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#9 Donut

 会いたい人には、自分から会わなければ、会えない。

 彼の提示したテーゼは、私には確かに一定の妥当性を持つように感じられました。




 私にはその時、会いたい人がいました。それはある意味で彼のお陰で気付いたことでもありました。あの日の新宿の地下街で、見かけたと思っただけで、無意識的に身体が追いかけてしまった人。


 秋学期になってから水曜日の二時間目には授業がなくなっていました。私はその週の水曜の二限の始めから、昼休みの終わりまで食堂棟の入り口の近くのベンチに居座り、一階に行く人、二階に行く人の両方の姿を観測し続けました。彼女は、ほぼ確実に、そのどちらかには居るはずでした。


 私は一回目の観測を空振りに終えました。でも私は諦める気はありませんでした。恐らくは見逃してしまったのだろう、と私はその結果をポジティブに捉え、次は見逃さないようにしようと心の中で誓いました。


 そして次の週の水曜日、結果として私はアカネの姿を捉えました。


 それは昼休みの終わり近くのことでした。その時、彼女は食堂に入ろうとしていました。後から聞いた話ですが、彼女は逆に秋学期になってから二時間目の授業が入って、水曜日を随分と不規則に過ごすようになったそうでした。


「待って」と私はアカネに声を掛けました。それから、「久しぶり」と。


 彼女は目を丸くして私を見ていました。


 私は三時間目に授業を抱えていました。「ずっと会いたかったの」と私は彼女にそう伝えました。「ずっとよ」と。それは私にとって決して嘘ではありませんでした。一度アカネのことを意識的に考え出すと、私は今までもずっと心のどこかではアカネのことを考えていたような気持ちになりました。


「だから、お願いだから今日の六時に駅前のミスドに来てほしいの」と私は言いました。


 彼女は頷きました。私はそれから授業を受けに第四校舎まで戻りました。


 私は授業を受けながら彼女が来てくれるようにずっと願っていました。それから、少しの出席点にも気を払わなければならない自分の立場を呪っていました。でも、私はもうアカネの手を離す気はありませんでした。例え今日彼女が約束を破ったとしても、私は来週もこれをずっと続けていくつもりでいました。




 六時のミスドには彼女は居ませんでしたが、六時半には彼女は私のテーブルを見つけて、私の対面に荷物を置きました。


「ごめんね、買ってくる」と彼女は私に言って、それから彼女はドーナツを二つトレイに載せ、レジで紅茶を用意してもらっていました。私はそれをぼぉっと見ていました。そこでは、現実感と非現実感が高い次元でせめぎ合っていました。


 それから彼女は私の目の前に座りました。正面から見る彼女は控えめに言ってとても綺麗でした。そしてその姿は私には不思議ととても新鮮に映りました。よくよく考えてみれば、彼女が私の目の前に真っ直ぐいたことなど殆どありませんでしたから、それはそもそも不思議な感情ではなかったのかもしれませんが。


 私たちは暫く互いに何も言わず、時々ドーナツをかじっていました。彼女には新品が二つ、私には食べかけが一つ。私は何か信じられないような気持ちで、彼女の存在するその沈黙を味わっていました。一人で待っていた時とは全く違う沈黙。彼女の作り出す沈黙。彼女の存在感の混じった沈黙。


「そんなに会いたがっているなんて、知らなかった。ごめんなさい」


 彼女は唐突にそう言い出しました。


「忙しかったし、それにあなたも私のことなんてすぐに忘れると思ってた」


 それから彼女は私を見つめ、私は彼女に見つめられていました。それは暫くの間続きました。私は彼女のその言葉への明白な答えを一切持ち合わせていませんでした。そもそも私には彼女に謝られる算段などありませんでしたから。だから私は出来るだけの誠意と、それから好意をもって、彼女を見つめていました。次の言葉を考えながら。


「謝ってくれなくていい」と私は言いました。「それに、私はあなたを忘れない」


「そう」と彼女は返しました。「ありがとう」


 その声は限りなく瞭然で、真剣なように、私には聞こえました。


 彼女はそして何か表情を隠すようにアイスの紅茶を飲み、私のことを少しストーカーみたいだと茶化して言いました。確かに、それっぽいね、と私はそれに返しました。私たちはそれから顔を見合わせて笑いました。それはまるで夏休み前に時間が戻ったみたいに、普通で貴重な交流で。私は言葉では言い表せないくらい安心していました。心の奥底では、私は彼女に嫌われたのではないかという疑念をずっと持っていましたから。




 それから私たちは毎週火曜日に会うことになりました。また食堂で。彼女はこの日からちゃんとメールをしてくれるようになりました。私から送れば、返ってくる。火曜日には、彼女から連絡が送られる。それはもう私にとっては十分すぎるくらいのことでした。

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