第一話
小説やマンガなんかに出てくる、自称普通の主人公が嫌いだ。何一つ共感できやしないから。自分のことを好きな女の子の気持ちに気づかない鈍感さは信じられないし、わけのわからないテンションの高さは気持ちが悪い。展開は凡庸の極み、凡庸、凡庸。俺にはどんな作品もごく一部のものを除いて、ほとんどが当たり前で退屈なものに思える。音楽だって似たようなもの。よっぽどのことがない限り凡庸の域を出ない。
じゃあ、俺はどうすれば凡庸じゃなく生きることができるだろう?
俺がずっと考えていたのはこういうことだった。答えを見つけ出すのは容易じゃない。だがただ一つだけ言えるのは、こうやって悩んでいることそれ自体が、大学生ロックバンドがよく叫んでいる『アイデンティティを探す』という言葉――つまりドイツの哲学者に定義されてしまうほどに当たり前に人間が通る道筋であるということだった。つまり俺は腐るほどに凡庸ということになる。死ね。
生きる意味を探してあらゆる本を読んだ。哲学書だって幾つか読んだ。そしたら、そういう営みが他人と完全に違うじゃないか。それだけで君は凡庸ではないではないか――そんな声が聞こえてきそうになる。主に俺の心の片隅から。馬鹿を言え。こんなことを考える奴は世界に無限にいるんだ。だから俺は全く特別なんかじゃない。多少変わってるって程度だ。本当の『特別』じゃない。
『特別』、いや『格別』になるにはどうすればいい?
読書家も作家も俺には信じられない。俺は読書というのが好きでもあると同時にひどく嫌いでもある。それは登場する主人公の日常が変化に富み疾走感にあふれているのに対し、俺の日常は毎日が同じことの繰り返しで幻滅しそうなくらい凡庸だからだ。作家だって似たようなものだろう。どれだけ面白い話を書いても、いや書けば書くほどに自分の人生の凡庸さ、ストーリー性のなさに絶望するはずだ。やるせなくなるはずだ。事実俺はそうだった。俺の文を書く営みはそこらで破綻してしまった。
だから俺は、奇妙な方向へとねじ曲がった。いや、ある意味ではまともに成長した。
そんな矛盾の狭間で苦しんでいた俺を、助けようとした一人の少女がいた。
その少女の話をする前に、一つ。
山本 薫が自殺したのは昨日の夜のことだった。翌朝学校で全校生徒が集められ、校長が実に神妙な表情――凡庸で塗り固まった蝋人形のような――で「皆さんに悲しいお知らせがあります……」と語った。その入りからすでにありきたりだった。人間とんでもない事態に遭遇するとかえって小説の中にあるようなテンプレートな行動しか取れないのかもしれない。
校長がその調子で生命の尊さを訴えて、その場は解散。
山本 薫は俺のクラスに属していた。男子と喋っているところをめったに見かけない、大して可愛くもないタイプの女子だった。彼女が自殺するちょうどその一日前に、俺は山本さんとファースト・コンタクトを取った。つまり会話したわけだった。だから自殺してしまって悲しいかというと、別にそういうわけでもない。彼女はクラスの女子から嫌われていた。大方九割のいじめがいじめられる側にも責任があるように、山本さんにも嫌われる要因はあった。それは肯定なのか否定なのか判別のつかない愛想笑いであったり、常に誰かに付きまとっていないと生きていけない金魚の糞のような存在であるというところに表れていた。クラスの中では無視される程度の扱いだったけど、きっと見えないところで酷いことをされていたんだろうと思う。だから、自殺。担任がその事実に気付いているかは定かではない。ただあの能天気に目をギラギラさせた男教師は恐ろしく無能、というより生徒からの人望が全くないものだから、真相という真相をまるで掴めやしないのだと思う。
しかし真相なんてものはそこらへんに転がっている言葉一つにかき消されてしまうので、山本 薫が自殺した浴室を出たところにある洗面台の上に転がっていた一枚の紙きれによってあっさりとそれらしい真実は確定されてしまう。さらに数日後に三流週刊誌がその遺書を公開。
『私が死んで、よかったでしょ、○○さん』
その○○さんは俺がいじめの主犯格だと睨んでいた人物だったので、俺は笑った。例の○○さんは現在大変そうです。
世の中にはこうやって高校生が自殺すると、「学校をやめれば済んだのに」とのたまう馬鹿がいる。いじめがつらいなら誰かに相談すればよかったのに、とか、そのための制度がうまく行ってない、とか言い出す。でも自殺するようなやつは、そんなところに相談しないんじゃないかと思う。いじめられて自殺するというのは結局、自分のプライドを守り敵に復讐するたった一つの方法なのだから。そんな手段をとるやつはプライドも高い。
緊急事態ということでその日の授業はなくなった。俺は友達を待たず(そもそも友達と言える存在がほとんどいない)そうそうに電車に乗って本屋に向かった。面白そうな小説を買うって結構わくわくすることだと思うんだけど、どうかな。
今週のベストセラーを流し見しながら、何か凡庸を超えていそうなものがないかをチェックする。ただ残念なことに今週のベストセラーは相も変わらず凡庸なタイトルばかりで(奇をてらって注意を引こうとするタイトルはもちろん凡庸)俺の興味は微塵もそそられない。そうなると俺の好奇心を満たすのはほとんどが新書になる。新書って面白い。
そんな具合にして俺がそちらの本棚へ移動した時だった。一人の少女がまた同様に、本棚をじっと眺めていた。うちの学校と同じ制服。校章から判断するに、どうやら同学年らしい。見ていたのは数秒だった。だがその数秒の間に目が合った。大きく綺麗な形の目だった。
しょうがないので、話しかける。
「どうも」
会釈を入れた。女の子も会釈を返す。なかなかいい子らしい。
「同じ学年だよな、新書、好きなの?」
俺は適当に世間話を振ってみる。女の子はまた本棚に目線を戻して、
「……うん、好き」
と言った。それから数秒の間があって、
「今日、びっくりした」
と女の子は言った。細くて綺麗な声だった。
「ああ。同じクラスだったよ」
俺の声があまりに淡々としていたからだろう、女の子は笑った。
「悲しくないの?」
「関わりなかったからな。しゃべったことも一回しかなかったし」
「一回はあるんだ」
「うん。つかこういうことあると、人が死ぬってどういうことなのか考えるよな」
俺は適当に話をつなげる。女の子は真面目な顔して、
「うん。だから新書見てるの。生きるとか死ぬとかそういう系のやつ」
俺は笑って茶化す。
「真面目」
女の子も笑った。
「そっちが言ってきたんじゃん」
「いや、俺の中で女の子のイメージはそういうのじゃないんだよ。もっとこう幸せな生き物っていうか単純っていうか……」
女の子は笑う。細くなった目が魅力的である。
「ばかって言いたいわけ?」
「違う違う、そうじゃないって。ほら、幸せってこと」
でも確かに盲目であることは幸せであるための一つの条件な気はする。
「じゃ私は普通の女子ではないわけか」
しみじみと女の子は言った。
「そうなる。新書読んでる女子なんて初めて会ったわ」
「けっこう、面白い」
「死ぬこととか、考えるわけ?」
「うん。よく考える。それで、怖くなる」
「わかる」
俺と女の子は笑った。それからまた数秒の間。ふと女の子が目くばせをしてから、小さな声で囁いた。
「あ、あっち見て」
俺は何気なくそちらを見ると、そこには漫画コーナーの前に立つ一人の中学生。見たことのない制服だった。
「?」
「あの子さっき、漫画カバンの中に入れてた」
「万引きか」
「たぶん」
俺はしみじみと言う。
「俺も昔やったなぁ」
「まじか」
女の子は目を丸くしている。
「たぶん、特別なことがしたかったんだと思う。盗るっていう行為が大事で、盗った本なんてろくに読みもしなかった」
女の子は笑う。
「じゃあなんで盗るの」
「中二病だったんだって。ほら、スリルを楽しんでる俺かっけーみたいな」
「ふーん……じゃ、なんでやめたの?」
「なんとなく、かなあ。飽きたのかも。君は、そういうことしたことある?」
俺は尋ねる。女の子は恥ずかしそうに少し笑って、
「うん。あるよ」
「まじか」
今度は俺が目を見開く番だった。
「私は普通の理由。お金が勿体なかったからっていう」
俺は笑って返す。
「普通の女の子は万引きなんかしない」
その言葉は存外女の子の心を射抜いてしまったようで、彼女は顎に手を当てて数秒思案し、
「たしかに」
と言った。そして、
「私にも少しだけ、似たようなところあったのかも……ところで名前は?」
「中原」
女の子は笑う。
「中原くんみたいに、ちょっと変なことしたかっただけかも」
「そういうことって、あるよな」
俺は笑って答えた。
「……山本さんって、どうやって、死んだのかな」
女の子はまっすぐどこか遠くを見ながらそう呟いた。
「噂だと、凍死したらしい」
女の子は目を丸くする。
「凍死?」
「この時期だと、数時間空腹のまま冷水に浸かってるだけで死ねるから、凍死」
女の子はまた、やけに大人びた、滑稽なほどに穏やかな表情で言う。
「……どんな気持ちだったんだろう」
「清々しい気分だったんじゃないかな。山本さん、クラスで除け者にされてたし」
「寒かったかな」
「寒いのは最初だけ。それからはただ眠るだけ」
女の子はまた笑う。
「詳しいね」
「昔よく調べたんだ、そういうこと」
「死のうと思ったことがあるの?」
直球すぎる女の子の質問に、どう答えようか俺は一瞬――ほんの一瞬だけ、悩んだ。
「あるよ」
「なんで?」
女の子はじっと俺の目を見て尋ねた。俺は吹き出す。
「なんで言わなきゃいけないんだよ」
そしたら、女の子も笑った。
「いいじゃん。言ってよ。今後の参考にするから」
「なんの参考だよ」
二人して、笑いあう。
「……絶望してたんだ」
俺は答えた。女の子は興味深げに聞き返す。
「なにに?」
「人生に」
女の子は笑った。
「なにそれ。中二病みたい」
俺も笑いながら言う。
「きっかけはなんかくだらないことだった。先生に怒られたとか、友達との関係がうまく行かないとか、たしかそんなこと。そこからなんで生きてるんだろうって考え始めて、そうすると止まらなくなった」
「……」
女の子はじっと黙って俺の言葉を聞いていた。何かを言いたそうにしているように見えたが、気のせいかもしれない。
「なんかさ、今まで死んできた何十億という人間と同じように俺も死ぬのかなって思うとさ、こう、悲しかったっていうか」
女の子は俺の目をじっと見た。
「わかるよ」
「そっか」
俺たちは笑いあう。
「……死んだ山本さんはどこに行ったんだろうね」
ふと唐突に、女の子はそうつぶやいた。俺は言った彼女の表情を横からちらりと窺った。その顔に表情らしい表情を呈しているわけではなかった。
「さあな。自殺したら、天国には行けないんだろ」
「じゃあまだそこらへんにいるのかな」
また表情のないまま、つぶやく。
「そうかもな」
俺の言葉に女の子は神妙な表情になる。じっと何かを考えている。
「……うん、そうだね。そうだと、いいね」
「それじゃあね。なに君だっけ?」
「中原、中原 良哉だ。君は?」
「私は倉木 真弥。よろしくね」
「ああ、よろしく、倉木さん。じゃあまたな」
手を振ってバイバイ。家へと向かう途中で思う。なかなか可愛い女の子だった。初対面であそこまで喋れる女の子は珍しい。日本人にはコミュ障が多すぎる。
どうでもいいことに思考を委ねながら、俺は自宅への道を歩いた。なんだかんだ時刻は五時くらいになっていて、若干オレンジ色の光が差し込みつつあった。もう少しで家にたどり着くというくらいまで歩いてきた、その時だった。
「……!」
俺は目を丸くしていた。その目の前の光景に驚きを隠せない。そこには昨日自殺した山本さんを、追い詰めたとされる○○さんが立っていたからだった。そしてその表情は怒りに歪んでいた。笑うとけっこう美人なのに、勿体ない。
○○さんはわなわなと肩を震わせている。そして小さな声で、ぼそり。
「……あんたが薫を殺したんでしょ」
「……?」
今度は耳をつんざくような罵声で。
「……あんたが薫を殺したんでしょ!」
「……」
○○さんは俺をキッと睨みつけて、声を荒げる。
「あんたのせいでッ……」
俺はくるりと踵を返す。
「――ごめんな」
そしてそこから立ち去った。