深く、古く
「彼はああやって人の心理を掻き乱し弄ぶ。そこに楽しみを見出すような人間だ。かなりの性悪だよ」
藤花は顔を陸人から離しそう告げる。
陸人は、海棠が言っていた『露骨に僕のことを嫌がる人』が存在する理由がわかった気がした。
「それにしても、なんで僕がお人好しって言われていることがわかったんでしょう」
「そいつは簡単なことだ」
陸人の率直な質問に、藤花は躊躇うことなく答える。
「彼は骨董に対してだけでなく人間への観察眼も常軌を逸している。仕草、表情、言葉……それら全てから対象人物の人間性、さらには深層心理に眠る本性まで探り当てる……。全く、末恐ろしい男だ」
藤花はそう言ってため息をつく。そんな様子の藤花に対して、陸人の脳裏にある疑問が浮かんだ。そして陸人は、少し口ごもりながらも藤花に二つ目の質問を投げかけた。
「……あの、藤花さんも三崎さんに何か言われたことがあるんですか?」
その問いに、藤花は表情を消し一瞬身体をこわばらせる。しかしすぐに先ほどまでの笑みを浮かべた。その笑みはどこかふて腐ったような、自嘲を含んだ意味深なものだった。
「……彼は、『君は何かに怯えているんだね』と、そう言ったよ。先刻の様にニヤニヤと笑いながら」
怯えている——
陸人にとってその言葉は、それこそ藤花の印象とはまるで違うものだった。
漆黒のスーツに身を包み、怖いことなど何もないと言わんばかりの高圧的な態度。まだ二十代とは思えないほど豊富な知識。どこか達観したようなその瞳。
そんな藤花が、何かに怯えている。
彼は、海棠はそう言ったのだ。まるで全てを知っているかのように。
断定し、そう告げた。
「さすがの私も一本取られたよ。私が何かに怯えている。神をも恐れぬこの私が、この世に実在する何かに怯えている。そんなこと思いもしなかったからね」
藤花は続ける。何故か清々しく笑いながら。
「だから私は彼に誓ったよ。『ならその何かを見つけるまで、私はどんな要因によっても死ぬことはない』とね」
そう言って藤花はニヒルに口元を吊り上げる。その様子を見る限り、どうやら本気で言っているようだ。
「……やっぱり、藤花さんは滅茶苦茶ですね」
「お褒めに預かり恐悦至極だ」
藤花は胸に手を当て、ヨーロッパの貴族のするように腰を折った。高身長と黒スーツが相まってとても様になっていた。
「さて、それでは今日も業務を始めるとするか」
「はい。どうせ今日も僕は店番ですよね」
「よくわかってるじゃないか。頼んだぞ、陸人よ」
卑屈っぽい言葉とともにカウンターに向かう陸人に藤花は満足そうに微笑み、再び二階へと上って行った。
陸人は藤花が上りきったことを確認した後椅子に腰掛け、
「二階ってどうなってるんだろ……」
なんとなく、素朴な疑問を口にしてみた。答えが返ってくることはもちろんなく、陸人自身そんな期待はしていなかった。
特に何も考えず呟いた。ただそれだけだ。
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「よー、麻宮」
「こんにちは、先輩。相変わらず暇なご様子で」
「暇暇って言うけどさ、麻宮も大概だよね。毎日授業後ここに来て、分厚い本を読んで帰る。これを暇人と言わずなんというのか」
「心外ですね。私は暇なのではありません。この行動も私が考えた日常生活の一つの要素。必要な行為なのです」
「それ、結局業後は暇ってことになるんだよなぁ」
その日の午後、例によって店を追い出された陸人は、静流の毒舌を浴びながらも部室に足を運んだ。
「それにしても、ホントに謎だよこの部活。文化研究部ってなにすればいいんだろ」
陸人は静流の向かいに腰を下ろし、改めて部室内を見渡してそう言った。
「その謎な部活に私を半ば強引に入れたのは先輩ですけどね」
「いやいや、人聞きの悪いこと言わないでよ。ちゃんと合意の上だったでしょ」
「だいたい、先輩もよくわかってないのにこの部活に入ったんですから、本当に愚かですよね」
「何故同じ部の後輩にここまで言われなきゃいけないんだ……」
静流は本から視線を外すことなく、少し落ち込んだ陸人にさらなる言葉を浴びせる。
「先輩は何故こんな謎な部活に入ったんですか? こんな謎な部活に」
「二回言わなくてもいいよ。そしてそんな興味ない感じで聞かないでよ。疑問形ならちゃんと語尾上げてよ」
「いちいち注文が多いですね。最終的に塩でも塗らせる気ですか。いいからさっさと答えてください。さもないと先輩の顔を二度と元に戻らないほどぐちゃぐちゃにしますよ」
「そんな宮沢賢治じゃないんだし、ここは料理店でもないんだけど……」
静流はいつにも増して舌鋒鋭く追及する。陸人はそんな静流の言葉を軽く受け流し、腕を胸の前で組み思考を巡らせる。
「そうだなぁ……一番の理由は、ここが丁度良かったからかな」
「丁度良い……それはどういう意味でしょうか」
陸人のその答えに、今まで本しか見ていなかった静流の双眸が陸人の顔を捉えた。
「なんというか……自分でもよくわからないんだけど、人がいっぱい居る空間はあまり好きじゃないから、その影響かな? 昨年度は麻宮がいただけだし、その前までは一人先輩がいたっけ」
「先輩の先輩ですか……まあさして興味も湧きませんね」
静流はそう言うと、再び視線を本に戻す。そしてこの空間に、二人の間に、極めて自然な沈黙が訪れた。
いつも通りの、変わらない日常だ。