無知
「ただいま……っと」
自宅に辿り着いた陸人は、靴を脱ぎながら自分以外誰もいない部屋に呟いた。テレビの前にポーチを置き、スマホをベッドに投げる。上着をハンガーにかけた後浴室に入り、シャワーを浴び、そして出る。
そして陸人はいつも通りの、もはや一種のサイクルのようなルーティーンのような行動を終えた。
その後、手持ち無沙汰な陸人は、なんとなくテレビでも見ようかと思い、リモコンに手を伸ばした。その時、
「って、やっぱりかかってきたか」
ベッドの上の携帯から聞こえてくる甲高い音。十中八九あの人物だろうと思いながら、陸人はスマホを取る。
「もしもし」
『どうも先輩、こんばんは。今宵も気の抜けたお声ですね』
「今自室にいるんだから気ぐらい抜かせてくれ」
スピーカーの向こうには、いつもの調子の静流がいた。変わらず平坦で冷淡な声で陸人に毒づく。
『どうやら今日はお早いお帰りのようですね。十数分前にドアを閉める音がしたのでそう思い、少し早めに電話しました。ひょっとして、というかやっぱり、使い者にもとい使い物にならな過ぎて藤花さんに呆れられましたか』
「電話だから全く違いがないはずなのに、ニュアンスの違いがわかっちゃうのが怖いよ……あとそこは思ってなくてもひょっとしてにしといてよ……」
というか前から思ってたけど、このアパート古過ぎてプライバシーもなにもあったもんじゃないなぁ……。
そんなことを考えながら、陸人もいつもの調子で静流の毒舌にコメントする。
「いやさ、どうやら今日、藤花さん牡丹に帰れないみたいなんだ。だからちょっと早めに合鍵を使って店を閉めてきた」
『藤花さんが……帰れない』
陸人は何でもないように、特に懸念することもないようにそう告げた。静流は陸人の言葉を、少し動揺した様子で復唱、その後何故か黙り込んでしまった。実際、その沈黙は時間にすれば数秒のものだ。だが、その密度は異常に濃い。ただ返答に迷っているのではない、驚きと焦りと困惑と、そして覚めに醒めた冷静を、陸人はその沈黙の中で感じたような気がした。
しかしその真意を、その深意を、理解できるほど陸人は人間観察が得意なわけでもなかった。
あの白く淀んだ鑑定士のようにはいかなかった。
『……藤花さんが今日は帰れないと、そう言ったんですね』
「うん、確かにそう言ってたよ。電話越しだったけど」
『そうですか……』
静流は神妙そうに陸人に問いかける。また罵倒を受けるのではないかと思っていた陸人は、その問いに少し拍子抜けしたような心地で答えた。
静流は再度沈黙する。しかし陸人は、今回の沈黙に動揺や焦燥の類いは感じ取れなかった。
そこにあるのは虚無。つまり、何もない。
陸人はその沈黙から、静流の何かを感じることはなかった。
『わかりました。まあその話は置いておきまして、一つ世間話でも』
「オーケー、俺も今暇してたところなんだ。存分に付き合わせてもらうよ」
『そんなわかりきっていることは言わなくていいです』
「付き合うって言ってるのに理不尽この上ない……」
そして静流は、先程までの張り詰めた沈黙が嘘のように、冷めた口調ながらも饒舌に語り出す。
『先輩は、”無知”とはなんだと思いますか?』
「”無知”……って麻宮、なにその質問。悪意すら感じちゃうんだけど」
『悪意とは失礼な。先輩が今日、自身の無知に悩んでいるようだったので少々助言しようと思ったまでです』
「とか言ってホントは俺の無知を馬鹿にするつもりなんじゃ——」
『否定はしません』
「即答かよ」
陸人は静流のブレない態度に思わず苦笑いする。やはり、先程感じた違和感は気のせいなのだろう、と陸人はひとまず結論付けることにした。
「そうだなぁ、知識が足りないこと……だと多分不十分なんだろうし、それこそ自分の首を絞める縄とか、己を傷つける棘とか——」
陸人は藤花の発言を想起しながらかたる。その答えを聞いた静流は、怪訝そうな声音でさらに問いかける。
『先輩からそんな答えが出るとは驚きです。それで? 誰に聞いたんですか?』
「俺の持論って可能性は早々に切り捨てちゃうのね……まあ、藤花さんの受け売りだけどさ」
『やはり、そんなことだろうと思いましたよ。私は先輩の考えを聞いたというのに』
「うーん、実を言うと俺は、別に無知ってそんなに悪いことじゃないと思ってるんだ。全知全能なんてつまらないだろうし、学ぶことに生き甲斐を感じる人もいる。知らないことに挑んでみるっていうのも、案外悪くないと思うよ」
陸人は一つ一つの言葉を正直に、自分の考えに沿って素直に伝えた。
なんの曇りもなく、といえば嘘になるがそれは、雲量一割の快晴ぐらいには淀みない、澄みきった言葉だった。
すると静流はその答えに満足したのか、自らの話を続ける。
『——”無知”に対しては古来より色々な考えがなされています。先輩のように好意的に受け止めるような者もいれば、藤花さんのように無知を罪だと捉える者もいる。まあそのため、”無知”についての考え方に定まった回答があるわけではありません』
「なるほど……じゃあさ」
静流は淡々とそう語る。そんな静流の言葉を吟味し、陸人は逆に、静流に対して一つの問いを投げかけた。
「麻宮は”無知”についてどう思ってるの?」
『そうですね、私は……』
少しの間の後、静流は答える。
『私は”無知”に対して無知……”無知”を認めはしても理解はできない、ソクラテスもどきです』




