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#11 Sweep Away


「彼氏、いないの?」


 隣の席で梨紗がそう言ったのは、その次の月曜日のことでした。


「いない」と私は言いました。


「少なくとも、今は」


「作ればいいのに」


「そんなに簡単に作る気になれないのよ」


 彼女はそれから少しの間沈黙を守り、暫くして、一緒に帰らないかと言いました。


 いいよ、と私は答えました。


「渋谷まで行くんだっけ?」


「いや、武蔵小杉までしか東横には乗らない」


「じゃあそこでいい」と梨紗は言いました。「きっと一つくらいはカフェあるでしょ」と。


 たぶん掃いて捨てるほどある、と私は答えました。




 私たちは結局駅ビルのような東急のモールの中のカフェに入り、二人でカフェラテを頼みました。そこは南関東ならどこにでもあるような都市型のカフェでした。特に椅子が柔らかいわけでも、テーブルが重厚なわけでもない、ただ限りなくお洒落なだけの喫茶店。


「こんな風に面と向かって話すのなんて初めてかもね」と彼女は言いました。


「確かに」、と私は返しました。


 彼女は熱を吸うようにホットラテを曖昧に持ち、それから私に微笑みを向けました。


「ねえ、私あなたのこと結構好きよ。友達として。高校の時になんて一切話さなかったのにね、不思議と」


「高校の時にも話しかけてくれたってよかったのよ」


「ううん、でもね、きっと高校の時に話しかけていたら私あなたと今ここに居ることもないと思うの。今だから出来ることもあるのよ」


 そうかもしれない、と私は思いました。高校の時の友人の密度を私達で再現したら、こんな関係などすぐに粉々になるだろう。それは想像に難くないことでした。今二人がやっていけているのはきっと、それが比較的に希薄な人間関係だからに他ならないのです。私たちはもう敵を作って悪口を言い合ったり、出来るだけ素顔を見せないように心掛けながら人に接したりすることから解放されたのです。そんな風にして一番仲の良い人すらも段々嫌いになっていかなくてもいいのです。


 それから彼女はプラスティックだか耐水紙だかの容器に入ったカフェラテを飲み始めました。私もそれを見て同じようにカップに口を付けました。熱く、苦く、全体としてあまり釈然としない味の液体。社交的な飲み物。


「私ね、いつか私も結婚して子供を持つんだろうって、何となく思ってたの」


 彼女はそんな風に私に語り掛けました。


「突然こんなこと言ってごめんなさい。でも、そうなの。親もそう言ってたし、教師もずっとそんな風に言ってきたのよ。小学校の時の、結婚した後のことを考えてみましょう、から始まって、高校まで、今の社会は結婚した後の女性は働けない、みんなもそんなの嫌でしょう、なんて。私そんな風にずっと結婚が前提の言葉をかけられ続けてきたの。そしてね、私もうそういう歳になったのよ。あなただってそうでしょう?」


 私はそこで彼女に相槌を打ちました。私達は基本的にそういう社会的欲求にさらされてきたし、それにもう婚姻届さえ役所に出せば、結婚することも可能なのです。


「私ね、大学って一つのチャンスだと思ってるの。特に私たちの大学なんて、ひどく優秀な人か、ひどくお金を持ってる人しかいないでしょう? 私、誰かを捕まえたいのよ。捕まえて、離さないでいたいの。それってさ、間違ったことなのかな」


 彼女の言葉はかなりの真剣さを纏っていました。


「間違ってはいない、と思うわ」と私は言いました。「考え方の一つだ、と思う」


「そう、ありがとう」


 彼女は吐息の混じったような疲れた声で私にそう伝え、それから恐ろしく大人の女性的な、曖昧な微笑みを浮かべました。それは演じられた強さと本質的な諦観の作る表情でした。




 それから私たちは当たり障りのない話を暫くの間続けました。それは例えば最近流行っているドラマについての話だったり、私の好きな音楽についてだったり、文学の授業の分かり辛さと教授への要求とか批判とかだったりしました。


「あんなものを卒業するまでずっと聴かなきゃいけないなんて、文学部は大変ね」、と梨紗は言いました。「私には無理かもしれないわ」


「でも私、結構気に入ってるのよ、この学部。それに言葉にだって面白いことはあるわ」


「例えば?」


「私ね、日本語とかロシア語とか、そういう言語が好きなの。例えば英語ならダとかアとか、名詞の前に冠詞が絶対に付くじゃない。フランス語でもそう。ルとかラとかが絶対に付くわけ。でもね、日本語やロシア語にはそれがないのよ」


「それのどこがおもしろいのよ」


「英仏文学はどんないい作品でも、一番多く使われている単語ってきっと冠詞なのよ。でも日本語はそうじゃない。ロシア語もそうじゃない。私たちは名詞だけでものを作り上げることが出来る。冠詞の空間に名詞を代入するわけじゃなくてね」


 私はそこで少し息を吐いて、マグカップを掴む自分の手を一瞬だけ見つめました。


「それってすごく素晴らしいことだと思わない? 私たちはイギリス人やフランス人やアメリカ人とは全く違う発想の元で生きてるのよ」


 梨紗は少し笑みを堪えたような顔で小さくため息をつき、変わってるわ、やっぱり、と私に言いました。それから彼女は悪意の本当になさそうに笑いました。私も彼女に向かって微笑みを浮かべました。ひどい、と言い添えながら。




 私たちはそんな風に一通り話しこんで、それからカフェを離れました。モールから出て、私たちは手を振って別れ、私は南武線の方に、彼女は東横線の方に向かいました。エスカレーターを降りていく彼女の背中は、私には少しだけ小さく見えました。

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