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#25 Distance

 彼女はずっと問題を解いていて、私はテーブルの上で消しゴムを動かし、指で遊んでいました。暇なら、帰ってもいいのよ、と、彼女は言いました。この家、本当に何もないんだから、と。私はそれを上の空に、聞き流していました。




 テーブルは黒く、空間は静かでした。私は前のことを思い出していました。テーブルと私に全部の体重を預けて、下を向いて、ただ泣いている彼女を。


 幻聴が聞こえました。彼女の啜る音。私は机に突っ伏しました。冷たい感触。あの時彼女が感じていたのだろう、感触。机の上に耳を置くと、彼女が鉛筆を動かす音が、時を刻むように響いて。私はあの時の感情が蘇るようでした。


「ねえ、質問してもいい?」、と私は言いました。消しゴムを横に倒しながら。

「いいけど、何?」


 鉛筆の音が止まって、私はアカネの方を見つめました。その、ひどく真剣そうな顔を。


「どうして、あの時、あんなに泣いてたの? ねえ、何があったの?」


 彼女は私の顔を暫くじっと見て、それから、何でもないのよ、と言いました。


「ごめんなさい、心配させるようなことをして」

「心配させたくないなら、理由を言ってよ」


 私は消しゴムを縦に立てながら、そう言いました。


「それとも、私には言えないの?」

「ごめんなさい」


 彼女は、そう私に答えて、あとは何も言ってくれませんでした。表情から、彼女は私に何も言ってくれないだろうことは、夏の空くらいに明らかに思えて。私は冬の空くらいに悲しい気持ちになりました。私は、きっとまだ完全には信用されていないのです。そして、私は彼女の泣いている意味も、理由も、だから聞くことが出来ないのです。涙を見て、何だか本当の彼女を知られたような気になって、私は少し思いあがっていました。私は彼女にそれなりに心を許されていると思って、でもそれは恐らく実際には違っていたのです。


 情けないことに、不意に瞼の裏に涙が触れて。私はそれを必死に消しました。そして、そうしていると私の脳裏には最悪の可能性が浮かんで。私は、耐えられずにそれを口に出しました。


「ねえ、一つだけ聞いていい? 泣いたの、私のせいじゃないのよね?」

「あなたのせいじゃない」


 彼女は私の目を見て、繰り返して言いました。あなたのせいじゃない。


 私はそれに少し安心して、でも心の奥の悲しさは消えなくて。彼女のことが、もっと知りたくて。膠着した思考の中に、そしてその答えを見出しました。


「じゃあ、連れてって。あなたの地元に」

「どうして?」

「原因は、そこにあるんでしょ? 泣いたの、帰省した直後のことだもの」


 彼女はペンを置いて、目を伏せて、考えるような仕草をしました。


「原因がどうであっても、それはあまりにも乖離してないかしら、提案として」

「ダメなの?」

「そういうことじゃなくて」

「私が知りたいのは、ダメかダメじゃないかだけなの」

「どうだろう、少し考えさせて」

「私、泣いたのよ」


 私は彼女の目を見て言いました。少し俯いている、その目を。「泣いたの」


 それは引け目に付け込むような行為でしたし、少なくとも誠実ではなかったと思います。けれど、私は本当に知りたかったのです。理由を。そして、彼女の傷付いた場所に行けば、それがわかるのではないかと思っていたのです。論理的ではなかったかもしれませんが、でも、直感的に。それに、純粋に行ってみたかったのです。彼女の地元に。




 彼女はそれから暫く目を伏せて、「わかった」と言いました。


「わかった。テストが終わって、その時もあなたがまだ同じ気持ちなら、連れていくわ」


 視線は下に向けたまま、淡々とした口調で、彼女はそう言いました。


 その態度からは感情は殆ど伺えませんでした。私は目的を達成して、そうすると急に、彼女に嫌われたのではないかという恐怖が心の底から湧き上がり始めて。私は、暫くの間何も言えず、背中の汗に後悔を覚えていました。




 結局は、それから少しして私は帰宅することになりました。


 アカネは駅まで私を送ってくれました。行きと同じような道を通って。私は何も言えませんでした。話してはいけないような雰囲気が、二人の間には流れていたのです。今思えば、それは彼女の感情を害したからとかではなく、実際にはただお互いに意識し過ぎただけだったような気もするのですが、でもそんなこと、アカネとの間では初めてくらいのことで。私は本当に胸が締め付けられるようでした。


 改札の目の前まで私たちは無言で歩きました。沈黙を破ったのは彼女でした。「じゃあ、ここで」と、彼女は私に告げました。いつもとさして変わらない口調で。だから私も、またねと、少し緊張しながら、でもいつも通りを意識して、言いました。


 それから私たちは多少の距離感への戸惑いはありながらも、手を振って別れました。

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