今思うは
「まぁ、麻宮が帰るって言うから俺も帰ってきたんですよ。で、藤花さんは何をしてたんですか?」
店の奥へと歩きながら答える陸人。左右に陳列された骨董に目もくれず、奥のカウンターへと向かう。
「ちょっと古書の整理をな。君が可愛い後輩君と会っている間にいい本が手に入ったんだ」
藤花は再度陸人に背を向け、後ろにあった大きな木棚から一冊の本を手に取ると、これまた年季を感じさせる落ち着いた茶色のカウンターの上に置いた。
「これは万葉集の写本だ。まだ鑑定は出していないが、私の見立てでは江戸時代のものだろう」
「ま、万葉集ですか」
藤花は白い手袋をはめた手でページを繰りながら、うっとりした様子で語る。陸人はそれに複雑な心境で相づちを打った。
「ん、どうした陸人よ。いくら蒙昧なお前とて万葉集を知らないわけではあるまい」
「いや、知ってますよ。例えば、ほら、高橋虫麻呂? とか」
なんとか藤花を誤魔化そうと、陸人は今さっき覚えた人名をぎこちなくも口にした。すると藤花は、それが予想外だったのか少し驚いたように目を開く。しかしその後、すぐに何かを悟った様な邪悪な笑みを浮かべた。
「ほう。虫麻呂とはまた渋いところをつくな。伝説歌人として知られた御仁だが、私は第三期の中では山部赤人が好きだな。そう、柿本人麻呂と共に『歌聖』と賞された人物だ。彼の遺した和歌たちは日本各地の情景を雄弁に物語っている。おそらく諸国を旅したのだろう。その熱意もさることながら、技術面でも大変素晴らしい。叙景歌を詠ませたら右に出る者はいなかっただろう。何と言ってもあの紀貫之をして、赤人の腕は人麻呂よりも上である、と言わしめた程だからな。やはり万葉集を語る上で外せぬ人物だろう。そうは思わないかね、陸人よ」
「……すみません。俺にもわかるようにお願いします」
藤花の濁流のような言葉の猛攻に全くついていけない陸人は、素直に負けを認めざるを得なかった。
「ふふっ、やはり俄の知識だったか。どうせ静流ちゃんの受け売りなんだろう」
「ご明察です……」
愉快そうに笑う藤花に陸人は返す言葉もなく、ただただ肯定した。面白そうに口元をほころばせていた藤花だったが、次に口を開いた時、その表情は一転真剣なものへと変わった。
「いいか陸人よ。他人から授かった知識は大いに振るえ。だがそれは自ら十全に調べた後だ。何も行動を起こさなければ、その知識は錆びた剣は疎か、己を傷つける棘となるだろう」
「……」
藤花は陸人の目を見てそう言った。曇りなく、澄み切った瞳で。陸人はというと、そんな藤花の瞳を少し戸惑いながら見つめていた。
「まぁ」
藤花は再び口角を上げ微笑む。その様子は先ほどまでの真剣な様子とは程遠く穏やかな、それでいてどこか無邪気な笑みだった。
「人生の先輩からの教訓程度に思っておけ。心の片隅にでも留めておいてくれたのなら幸いだ」
そう言って藤花はカウンターの上の本を持ち上げ、丁寧に棚に戻した。そして棚の前で何かを操作しているようだった。
「ははっ」
藤花の言葉から数秒の後、陸人は呆れたように笑った。その表情に不満や動揺はない。極めて自然で好意的だ。
「人生の先輩って、藤花さん俺と二、三歳しか変わらないでしょう。どれだけ達観してるんですか」
「骨董屋の店主をしていると、色々な格言や思想などを目にするものさ。お前もここで真面目に働いていれば、そのうち人のなんたるかがわかるようになる」
陸人の言葉に、振り向きざまにそう返す藤花。
「でも、俺アルバイトですよ。仕事もろくに貰ってないし」
「おや、そうだったのか。私はてっきり正式採用したつもりだったのだが」
「あれ、そうだったんですか。それなら尚更仕事くださいよ。毎日部室に来るから麻宮に呆れられてるんです」
「朝昼の店番を任せているだろう。それでまだ働きたいとは、君は酔狂人だな。わかった、では今から店番を頼もう」
「結局店番ですか。もっとこう、ないんですか。買い付け交渉とか」
「戯け。それこそもっと知識をつけてから出直してこい」
藤花は陸人の頭を掴み、髪の毛をわしゃわしゃすると、左手をひらひらと力なく振りながら二階へと登って行った。陸人はまだ二階へ上がる許可を貰っていないので、後を追うことはできなかった。
「……というか俺って、正社員だったのか」
陸人は一人、藤花がいなくなった店内で呟いた。そしてカウンターの裏に回ると、そこに置いてあるフカフカの椅子に腰掛けた。
ふと後ろを向くと、そこには古そうな本が陳列されたこれまた古そうな棚。そして、陸人は先ほどまで気づかなかったが、その棚に似つかわしくない、最新式と思われる錠がかけられていた。その錠には鍵穴の他に電子パネルが備わっていて、パスワードを入れてから鍵を差し込む方式の物だった。
「あれだけ貴重なものなら当然かな」
たかが本に厳重過ぎでしょ、と思う陸人だったが、さっきの本のように貴重な物がわんさかあると思うと、あながちそうでもないのかな、と自分で結論づけることにした。
「それにしても、お客さん来ないなぁ」
外を眺めながら呟く陸人。時刻はもう七時になろうとしている。
そんなこんなで陸人の一日は終わる。四月から始まった新生活は、陸人にとってはどうにも実感が湧かないものだった。また明日もこうなのかな、そんなことを考えながら陸人はただ、夜の帳が下りていく外の世界を眺めていた。