだ。西側民主主義国が世界のGDP比率において過半数割れを起こした以上。それは思い込みであったと判断する事が可能になってしまった。ちなみに、残りの過半数部分を占める国家はどのようなものだろうか?
いわゆる旧東側諸国といくつかの王政国家と軍事政権。イランなどであろう。代表的なところでは中国とロシア。ロシアは民主主義国家だろう?という向きも有ると思うが、旧共産党系の大統領が連続当選し、国内統制を相変わらず強めている段階で、なんの疑念も無く民主国家と呼ぶのは難しいと思う。
実のところ選挙を実施している非民主国家は多い。例としてはは、軍事政権諸国や一党独裁の中国である。リベラルでなくとも選挙という体裁は整えれるのだ。
故に、ここで重要なのは「冷戦時において旧西側に属していた国家群のGDPが世界比率で過半数割れを起こした事」なのである。1989年以前に加盟しているNATO加盟国とアメリカ、日本、韓国、オーストラリア。これらの国が非民主国家だと指摘する人は居ないと思う。
そして、このような指摘の肝となるのは、中国の存在だろう。中国のGDPは3位の日本にダブルスコア以上の差を付け貫禄の12兆ドルである。なお、1位は19兆ドルのアメリカである。
ぶっちゃけ、人口と技術のどちらかの突出と世界市場へのアクセス、それらを支えるインフラ整備さえ確立されていれば、国の発展自体は問題なく行えるのである。
そして、市場へのアクセスというのがこの場合、資本主義にもリンクする。資本主義の対になる共産主義の根本にあるのは生産手段の公共化である。それはそのまま計画経済に繋がり、完全に計画され制御された経済においては市場は不要になる。市場経済システムが存在しなければ、世界市場へのアクセスが不可能になるからだ。
中国は憲法において共産主義を掲げ、計画経済を続けているが、同時に市場経済への参入を謳い、共産主義政権における資本主義経済への参入を模索しているのは、現在進行系で見て取れると思う。これは、資本主義国家が社会主義的政策を福祉や基盤インフラの分野で採用してきた歴史に似ている。
さて、このように現代の国際情勢では、実のところイデオロギー(〇〇主義)というものは、国家の繁栄にはあまり関係ない。のではないか?という推論が成り立つ状態になっている。別に民主主義かなんらかの独裁政権か?は国家の繁栄に直接関係ない。そして、資本主義と社会主義と共産主義の境界線は、程度問題と化して曖昧になっている。
すると、国家繁栄の鍵はどこに存在するのか?という話になる。それは技術なのか?と問われれば、日本とその他の西側諸国の技術力が、中国にダブルスコアを付けられる水準なのか?という話になり、答えはノーである。では、人口なのか?と言われれば、中国の技術躍進は21世紀(情報革命以降)に入ってから顕著になっており、人口そのものは今も昔も多いままである。
そうなると、答えは市場へのアクセスだろう。という事になる。外交などの政治インフラの確立。国内流通・情報インフラの整備。これらの成立によるアクセス数の増大。これが中国飛躍の主な理由であり、国家繁栄の鍵である。
これは、かつてイギリスが産業革命によっていち早く大英帝国として世界に覇を唱えたのに似ている。人口のいち早い市場へのアクセスの確立。工業化と労働者の誕生である。
さて、そうすると労働者が溢れ、世界人口のほとんどが世界市場にアクセスしている世界(アフリカも含めるなら今よりさらに未来)においては、国家繁栄の鍵はどこにあるだろうか?新たな新天地の獲得だろうか?他国から富を収奪するシステムだろうか?
実のところこの問いに対しては、20世紀末のアメリカが既に答えを出している。
国家繁栄の鍵は相場である。世界市場をコントロールする事が国家繁栄の鍵である。
エンロン事件が起こった頃、アメリカは既に金融工学の発展こそが国家戦略の鍵であるとして、その国策を実行していたのである。
人口や土地、資源がいくら有っても、それを市場にアクセスできないのならば、国家は繁栄しないという事を冷戦時代に中国が既に歴史として証明している。中国がレアメタルの供給国になっていたのは、中国以外にレアメタルの埋蔵量が無かったからではない。中国以外のインフラではレアメタル採掘事業では採算が取れなかったからである。
レアメタル採掘における環境負荷などを勘案した採算性なども、極論すれば相場の都合である。市場や相場と言えば、すぐに需要と供給という言葉が出てくると思う。そして、「需要と供給」という言葉を聞けば、そこに経済学的なカラクリを妄想する人も多いと思う。
ぶっちゃけ、それらはただの妄想である。妄言を書いているのに、他人の学問を妄想とぶった斬るのも無礼千万な気もするが、私はそう思っているので、断言させて頂く。
需要と供給というのは、局所的な過程の話でしかないし、それが正しく見えるのは結果論でしかない。値段を決めるのは人間だし、人間の判断基準は「欲しい時に欲しいものが手に入るか?」でしかない。それって、需要と供給ではないのか?と思えるだろうが、違う。
「需要と供給」というのは、経済の企画段階における在庫管理とマネタイズによるテクニックの話に過ぎない。いくら、買い手が存在し、生産活動が活発化していようとも、市場アクセスにおいてそれがマッチングしなければ、指標としては信頼できないのである。
諸々の、政策に口出しする経済学やその学者たちが、往々にして世界経済の行く末を占い師のごとく予言できない最大の要因は、このマッチングの不確実性に起因しているからである。すなわち、相場である。
誰かに企画された経済システム(マネタイズ手段)が、なんの遅延も誤差もバグも無く、売り手(供給)から買い手(需要)側に実行されるのならば、全ては経済学者の語る通りに動くだろう。だが、実際は違う。すべての活動とその損失(遅延、誤差、バグの事)を統計的に均して計算したとしても、やはり経済活動を予言するのは不可能である。
所詮、統計に基づく予言は、統計でしかない。常に希少品や致命的事件を「統計で均して」何かで代行代用する事はできない。世界に一つしか無いモノは、手に入らない人間にとっては青天井の値段となるのだ。そして、どれだけ統計によって保障されようと、砂漠で売っている水は莫大な価値を持つのである。その取引において重要になるのは、統計ではなく売り手と買い手の心理的駆け引きである。
そして、もしも経済学的な予言が世界中に周知されていれば、もちろん売り手と書いてはそれを織り込んだ上で心理的駆け引きをさらに加速させるだろう。それは、基準となることも有れば、ブラフと成ることも有る。つまり、予言そのものが損失をもたらしてしまう場合が存在するのである。
私から言わせれば、相場もイデオロギーも動員の口実にすぎない。それは、理想とされるもモノの為に働くのか、欲望の為に働くのか?の差にすぎない。
そして、イデオロギーの存在意義が曖昧になっている現代においては、それらの動員の口実を決定づけるモノは何になるのだろうか?と、思うわけである。
私の中には、ある程度の答えはあるが、それを書くのは別の機会に譲りたいと思う。
最後までお読みいただきありがとうございました。