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溶け切らぬ粒子たち  作者: 鈍川つみれ
Spring (again)
37/40

#35 Fail

 私は途中からもう何もわからなくなってしまっていました。感情も、視界も、全てが白い世界に包まれてしまっているのです。まるで靄の中にいるみたいでした。


 私は泣いていました。


 思考が戻ってきて、最初にしたことは、返信をすることでした。私は携帯を操作して彼女に空メールを送りました。来たのは、ドコモからのフェイルメールでした。


 "Error 550; Invalid recipient; User Unknown;"


 私は息の詰まるようでした。もう頭がどこか別の場所に行ってしまっているみたいで。何の思考もすることができませんでした。


 私はそれから背中に立った鳥肌と、溢れ出る涙を、ずっと感じていました。




 その次の日、私はアカネのいるはずのキャンパスの入り口に、ずっと立っていました。


 山の上のキャンパスでした。外界からは殆ど接続を断たれていて、入るには絶対に、その正面の入り口を通らなければならない設計になっているのです。


 私も、その日いくつかの授業はありましたが、でももうそんなもの、アカネと比べれば、何の意味もないような気がしていたのです。私は柱に立って、朝から夜まで、籠城を決めこみました。


 授業が始まった時には人が雪崩れ込んで、終わった時には人がぞろぞろと出ていく。


 私はもう直感的に、これに意味はないのではないかと、気付いてしまいました。全員の顔を確認することなど、ほとんど不可能なのです。


 けれど、諦める気持ちにはなれませんでした。

 アカネの家の場所を、私はもう思い出せなかったのです。彼女は駅からものすごく複雑なルートを通って、私を家まで案内してくれました。

 今思えば、それはきっと私の記憶に、彼女の家の場所を残さないための、彼女の策だったのかもしれません。

 一回だけ、私の終電の危ない時に、ひどく単純なルートを通っていたことがありました。きっと、それが本来の道なのでしょう。暗くて、全く思い出せないのですが。


 二日目には、私は入り口の隣のカフェに座っての監視を続けました。


 家には帰っていましたが、でももう全く寝られなくて。殆ど徹夜みたいな状態で、自分からしても、もう見つけるのなんて到底不可能だと、分かりながら。でもただ精神力だけで、私はそれをずっと続けていました。


 三日目、私は同じところにいました。


 もう限界だと、私も完全に理解していました。私はそれでも、諦め切れなかったのです。




 午後の、一時頃でした。


 ガラス張りの店内には、日が差してきていて。私はもうグロッキーで、光がぼやけて、そこに何か天国のようなものを、幻視してしまうくらいでした。


 鳴ったのは、ピアノの音でした。


 最初は、静かなメロディーでした。

 小さく、震えているような、消えていってしまいそうな、音。

 次にそれに繋がったのは、重みのある音でした。黒鍵の、何か跳ねるような風味が加わった、でも落ち着いていて、何か心の奥底にある感情を、掬い取っていくような、そんな音。


 私は柔らかい光をそこに感じました。私は演奏者を見ずにはいられませんでした。

 カフェの奥のグランドピアノには、黒い、濃紺の服を着た男性が座っていました。彼の方を見ると、音がまた何かその色を変えたように思いました。滑らかなメロディーの中に、でも時々高く上がっていく音が、私の心の中にあった、何か意地やそういうものたちを、完全に壊していきました。

 私はもうそれに心を完全に奪われていました。聞いた覚えのある旋律でした。けれど今までで一番心を叩かれた旋律でした。もう本当に私はそれに魅了されていたのです。

 私の感情は音と一体になって動いていきました。右手の主旋律に沿って心臓が鳴っているような気がして、左手の音に私は脳を叩かれるようでした。




 カフェは音に支配されていました。


 灰色の壁も、椅子のプラスティックの毒々しい蛍光色も、全てが輝いて見えました。


 私は途中から泣いていました。


 声を出して。周りなど、本当に気にならずに、ずっと。


 曲を最後まで弾くと、彼は演奏を止めて、鍵盤を閉じました。


 彼の去る、私を心配そうに見るその顔が、一瞬さっと見えて、でも私は、そんなこと殆ど関係なく、下を向いて、涙を落とし続けていました。


 結論として私は、その日のその時から、その実入りのない行動を打ち切りました。

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