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ソシオメーター  作者: 蓮と 悠
春の水面に映る虚像
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春、舞い散る桜

 君は何を思っていたのだろう。


 どこか空虚な瞳は何を見つめていたのだろう。

 触れたら壊れてしまいそうな両脚は何を目指していたのだろう。

 ほのかに温かい手のひらは、何を握っていたのだろう。

 冷めきったコーヒーではなく、人肌のカフェオレ。

 快晴の空ではなく、降水確率四十%の曇天。

 振り切れることもなく、ゼロを指すこともない。


 君の心の計器メーターは、いったい何を――


×××××××××××××××××××××××××


 4月、色とりどりの花が咲き乱れ、人々が出会いと別れに一喜一憂する季節。冬の寒さも和らぎ、徐々に春の陽射しが暖かみを帯びてくる。そんな、多く生物が待ち望んでいた恵の季節。


「先輩って、ホントお人好しですよね」


 麻宮静流あさみやしずるは呟いた。なんの前触れもなく、なんの躊躇もなく。


 ここは春の恵みも何も感じられない無機質なコンクリートの囲いの中。唯一外の景色との媒介である窓も、くすんだベージュのカーテンによってその姿を隠されている。

 部屋の中には傷だらけの小さな丸テーブルが一つと所々に錆が見られるパイプ椅子が二つあり、その二つとも現在進行形で人間の体重を支えている。

 窓の反対側にはドアノブ錠付きの扉、窓から見て右側には見るからに古そうな本が隙間なく詰められた大きな本棚、左側には消し後が残るホワイトボード。部屋の広さは四畳半の五割増しといったところだろう。


 そんなお世辞にも綺麗とは言えない個室で、二人の人物が顔を付き合わせていた。


「麻宮、それ何回目だよ。先輩もう聞き飽きましたよ」


 望月陸人もちづきりくとはため息混じりにそう答えた。既に何度も浴びせられている台詞に、切り返す気力すらも起きないようだ。


「いや、ふと思いまして。少しは人を疑った方がいいのに、と」


 後ろの棚から取ったであろう本を読みながら、静流は極めて冷静に、眉ひとつ動かさず淡々と思ったことを口にする。


「ふと思ってもそんな直球で言わない方がいいよ。社会人として」

「すぐ詐欺に騙されそうな先輩に社会人のなんたるかを教え込まれたくないです」


 陸人の答えに、辛辣な言葉を返す静流。彼女は本から目を話すことなくそう告げる。


「卒業したなら部室になんて来なければいいのに、なんで毎日来るんですか? 暇なんですか?」

「俺は暇だね。なんたって藤花とうかさんに『陸人よ、お前どうせ暇なんだから静流ちゃんのところにでも行ったらどうかね』って毎日のように言われる始末だし」

「ああ、あの人ですか……何故あの人は従業員なんかを雇ったのでしょう」

「まあ、就職先が決まらなかった俺からしたらバイトで月二十五万も貰えるから願ったり叶ったりなんだけど……正直あの人が裏でどんな取り引きをしてるのか分からないんだよなぁ」


 他愛もない会話を続ける二人。すると突然静流は顔を上げ、読んでいた本を閉じると、後ろの本棚に戻した。


「あれ、まだ途中だよね。戻しちゃっていいの?」

「大丈夫です。続きは明日読むので」


 そう言うと静流は椅子から立ち上がり、机の横に置いてある黒の肩掛けバッグを取った。


「それじゃあ俺も帰ろうかな」


 言葉とともに陸人も立ち上がる。そして陸人は扉を開け、廊下へと歩を進めた。後ろに続く静流は、部屋から出た段階でワンピースのポケットから鍵を取り出し、手慣れた様子で扉に鍵を掛けた。この錠は壊れかけで鍵をかけるのにもコツが必要なのだが。

 二人は横並びで、所々黒ずんでいるリノリウムの廊下を靴でキュッキュと鳴らしながら歩く。その後ろ姿は、身長差のせいか先輩後輩というより兄妹の様だった。

 お互い言葉を交わすことはなく、そのまま建物を出た。重い扉の先には夕暮れの空。オレンジに照らされた桜が春の終わりを告げるように舞い散っていた。


「まだ四月も中旬なのに、気が早い桜だな」

「『我が行きは七日は過ぎじ龍田彦 ゆめこの花を風にな散らし』という和歌があるくらいですから」


 桜の木を見上げて呟く陸人に、静流は同じように桜を見上げ抑揚のない声で一句詠んでみせた。


「意味は?」

「『私の旅は7日を越えることはないだろう。だから龍田彦よ、この花を決して散らさないでくれ』という意味です。そのぐらい桜が散るのは早いんですよ」


 陸人は静流の方を向いて問いかける。しかし静流は、散っていく桜の花びらを見つめたままに答えた。


「あの、龍田彦ってどなた? 作者のお友達?」

「風の神様のことです。そんなことも知らないでよくこの大学の文学部に入れましたね」

「そんなことも知らない人が大半だと思うんだけどなぁ……」


 そんな会話を交わした後、二人は再び歩き始めた。最近の雨の影響で、コンクリートで舗装された地面にはぽつぽつと水溜りができていた。そこにはらりと桜の花びらが舞い降り、小さな波紋を生み出す。底に人間に踏まれた花びらたちが沈んでいるとも知らずに。

 桜並木を抜けると、そこは校門だった。煉瓦レンガで組まれた、ゆうに三メートルは超えるであろう二本の柱に、黒い塗装を施された鉄の扉が取り付けられている。


「そういえば」


 二人が校門を潜ろうとした時、陸人は後ろを振り向きおもむろに口を開いた。


「さっきの和歌の作者って誰?」


 その問いに静流は少し目を開き、そしてあいも変わらず平坦な口調で答えた。


高橋虫麻呂たかはしのむしまろです」


 その答えに、陸人は考えるように腕を組むも、


「知らねぇ……」


 結局、虚しい呟きをこぼしただけだった。


「万葉集を読破していれば知っているはずなのですが、やはり先輩は学が乏しいようで」


 静流は陸人の方へ歩み寄ると再び横に並び、この日初めて陸人の顔を見上げてそう毒づいた。


「麻宮にとっての知識人のイメージを一度詳しく聞く必要がありそうだね」


 陸人は静流の顔を見ながら苦笑を浮かべて言うと、今度こそ二人は校門を潜り、目の前に広がる閑静な住宅街に歩みを進めた。

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