希望の涙
翌日。目を覚ますと、今日の空模様のような気持ちで起床する事ができた。本日の空は曇り空。決して晴れてはいないけれど、雨でもない。私にしてみれば、雨でないだけ幾分マシだと思う。ここ一週間は、ずっと耐えきれない程の重みが心を覆っていたし、何よりも雅史の事を一日中考え続けていたせいか、目も腫れていたのだ。昨日、ダムが決壊したかのように泣いたので、連日と腫れ具合は大して変わってないないようなものだ。けれども、会えると分かれば、早速準備する気にもなれた。
――――もしかしたら、今日が最後かもしれない。だったら、今日は谷中 美樹。私らしく最後まで美少女でいよう。
そう決意した私は鏡の前に立って腫れた目元を化粧で上手く隠していく。そのせいか、いつもよりも二割増しで化粧が濃くなったかもしれない。それでも私は美しい。多分。
こうして化粧を完了させて、洋服と鞄を選び、着替えてから一階にある食卓へと向かうと、今日は休日だからか、いつもいる母と姉以外にも父と兄がいた。母は専業主婦だから毎日いるのは当たり前だけど、姉はいつ大学に行って仕事しているのか本当に分からない。毎日睡眠不足である筈なのに顔色の悪さも伺えない。完璧美少女というのは本当に彼女の事を言うのかもしれない。
食卓には卵焼きとサラダ。味噌汁とお米が並んでいる。いつも通りの中谷家。だが、本日も異質的な存在である麗はダイニングテーブルに新たに追加された椅子に座って新聞を眺めていた。時折父が麗に話しかけて株について話しあっていた。
姉はタブレットパソコンを操作して、何かを難しい顔して眺めているし、兄に至ってはポータブルゲーム機で大音量で美少女ゲームをプレイしていた。
全員が私の姿を確認すると、一斉に「おはよう」と声をかけてくれた。私が気を使わないようにいつも通りを装っているのがバレバレだった。
朝食を済ませてから、身支度を整え、玄関にてハイヒールを履いていると、背後から姉と麗が近づいてきた。
「どうかしましたか?」
「ううん。美樹たん、今日はがんばってね」
「ちゃんと会えるといいな」
「……」
二人はやや苦笑い気味だったけど、ちゃんと応援してくれた。きっと彼女達も、私と雅史の恋人生活が今日で終わると思っているのだろう。私もそう思っている。何せ、必ず会えば別れを切り出される。それは雅史の事を考えたら当然であって必然的でもある。優しい雅史はきっとこれから、皆をよろしく頼むと口にするのだろう。
私は首を縦に頷かせて、二人にやつれた笑顔を向けて、無理矢理口端を吊り上げて見せた。
「はい! 頑張ってきますね。では、いってきます」
そう言って玄関の前に立つ扉に手をかけた。それから、私はこれまでの姉と麗の行動を思い返して、二人に向かって振り返った。今は笑顔を止めて、本音をぶちまけようと思っている。
そんな私を視界に収めた二人は怪訝な顔をして首を傾げながら、転んで怪我をした男の子を慰めるかのような瞳で私を見つめた。二人は私が病院に行けば、また見っとも無く泣いてしまうのが見えてる筈だ。それは当然私も分かっている。だから、二人には最初からちゃんと伝えるのだ。
「どうしたの美樹たん」
「美樹……?」
「二人とも……今日、帰ったら抱きしめてください」
それを少しだけ微笑んで言って見せた。私は瞳を閉じて、家の外へとつなぐ扉を開ける。外から差し込む日差しと暖かいというには少し無理があるくらい熱い風を感じながら、足を玄関から一歩踏み出した。
見送る麗と姉は微笑みながら「うん、分かった」とハモリながら言った気がした。
電車を乗る事三十分。目前に聳える大学病院は高級車やタクシーが次々と停まる。その中には、ここに入院しているお金持ちもいるのだろうと勝手に思っていた。
夏休みなのに勉強に勤しむ大学生を尻眼に私は堂々と大学と病院の境界線ともいえる道を歩く。チラホラと存在する大学生は、ある者はファイルを落としながら私に見惚れ、ある者は立ち止まって電柱に当たりながらも私に見惚れていた。もちろん、声をかけられるのなど日常茶飯事であるので、ここでも頻繁だった。
しかし、今日は大学を拝見する為にここに来たわけじゃない。したがって私はナンパとも呼べる大学生の勧誘作業には「今日は彼氏のお見舞いです」と全ての大学生の声を一蹴した。
ガラスでできた自動扉が開き、病院内に入ると冷房が効いてるからか、体感温度は一瞬にして涼しくなった。院内はそれこそ、老若男女。いろんな人たちが往来していた。
そんな中、私は総合受付所にて若い――といっても二十代くらいの女の人に話しかけると、舌打ちしながら作業を頭を下げた。私の事を良く思っていない女性は、この世には多数存在するのは分かっているが、ここまで分かるようにするのは珍しかった。
「どなたの面会でしょうか」
「七階に入院してる岸本 雅史です」
「少々お待ちを……」
それから舌打ちをした受付嬢は裏方に入り込み、白衣を着用した医者らしき人物に話しかける。一体何を話しているのかは、ここからでは聞こえなかった為、聞き耳を立てるのは断念した。色々と話しこんでいるようで、受付嬢の顔が深刻に染まる。何故深刻に染まったのかは、このときは分かっていなかった。
やっと裏からでてきた受付嬢は椅子に座る事なく、戻ってきた。
「失礼ですが、お名前は……?」
「谷中 美樹です」
「谷中 美樹様……」
一瞬驚いたように目を細めて、首を縦に頷かせて名前を書いた名簿とも呼べる紙を下げた。それから、もう一度深く頭を下げた。
私は何で二回もお辞儀されるのか意味が分からなかった。
「申し訳ありませんが、岸本 雅史様からの御指示で、谷中 美樹様の面会は全て断るようにと言われていまして……」
「え?」
何を言われているか、分からなかった。鞄を落としそうになるものの、しっかりと鞄の紐を握りしめて、なんとか落ちないよういした。そのまま受付嬢の胸倉を掴みそうになったが、なんとか堪えてカウンターを叩くだけにとどまった。
突然、カウンターを叩いたせいで受付嬢はビックリして、肩を跳ねあげていた。いや、そんな事は実際どうでもいい。雅史と面会ができないってどういう意味か知りたかった。
「何で!?」
「……大変申し訳ありませんが……その患者様のお願いですので……こちらでは何も……」
「…………」
確かに彼女の言う通りだ。受付嬢は何も知らないし、ましてや私を家族だなんて思ってもいない筈だ。ここは一度大船 瑠花や黒樹 麗と名乗っておけば、通れたのかもしれない。しかし、ここまで拒絶されては、本当に何も伝えられない。
気の毒と思っているのだろうか、さっきは舌打ちしたくせに、今は額の汗を白いハンカチで拭きながら私の機嫌を伺うように、顔から下だけを見ている。
雅史は……一体何でそこまで私を拒絶するの……?
結局、受付嬢には申し訳ありませんでした。と言われ、病院を後にする事にした。これ以上ここに留まれば警備員が出てくると言われたので、退散したのだ。実際には脅されたと言った方が良いかもしれない。
雅史に会う事は叶わず、あっちから拒まれている事を知った。究極、雅史は私に会いたくない。その理由も知りたかったし、何でそうまでして必死に拒む理由も知りたかった。
決して嫌われているわけではない。そう思いたい。夏祭りの夜。私はしっかりとした介抱をできたと思っている。
首を横に振って、どうすればいいか考えながら、地元の駅まで帰ってきてしまった。人の往来と日差しによって熱くなる駅は、私の肌から水分を奪って行く。色々と脳内が彷徨い続ける中、私はいつしか枯れた筈の涙がまたも零れ落ちそうになっていた。
ぼんやりとした頭で、道を歩く。
その光景全てが雅史と共に歩いた物だった。時折チラつく過去の幻影が、私の涙を誘う。しかし、今日は泣かないと決めていたのだ。何とか我慢する為に、頭から雅史と会う方法を考えるのはやめて、涙を流さないようにする事だけを必死に実行した。けれども、途方に暮れた私が向かってしまったのは、かつて、美人部から逃げた時に迎えに来てくれた公園だった。ブランコが一つにベンチが数個。簡素な公園だけど、私にとっては涙腺が溜まった瞳を崩壊させるのには、ベストスポットだった。
あの日と同じようにブランコに座ると、瞳からついに涙がこぼれる。
もう我慢する事自体が不可能だった。
思い出が次々と浮かび上がる。
学校で勉強した事。
屋上でお弁当を食べた事。
皆から逃げてまで雅史への思いを隠し続けた事。
家でキスしようとしたら、瑠花と雅史にそれを寸前のところで見られた事。
瑠花の告白を目にして、自分が泣いてしまた事。
まだまだ、あるけれど、思い出が溢れては涙も溢れていた。
そんな中、顔を上げ公園の外を見つめると、見覚えのある人間が歩いていた。その姿は――――かつて、高校受験の為に猛勉強し、なんとか合格まで嗅ぎつけたが美少女にされてしまった男の子。中谷 幹だった。
身長がほんの数センチ伸びていたものの、約十五年間も見続けた形は忘れる筈がなかった。
そして、そんな中谷 幹の姿を扱っている人物は一人しかいない。
――――女神だ!
神に頼めば、全てを解決してくれると思い、ブランコから立ち上がり、足に全身全霊の力を込めて駆け出した。このチャンスを逃がす手はない。絶対に捕まえて見せる! そうすれば、これからも雅史と……雅史と一緒にいられるッ!
希望を見出した私は夢中になって足を動かす。
そんな私を視界に入れた幹(女神)は、歩いていた方向を逆方向に変えて走り始めた。もしかしたら、私を見つけてマズイと思って逃げだしたのだろう。
絶対に逃がすもんか。
全速力で街を駆け抜ける中、彼はある神社に入る。
そこは雅史と来た夏祭りとは別の神社。だけど、思い出深い神社であるのは変わらない。
幹がここに逃げたのは、もう分かっている。何せ幹の基本運動スペックよりも美樹の運動スペックの方が高いのだ。だから、最後まで追いつけたのだ。
正男、鷹詩、直弘、拓夫、久光と同じ高校に行きたいが為に勉強し、お参りをしたこの神社。賽銭箱がある奥まで辿り着くと、そこには何ヶ月か前の自分の姿がそこにいた。彼は堂々と賽銭箱に腰をかけながら、不敵に微笑んだ。
「……久しぶり。中谷 幹。いや、今は谷中 美樹だっけか?」
「……お久しぶりです。女神様」
彼はひょいっと賽銭箱から腰を浮かして、私の顎に手を添えた。




