解
「ソクラテスっていうと……古代ギリシアの哲学者だよな」
陸人は記憶の奥底にある知識を引っ張り出し、静流に確認を取るように言う。
『ご名答です。ソクラテスは哲学者の祖とも称される人物。そして、彼の最大の特徴は”知”への底知れない探究心』
静流は陸人の言葉を肯定すると、水を得た魚のように饒舌に語り出す。
『彼の有名な思想に”無知の知”というものがあります。流石の先輩でもこれぐらいはわかるでしょう』
「馬鹿にしないでくれ。これでも大学受験の科目に倫理を選んでたんだ。……確か、自分が無知であることを認めている人間の方が自分は賢いと思っている人間より優れている、ってやつだよね」
陸人は過去の事を思い出しながら、自分が能動的に学んだ己の知識を静流に披露する。
『生意気にも大口叩くだけのことはありますね。大方その通りです。ソクラテスは、当時賢人として有名だった人物と言葉を交わし、その理由において自分の方が相手より優れていると考えました。これが”無知の知”、そして——」
静流はそこまで言うと一度言葉を切り、再度口を開く。
『私にはこれがわからない。近い考えは持っていますが、その場所には至らない。先輩のようにも、藤花さんのようにも考えられず、自身の無知を知りながら自分の無知を理解できない。詰まるところ、私には答えが出せないんです。零でも百でもなく、空欄。それが私の無知に対する回答です』
「空欄……」
電話越しのその声は、陸人にはどこか自嘲を帯びているように感じられた。陸人がかける言葉に迷っている間に静流は更に続ける。
『まあ、”ソクラテスもどき”という言葉はとある友人からもらったものですが、かなり的を射ていると自分でも思っています』
「……それは自分がソクラテスぐらい優れた人間だって言いたいの?」
『少なくとも、旧石器人レベルの頭脳を持つ先輩の上をいくことだけは間違いないですね』
「人の頭を狩猟と採集の時代の人間のものと一緒にしないで欲しいんだけどなぁ……」
静流は相変わらず、鋭い毒舌を放つ。そして陸人も相変わらず、気の抜けた声で返事をする。
静流の言葉の真意は陸人にはわからない。陸人が静流と話していると、たまにこういうことがある。いつもは言葉巧みに陸人を責めるのに、突然自分を卑下するような自嘲の言葉を、何の気なしに発する。
陸人はそういう時、静流に声をかけることができない。気の利いたセリフも、見当違いな言葉でさえ、陸人は静流に投げかけてあげることができない。
陸人はいつも迷う。どう声をかけるべきか。そして次の言葉は、決まって静流の元通りの言葉になる。
たまに見せる静流のその表情を、陸人は伺い知ることができないのだ。
『それではそろそろ飽きてきたので電話を切らせていただきます。おやすみなさい、先輩』
「ホントそういうのスパッと言うよな……おやすみ、麻宮」
無機質な就寝の挨拶に、苦笑を浮かべながらも返す陸人。陸人の言葉を合図に、スマホからは静流の声が消え、代わりに一定の機械音が聞こえてくる。
「無知……か」
陸人はベッドに寝転がる。スマホを枕元に置き虚ろに天井を見つめながら、先程の静流の言葉を思い出す。
『私には答えが出せないんです。零でも百でもなく、空欄。それが私の無知に対する回答です』
零でもなく、百でもない。
その言葉は陸人の心に深く残っていた。
いつもどこか空虚で、感情を表に出さない少女。自分に際限ない罵倒を浴びせてくるものの、そこに多少の悪意はあれど敵意は感じない。陸人は、そんなどっちつかずの少女のことを、その時、中途半端だと思った。
しかしすぐに考えを改める。
何故なら少女には、零と百と同様に、一もなければ二もない。三も四も、五十も、少女の中には存在しない。
少女を構成するものは、空白。
空白は少女を埋め尽くし、色に染まることがない。キャンバスは真っ白なのに、そこに乗せる絵の具がない。絵の具という要素が、少女の中には存在しない。
その少女は、どこまでも空っぽだった——
それが、陸人の導き出した一先ずの答え。
あくまで仮の、応急処置の結論。
見えない真意を無理矢理こじつけた、最低で最悪の最適解。
「……詮索するのも野暮な話か」
陸人はそう言って思考を強制シャットダウンする。
目を閉じ、心への干渉をなくす。
生きていく上で最も煩わしい、心というものへの干渉を断ち切る。
そして、落ちていくは闇の中。
暗い暗い、どこか落ち着く黒の底。




