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溶け切らぬ粒子たち  作者: 鈍川つみれ
Spring (again)
39/40

#37 Letter

 私は、この文章を、気持ちを整理するために書き始めたつもりでした。雑然としたエピソードに櫛を通して、整理をよくしようと思ったのです。


 けれど、私は書き始めるとすぐに、それとは別の目的を見つけました。そして、書き進める度に、その気持ちはどんどん大きくなりました。


 あるいは、勘が良ければとっくに気が付いているのかもしれないけれど。


 自己評価の低く、そして恐らくは勘のあまり良くないあなたへ、私ははっきりと言っておきたいのです。これは、あなたへのラブレターです。


 鈍川茜さん、あるいは、私の前でそう名乗っていた、あなたへの。


 あなたは、別れる時に、一方的に別れる時に、心の中を、洗いざらい話してくれました。だから、私もそれに報いたいと思ったのです。私はあの時の私の全てを、もし実際には至らなかったにしろ、ここに書いたつもりです。心の中を、行動を、経験を、全て。


 もし欠陥があるのだとするなら、それは私の記憶の欠陥であり、私の人生の欠陥です。


 きっと私には、他人から見れば本当に沢山の欠陥があるのだと思います。


 私たちは、他人と完全にイコールでいることはできませんし、だから社会と完全に相似でいることも、出来ません。そしてきっとそのズレが、その人の個性と言うべきものなのだと、私はそう思うのです。




 さて。書いていて、私はいくつかのことに気付くことが出来ました。

 一番大きな気付きは、あなたの隠し事に関することです。


 見えるものだけに囚われてはいけないと、あなたはそう言いました。見えないだけで、今の渋谷の上にも星は輝いているのだと、プラネタリウムの解説員はそう言いました。視覚は、時に大きな勘違いを生みうるのです。


 私は、恐らく答えに辿り着いたのではないかと思っています。




 蛇足かもしれませんが、私はここに後二つのことを書き連ねたいと思います。


 一つ目は、あの時聴いたピアノの曲についてです。私はあの音を本当に忘れられませんでした。心にこびりついていたのです。そしてだから、逆にそれを積極的に探そうとはしませんでした。思い出がすり替わってしまうのが、嫌だったのです。


 けれど、私は結局その曲名を知ることになりました。テレビだかラジオだかで流れていて、それで知ってしまったのです。クロード・ドビュッシー、月の光。


 ひどくスタンダードな曲だと言えば、それはそうなのですが。私はそれをもう一度そこで聴いて、それでも泣きそうになりました。私があの時、あの場所で彼の演奏を聴くとして、それ以上の曲はなかったと、私はそう思うのです。




 二つ目は、コエについてです。彼女は私と別れる少し前に、その腕を見せてくれました。その時彼女はおもむろに上着を脱いで、左手のシャツを肘までまくりました。私は混乱していました。意味が分からなかったのです。訳の分からない緊張が、私を襲いました。彼女の腕は、表側は本当に綺麗に見えました。白くて、細くて。でも彼女がその裏を見せると、そこには何本かの青白いミミズ腫れがはっきりと存在していたのです。


 リストカット痕、と、彼女は言いました。


 私はそれから目を背けました。今思えば、それは私を信頼してくれていたんだろう彼女を、もちろん彼女としてはそれも覚悟の元であったでしょうけれど、ひどく傷付けてしまう行為だったかもしれません。でも、言い訳をするようですが、小学生の少女にとって、それはとても直視出来るような存在ではなかったのです。


 ねえ、落ち着いて聞いてほしいの、と彼女は言いました。きっと、これを見てあなたは私がおかしいんじゃないかって、思うと思うし、それは決して異常なことでもないと思う。


 だけどね、これは生きる希望なのよ、と彼女はそう続けました。


 この訳の分からない社会の中で、自分の身体を傷付ける行為だけは、その結果が想像通りに返ってくるのよ。本当に痛いし、たまらないけれど、その痛みと、出てくる血が、想定通りだから。だからね、ああ、まだ現実には私が想像できることもあるんだって、私はまだ何とか現実に存在することが出来てるんだって、思えて。心地いいのよ。


 彼女はそう言って、私に切なそうに微笑みました。


 死にたいから、するんじゃなく、生きたいから自傷するのだ、と。


 想像通りのことは、もしそれが苦痛であったにしろ、心地よいのだ、と。


 彼女の、その身体を張って教えてくれたこの言葉たちは、私の中で未だに生々しさを保ったまま、ずっと記憶されています。


 私がこんなにいろいろなものを理不尽に失って、それでもまだ平然としていられるのは、たぶん昔に味わった彼女との別れもまた、私にとっては理不尽だったからなのです。私は、人と話していて、別れの場面を何度も何度も想像してしまうのです。




 最後に、あなたへのメッセージを残したいと思います。


 もしあなたの隠し事が、私の思っている通りであっても、そうでないとしても、私はあなたのことを、全て許そうと思っています。


 私は、もう一度あなたに会いたいのです。


 あなたと別れてから、私の世界は、本当に淡泊になりました。私はもうあなたといた頃のような、多彩な感情を抱くことが、なくなってしまったのです。そうでなくても、今の私たちの世界は、自然の持つ多色性を、すっかり失ってしまいました。




 あるいは、この社会における一人の人間の存在というのは、とても無力で。出来ることなんて、自分で染めるというよりは、決まった形に、色を乗せていくだけのようなことなのかもしれないけれど。このカラレスな世界に、色があったのは、紛れもなくあなたのお陰でした。


 私はこの題名のない文章を、ネットにでも漂流させようと思っています。


 これがいつかあなたの目に留まって、あなたがいつか私の前に本来の姿で現れてくれることを、私は願っています。




 この、長い長いラブレターを、あなたに。




 秋川 藍 

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