私が逃げたりなんてしないっ!
太陽は容赦なく照り続け、時刻はまもなく昼を迎える。
かき氷を頬張る麗に、何も言わずに雅史を直視し続ける姉。この熱い中カレーを口に放り込む雅紀。
三人は黙々と食事しながら、私達のテーブルを見つめてくる。姉に至っては雅史を瞬きもせずに思念を送ってるようにも見える。
そんな中、私と雅史のテーブルには冷やし中華が二つ並んでいる。
それを啜りながら雅史は、私の機嫌を伺ってきた。
「……食べないの?」
「いや……」
「やっぱり気になるよね」
「そうですね……」
そりゃあそうだ。姉が口にしたさっきの言葉が忘れられなかった。
あのとき、魔女のような微笑みを漏らした姉は、後に告げたのだ。
――――美樹たんは、美樹たんが思っている以上に美しく、可憐で、人の目や気を引く。だから、むやみに誰かと付き合うべきじゃない。そもそも、あたしでも釣り合うかどうか怪しいんだから、身をわきまえなさい。
無論、言葉を告げた姉は笑ってなどいなかった。というより、怒っていた。きっと雅史と付き合うという事自体が、茶番だとでも思っているのだろう。
姉が本気なら、私も本気になるしかない。
冷やし中華を自分の口に放り込むのを止めて、箸で麺を掴む。そのまま、雅史に向ける。
「はい、雅史さん」
「……え? ここで?」
「はい! 私はお腹いっぱいなので、雅史さんに食べて欲しいです!」
笑顔笑顔。そう心がけているのだが、知り合いがいるなかでの、あーんは恥ずかしい。というより死にたい。
だが、効果はあったようで、麗と姉が顔――いや身体ごと、私達のテーブルへと近づけてくる。その勢いと言ったら、餌に群がる金魚並みではなかろうか。
とにかく、姉と麗は顔が怖い。
雅史は照れ隠しなのか、後髪をいじりながら言った。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……ぱくっ」
「って、手を食べてどうするんですか!?」
「えへへ。なんか必死だったからさ」
「そ、そうですか……?」
「それにさ、僕は美樹さんにいつもお弁当を食べさせてもらってる立場だから、たまには逆がいいと思うんだよね」
「は、はぁ……」
「って事であーん!」
今度は雅史が私に向けて冷やし中華を差し出す。どうしよう……食べていいのかな?
雅史の唾液がついた箸。表現がちゃっかり汚かったりするけど、そう思うと、心臓の鼓動が早くなる。というか、バックンバックンいってる。
麗と姉が視線を私に移す。今度は怖い顔ではなく、『それに答えちゃダメ!』と書いてある。こっちも必死のようだ。彼女たちは暑さによる汗ではなく、冷や冷やとした雫を額から垂らす。
しかし、ここで雅史からのあーんは絶妙的なタイミングだと私は思った。なぜなら、ここで私が雅史の冷やし中華を食べれば、それだけで戦意は喪失する筈だ。
「……ぱくっ」
「うん! 美樹は偉い子だね!」
「か、からかわないでください……」
雅史が頭を撫でてくれた。とっても嬉しい!
「え、えへへ!」
私が笑みを漏らしたタイミングで、麗達のテーブルから何やら鈍い音がした。すぐにその方向へと顔を動かすと、テーブルが真っ二つに割れていた。麗のかき氷は溶け、雅紀のカレーは地面に落下した。
姉はというと、テーブルを割った張本人だった。
「……兄貴達の所騒がしいね」
「……雅史さん、気にしたら負けですよ」
そして、そんな姉は私の方へと近寄ってきた。
「美樹たん。何で食べたの?」
「彼氏から食べてと言われたので、彼氏に甘えたいのもあり、彼氏の為でもあったので、彼氏の冷やし中華を、彼氏の箸でいただきました。文句ありますか? 私と彼氏に? 無論彼氏に何か言うのなら、彼氏に変わって、言い返しますけど」
「どんだけ彼氏って強調するんだ! 美樹!」
「あ、あたしの前で彼氏って言うなぁああああああ!」
姉と麗が暴走モード突入。店員さんが机割った弁償を請求しに来たのだろうが、麗の逆鱗に触れ、裏拳を喰らい倒れた。他のお客さん達も徐々に私達を注目の的にする。
周りがざわめきだす。
「あの子綺麗じゃね!?」
「もはやモデルとかアイドル!?」
「そんな次元じゃねーよ! 女神だ!」
「っていうか、あの女子大生っぽい方も可愛いよね!」
「かき氷食べてた子も中々だぞ!?」
「ここはオーディション会場か!」
もはやオーディエンス。動物園の昼食ブースはアイドルの握手会状態。確かにここには美人が三人もいるのだから、当然っちゃあ当然だ。
ちなみに雅紀はトイレに出掛けたのか。姿が見えない。
雅史はオドオドしていた。
「ええっい! 美樹たんに群がるなぁ! あたしの嫁だぞ!」
「そうだ! 美樹に集まるな! 私の恋人だ!」
大声で叫ぶ麗と姉。
周りの人達は更に、歓声をあげる。これじゃあ、何をやっても逆効果。
私は一瞬の隙を見つけて、雅史の手を引いた。
「こっちです! 雅史さん!」
「あ、うん!」
何とか逃げ切ったのだが、観客と麗と姉は人に埋もれた。
結局これじゃあ動物園どころじゃない。この動物園は私を拝める広場になりそうで怖いので、動物園を出て入場門のすぐ近くにて休んでいた。
いくらか走ったからか、雅史はだいぶ汗をかいて、膝に両手を置いた。
「はぁ……はぁ……」
「ま、雅史さん?」
「ん? 大丈夫……ちょっと休めば平気だから……」
そう言うと、雅史は息を整えた。
そこに雅紀が現れた。
「雅史。大丈夫か?」
「兄貴か……もう大丈夫。心配しなくていいよ」
「そうか……」
雅紀は過保護なのか。と思った。だけど、これだけ疲れているのは私も気になる。夏風邪をひいてしまっていたら大変だ。
鞄からハンカチを取り出す。
「これ、汗を拭くのに使ってください」
「あ、べ、別に大丈夫。放っておけば引いてくからさ!」
「それじゃ悪化するばかりです! ダメです」
「わ、わかった……ありがとう。美樹さん」
そう言って、雅史は私のハンカチを受け取って汗を拭いた。そのハンカチをポケットにしまった。
「雅史さん、貸しはしましたけど、ハンカチ返してください」
「いいよ。僕が洗うよ」
「いいえ! 返してください!」
「う……今日の美樹さんは怖いなぁ……」
そう言って雅史は何とかハンカチを返してくれた。これで今日はゆっくり眠れそうだ。主に匂いを嗅いで。
雅紀はそんな私と雅史を見て、胸をなでおろす。
「じゃ、お邪魔虫は去るとするか」
「え? 兄貴帰るの?」
「ああ」
「……瑠花と何か悪巧みしてたんじゃないの?」
「そうだけど、なんだか大掛かりになってるみたいだから、こういうときって人を減らしたほうが良いんだよ」
「そ、そう……」
「じゃあな。雅史。彼女とのデート楽しめよ」
「分かってるっての」
「あと、避妊はしっかりな!」
「余計な事言うなっての!」
雅紀は駅に向かって歩き始める。
避妊の話なんかするもんだから、こっちが恥ずかしくなってきた。今日は……安全日だ。って何を考えてるんだ! 私は! 雅史と大人の階段を上ったりなんてしないっ!
……で、でもちょっとだけ……先っぽならいいかな? いやいやいや、超絶完璧美少女の私が何を考えてるんだ! うわあああああああああああ!
「美樹さん?」
「あ、ハイっ!」
「顔真っ赤だよ?」
「え、そ、その……避妊はしっかりしてくれますよね? って何でもありませんっ!」
考えてた事が口から出てしまった。引いたかな?
しかし、雅史は笑顔だった。
「うん、するよ。美樹さんとの子供欲しいけど、今は学生なんだし、ゆっくりと僕と美樹さんの時間を作ろうよ」
「……は、はい」
やっぱり優しい。雅史だって思春期の年頃で、きっと私の事をめちゃくちゃにしたい筈なのに、それを表に出さない。そういう所……
「やっぱり好きです。私達が別れるなんて無理ですよね?」
「ん? そう言ってくれると嬉しいよ。僕も美樹さんの事。好きだよ」
「えへへ、私の方がだーいすきですよ?」
「いいや、僕のほうがだいだいだーいすきだよ?」
「負けませんよぉ! 私の方が雅史さんの事をだいだいだいだい……」
そこで、雅史が私の唇を塞ぐ。手ではなく唇だ。
いつも思う。雅史とキスすると、世界が止まったような感覚に晒される。止まる風。針が進まない時計。揺れたまま動かない木々。電車・人並み。
全ての動作を止めてしまうほどの魔力――――それが私の彼氏のキスだ。
「……じゃあ僕は今の分だけ好きって事かな?」
「むー! でも、ちゃんと愛を感じました! ですが、負けられない物は負けられません!」
今度は私からキスをし返した。だけど、ただのキスじゃない。
私は舌を雅史の口の中に滑り込ませる。
驚いたのか、雅史はちょっとだけ身体を強張らせたけど、ちゃんと受け入れてくれた。
舌と舌が重なる。
深いキスをした私は雅史から一歩離れてウィンクして見せる。
「これで、私の愛の方が大きいって分かりましたか?」
「う、うん……あははは……み、美樹さんには勝てないや」
顔が真っ赤に染まる雅史。
私はやっと二人きりになれた事に喜びを感じ、デートを再開させる。手始めにゲームセンターに入る。
「……」
「……」
そこには、姉を始め、瑠花や美人部のメンバーが勢揃いだった。
麗と姉はツートップで腕組をして立ちはだかる。
「さて、何で逃げたのか聞こうじゃないの。美樹たん」
「さぁ美樹。怒らないから言ってごらん? 広場で何をしてたのか」
二人の背後から巨大なオーラが舞う。それは今までに見た事がないくらいに怒っている証だった。姉の方はもはや顔全体が般若のように、くわっとした表情になり、麗の方が北極のような笑顔が放たれている。
「雅史。谷中 美樹としたなら、あたしとだってディープキスできるよね?」
「できるわけないだろ。僕は美樹さんの彼氏なんだから」
「雅史さん……」
またも襲いかかる刺客にイラッとしたけど、雅史の言葉に嬉しくなる。
しかし、雅史はようやく二人になれたのに、私の考えてる事とは別の言葉を発する。
「もう仕方ないから、皆で遊ぼうよ」
「……え?」
雅史は二人っきりが良かったんじゃないの。と頭にすぐ浮かぶ。さっきはあんなに楽しそうにしていたのに、皆と遊ぶ事を選ぶというのか。
私は雅史の腕を掴む。
「きょ、今日は、私と雅史さんの二人っきりのデートの筈ですよね?」
「そうだけどさ、もうここまで追いかけられたらさ、皆と遊ぶしかないような気がして……」
「わ、私あ嫌ですッ! プライベートに関わってくる先輩とか、お姉さんとか、麗とか、部員とか! 私は雅史さんと二人っきりだけで、デートしたいんですっ!」
我儘だって事は分かってる。だけど、前回も邪魔されて、今回も邪魔され、次も邪魔されれば一体いつになれば、まともなデートができると言えるのだろうか。
私は雅史が好きで二人っきりになって、ちゃんとしたデートもしたいし、あわよくばエッチな事もしたい。だけど、今回を受け入れれば、絶対に次も彼女たちは二人っきりにさせてくれなくなる。
絶対に嫌だった。
「……それは僕もだけどさ。皆だって――――」
「皆は関係ありませんっ! 私は雅史さんの彼女で、雅史さんは私の彼氏でしょ? だったら二人で、二人だけでデートするのが当然ですよね?」
涙が出そうになる。
そのとき、瑠花から一言発せられる。
「ウザ。雅史は谷中 美樹の所有物なの? 何それ」
私は瑠花の言葉に、沸点を越える。
「邪魔しないでくださいッ! 幼馴染の分際でぇッ!」
瞬間静寂。
そして、麗達は私から視線を逸らした。
姉も優香も正男も鷹詩も直弘も久光も拓夫も。
「ま、雅史さん……?」
「……ごめん。美樹さん、今回は瑠花の意見の方が正しいと思う。美樹さんも、ましてや僕も誰の物でもないんだ。それは交際したからって変わらないと思う」
「…………」
雅史は私の腕を振りほどいていく。
そして、私の瞳から涙が零れ落ちる。
「そういう事。谷中 美樹。あんたって案外重いよね」
瑠花に言葉を吐きつけられ、怒りと悲しみで可笑しくなる。いつの間にか、立ち上がり瑠花の頬を叩こうとしていた。
しかし、手は止まる。
「美樹さん。止めてくれ。僕の彼女が幼馴染に手を上げてる所なんて見たくない」
「……ま、雅史さんは一体どっちが大切なんですか……」
一呼吸置いて雅史は答えた。
「僕は美樹さんが大事だ。それは間違いない。けれど、僕は皆も同じように大事にしたいと思ってる」
「それは、先輩もって事ですか?」
「うん。瑠花も同じ。僕の幼馴染だから。大切にしたいっていう気持ちはもしかしたら、美樹さん以上に強いかもしれない」
突きつけられた言葉に、何かが崩壊していく音がした気がした。
この場にいるのが苦しくなり、私はゲームセンターを後にした。