家
「おい紗羅、大丈夫か……」
ため息混じりの問い掛けに応える声はない。そして受話器からはツーツーという単調な音だけが流れる。
「切れた……か」
やれやれ、あいつの不注意が治る日はいつになることだろう。
そんな懸念を抱き、私は振り返って時計を見る。長針は六、短針は八。つまり、八時半を示していた。
先ほどの紗羅の話を考慮すると、約束の時間まで後一時間以上も猶予がある。この間に何もせずただ時を垂れ流すのは下策だ。生憎今日はもう既に浪費する時間は使いきってしまっているし、身体は完全に眠りから覚めてしまっている。
しかしこれといってやることもない。骨董の整理はやり始めたら一時間では終わらないし、時間も忘れて没頭してしまう可能性が高い。店の掃除や事務作業も、日課として毎晩やることになっているので必要がない。
結局のところ、手詰まりということだ。
私は考える。一時間でできる生産的な仕事を。そして、辿り着いた答えは——
「雪かきするか」
××××××××××××××××××××××
「さて、そろそろ支度をするか」
一時間後、私は寒空の下、シャベル片手にそう呟いた。一時間の雪かきの結果、店の玄関から細い通路までの道をあらかた整備することができた。
私は少しの達成感と多めの疲労感、そして身体の冷えを感じながら、店の中を目指す。幸い雪かきのおかげで店までの道は快適に歩行できるようになっていた。店の前まで来た私は、シャベルは店の横に立てかけておき、玄関でスポーツシューズについた雪を払った後、店内へと足を踏み入れた。
そのまま奥へと進み、靴をスリッパに履き替え、居間の戸を開く。そこには今朝の新聞と湯呑みがそのままの状態で取り残されていた。私はそれを一瞥し、すぐに視線を前に戻す。畳の上を少し歩き、私は居間の奥にある第二の扉を開いた。
そこにあるものは実に簡素だ。右の壁には、木の棚、桐箪笥、ハンガーに掛けられたスーツ、そして反対の壁には押入れ。
ここは私の私室だ。特にコメントすることもないだろう。特に物珍しいものがあるわけでもない。
私は、どこかに目的を持って外出するときは必ずスーツを着る。気ままに散歩するときなどはジャージのままなのだが、仕事や、プライベートでも、外出の際はスーツ着用だ。これは、心を切り替える為の行為、即ち、先ほど語った手袋の有無と同じだ。私はこうして、身に付けるものでスイッチのオンオフを切り替えている。
そんなこんなで着替え終了。上から下まで黒一色のスーツに身を包んだ私は、木の棚に近づく。そこには私が好んで読む本や辞書などが置かれているのだが、一角には腕時計が五.六本陳列されている。私は基本的に何かを蒐集する趣味ばかりを持つ。骨董屋店主の性か、運動等よりも断然心が躍る。この数々の本や時計たちも、完全に私の趣味で集められた物だ。
私はその時計たちの中から一本、シルバーの時計を選び腕に巻く。そして最後に、ハンガーから黒のコートを取り、袖を通した。
「……よし、それでは行くとするか」
私は自分に言い聞かせるよう呟き、私室、居間を通って店内へ出る。今日は雪が降り積もっているため、いつものヒールは止めておいたほうが得策だろう。私は雪かきの時に履いた黒のスポーツシューズを再度履き、店の外へ向かう。ポケットから鍵を取り出し、扉を施錠。その後顔を上げ、店の看板を仰ぐ。
『骨董 牡丹』
ここが、私が経営している店、私の趣味が詰まった我が家——
そして私は微笑みを湛えて振り返り、再度その雪景色を眺める。高く降り積もる雪、雪と雪の間には一本の細い道。私はその道を行く。迷いなく、強く踏みしめて。




