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#3 Shadow


 さて、私は今授業中にこれを書いています。昨日の夜書いた文章を点検すると、自分自身が書いた、自分自身の過去のはずなのに、まるで他人のことのような気すらします。不思議なことです。




 これがたぶん教授が今言っている言語の普遍化処理というものなのでしょう。私たちは極めてプライベートで個人的な事柄をこうやって標準化し、共有し、そしてラベルを貼って生きてゆくのです。

 去っていった男性たちに『失恋』のラベルを貼り、辛かった経験に『心の傷』のラベルを貼り、何にもわかっちゃいないくせに、わかったような気になって前を向くのです。

 あぁまったく。言葉というのはまさしく神の道具です。私だって今、周りに友達も話せる知り合いも誰もいない環境下で、これを書いて自分が孤独じゃないように錯覚しているんですから。

 周りを見渡したって、スマートフォンをいじって誰かとの繋がりを求めている人ばかりです。


 どうして人はこんなに寂しがり屋に設計されたんでしょうか。人と人が繋がる力というのは、本当にすさまじいものです。

 今なんて、いつでもサイバー環境という巨大な世間に潜り込めるシステムを構築しているんですから。ああ、どうしよう。私は文章を書いていると愚痴が多くなってしまうみたいです。

 実は無意識にストレスが溜まっているのかもしれません。最近私すごく孤独になってしまっている気がしますから。どうしてだろう。




 でもそれはたぶん最近の私が孤独にならないために必要とされる努力というものを怠っているからな気がします。人はみんな孤独になりたくないと思いながら人を嫌い、人を排除し、一人になりたがっているのですから、誰かと居るにはそれなりの対価が必要なのです。

 でもまあ、それでも私は今気に病むほど一人きりではありませんし、それにあまり交友関係を広げる気にもなれません。


 もしかすると、出会った時のアカネは、今の私のような気持ちだったのかもしれません。彼女はどのサークルにも入っていませんでしたし、キャンパスの中で一人きりで生きていましたから。




 彼女はあの日、私のことを少し笑った後に、私はアカネと言います、と茶化すように、極めて冷静な声で、でも微笑みを浮かべながら伝えてくれました。想像通りの綺麗な声でした。黒い服によく似合う声だ、と私は思いました。少し低く、そして艶がありました。私はその声と、彼女のその態度にひどく安心しました。緊張も解けましたし、それに彼女についての積日の課題が解けたわけですから。

 あの、お友達になってくれませんか、と私は言いました。彼女は、少し目を大きくして少しの時間考え、それから、笑いながらいいよと言ってくれました。

 でもその日はそれで終わりでした。彼女は手を振ってそこから去って行きました。彼女は連絡先も何も教えてはくれませんでした。彼女は一定のリズムで靴音を立て、廊下を何の跡も残さず――もちろんそれは当然のことですが――消えて行きました。


 私はそれに何にも言えませんでした。手を振る彼女の目の深さと、歩く彼女の姿が、私の行動を高度に縛っていました。それら全てが私に、今日のところはもう終わりだ、と暗喩的に伝えていました。

 もちろん彼女はそんなことを言葉にはしませんでしたが、それはもう本当に明白なことでした。




 それから彼女には掲示板の前で会えなくなりました。そういうのって私はとてもずるいことだと思うのです。期待させるだけさせておいて、結局逃げてしまう。結局私はそれから暫くの間は彼女に会うことが出来ませんでした。

 でも別に彼女との関係が私の人生の全てではもちろんありませんでしたし、その時期も充実していると言えば充実していました。新しい環境に馴染みはじめ、責任を負わずに、その全てを楽しみ始める頃でしたから。




 私はそしてこれくらいの時に彼に出会いました。椎名に。その頃も今も、彼と私は同じサークルの同級生でした。そして私たちは、もちろん異性としてはという注釈付きでですが、互いにそのサークルの中で一番仲のいい人同士でした。どうしてか、私と椎名で話していると、とてもよく盛り上がりました。たぶん彼が私に話題を合わせてくれているのだと思います。私が何か話すと、彼はそれに深く共感してくれるか、それに近い話を振ってくれるのです。


 あるいは私たちは本当に何か運命的に通じあっているのでしょうか? 何にせよ、私達は自己紹介の時からすでにかなり仲良くなっていました。それこそ出会って一週間後には友達が私と彼との関係を詮索し始めるくらいに。




 私がアカネに二回目に会ったのは食堂でした。季節通り、ひどく雨の降る日でした。彼女は窓際のカウンター席に一人で座り、変な表現かもしれませんが、丁寧にうどんを食べていました。箸で二本の束をつまみ、それを紅い口元にゆっくりと運び、それからそれを一口に啜っていたのです。その紅白の対比と、それから詩的なスピード感に、私はすっかり魅了されました。それは本当に非現実的に丁寧で、美しく、リズミカルでした。


 私は何も言わずに彼女の隣の椅子に腰かけました。ずるい、と私は言いました。彼女は何も知らないとでも言いたげな口調で、何が、とそれに答えました。でも私はそれに少しの引け目と申し訳なさが含まれていることを感じました。彼女は彼女なりに至極誠実な人間なのだということを私はその言葉の発音から感じたのです。




 そして、私はその時に彼女の連絡先を入手することになります。

 彼女はキャリア・メールのアドレスを口頭で教えてくれました。ローマ字で彼女の名前と、そして数字で誕生日が入った本当にシンプルなメールアドレス。

 私はそれから彼女と同じようにうどんを食べました。私がそれを買って戻った時には彼女はすでに彼女のものを食べ終えていましたが、それでもアカネは私を待ってくれていました。




 私は彼女の横でそれを啜りました。彼女と同じように、私は食堂の鈍色の箸でそれを二本つまみ、口元に運んで、一口に吸い込みました。その間彼女は何も言いませんでした。私はひどく緊張していました。少なくとも私の中では、私はその時彼女にその食べ方を採点されていました。汁が飛んでいないか、音は許容範囲か、全体として美しいか。


 彼女は本当に何も言いませんでしたし、何もしていませんでした。まるで私のことなんて目に入っていないみたいに。でもそれは逆に私の存在をひどく意識している行為のように思えました。それは私の妄想だったかもしれませんが、彼女は確りと私のことを見ていたのです。何らかの個人的な感情をも持って。


 美味しい?、と彼女は私に訊きました。私はうどんを口に含んで、だから口を閉じたまま美味しいと答えました。そう、と彼女は言いました。それからまた辺りには静寂が漂いました。私は今までの人生の中で一番緊張しながらうどんを啜り、彼女は何も言わずに目の前を見つめ続けていました。


 私が食べ終わり、それから席を立つと、彼女も同時に席を立って、私に手を振りました。でも今度は、彼女は口を開いて、またね、と確りと発音しました。私は彼女に全く同じ言葉を返しました。食器を片付けながら、横目に捉えた去って行く彼女の背中は、それだけで完成された美しさを持っていて、周りの風景と、非絵画的なコントラストを形成していました。




 私は毎週水曜日にはアカネと一緒に昼食をとるようになりました。二回目に食堂で会った時に、私は彼女とそう約束したのです。彼女は私のその提案を聞いて、でも全く何の反応もしてくれませんでした。彼女と関わっていると、よくそういうことがありました。私が彼女ともっと仲良くなろうとすると、アカネは身を引いてしまうのです。でも、いざその次の週になると、彼女はちゃんと私に、どの食堂のどこの席に居るか、ちゃんとメールしてくれました。


 私はそこに行って、そして彼女と並んで昼食を摂りました。そう、彼女は絶対にカウンターに座っていました。私が来るというのはわかっているはずなのに。でも私にとってはそれも中々味があっていいものでした。私は食事をしながら、彼女の横顔を時々盗み見ていました。

 彼女は鼻が高く、つり目で、白い肌をしていて、端的に言ってすごく綺麗でした。毎回、彼女は殆ど何も言いませんでした。私たちは並んで食事をし、私は彼女をそうやって盗み見て、そして彼女は午後の授業が始まる頃になると私に手を振って去って行きました。彼女は私が知りうる中で一番美人でした。私好みの顔をしていたのです。




 でも彼女には男性の影がほとんどありませんでした。私はアカネが男性と付き合っているところや、そういう所を全く想像できませんでした。でもそういうものも人それぞれなのだと私は思っていました。恋愛なんて生きるのに必須のものではありませんから。


 私たちは生きたいという希望さえあれば生きていけるのです。あるいはだってこの世の中には自殺志望者も沢山生きているくらいですから、それさえも必要ではないのかもしれません。

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