僕がドキドキしたりなんてしないっ!
谷中さんは丁寧に挨拶して、瑠偉を見つめる。瑠偉は顎髭を弄りながら、憧れの彼女を見つめる。何やら難しい顔をしていた。
「初めまして。ここのオーナーでもあって、そこにいる雅史君の親との古い友人だ。気安く瑠偉と呼んで貰っても構わないよ」
「いいえ。さすがに初見で更には年上のお方に、気安くファーストネームで呼ぶ事なんてできません。ですが、その気遣いは、ありがたいです」
微笑みながら、瑠偉に首を傾げる谷中さん。これこそが人気のある秘訣とでも言うのだろうか。そもそも、谷中さんは誰にでも優しい。もちろん、僕にも。やっぱりこういう姿を見ると惚れ直してしまう。今日何回彼女を惚れ直したか、分かったもんじゃない。
すると、瑠偉は瑠花に視線を変えて、溜息を吐いていた。
「……瑠花。雅史君に先を越されてしまったな」
「…………」
瑠花はバツの悪そうな顔をして、業務に戻ってしまった。実際、彼女に谷中さんに何かを吹き込まれたら困るので、戻って良かったと思う。
それから、瑠偉は視線を僕たちに戻した。
「じゃあ、雅史君。注文はどうするかね? 彼女の前でかっこつけたくはないかね?」
「それ、本人の目の前でいいますかね?」
「いいんだぞ。今日はサービスしてやるから、何でも注文しろ!」
そう言って、瑠偉は二の腕のこぶに力を入れて、叩いた。そして、白い歯を煌めかせて、ニシシシっと笑っている。これはありがたいんだが、やはり、料金はちゃんと払っておこうと決めた。
「ありがとうございます! でも、悪いので料金はちゃんと払いますから!」
「何言ってんだよ! 雅史君と俺の仲じゃないか!」
「それでも、ダメなものはダメです!」
「はぁ……もうちょっと頼ってくれてもいいんだけどな……そこが雅史君の良い所だもんなぁ……」
「そう言ってもらえると、何だか複雑な心境なんですが」
「まぁ、いい。決まったら、瑠花にオーダーしてくれよ!」
そう言い残して、瑠偉は厨房へと戻って行った。それから、僕は痛かった脛を抑えて席に座りなおした。谷中さんに恥ずかしい所を見せてしまったので、今さらのように顔が赤くなってくる。しかし、谷中さんは気にした様子もなく、また席に着いた。
彼女はニッコリと笑って、僕に話しかけてきてくれた。
「とてもいい知人さんがいらっしゃるんですね」
「僕のというよりは、親のですけどね……」
僕はこの時ばかりは親の事を誇りに思った。良い友人を沢山持っていてくれたおかげで、僕もこういう風に不測の事態に備える事ができるのだ。感謝してもしきれない。
そして、互いにメニューを見つめる事数分。僕は結構な頻度でこの店に足を運んでいる為、もうメニューを見なくても分かる。谷中さんは初めてなので、どういったものにしようか悩んでいるようだ。
「……どれがオススメなんですかね?」
谷中さんの質問に僕は背筋を強張らせた。ここで、僕のオススメを一方的に説明して、彼女の舌に合わなかったら、絶望物である。僕はメニューを見直して、慎重にメニューを吟味する。ここはステーキ屋で、何がオススメなのか……と考えていると、誰かが席へと近づいてきた。
「ここでは、ロコモコかオムライスがオススメですよ」
僕は聞きなれた声に、驚いて視線を近づいてきた者に移す。そこには、長身で、爽やかな笑顔を漏らし、着用している洋服や小物もお洒落で、明らかにイケメンオーラを振り捲いている男が立っていた。スタイルも抜群でモデルのようだ。そして、僕は彼を知っている――というかそれどころじゃない。
谷中さんは眉根をピクっと吊り上げる。彼女が口を開く前に、僕が先に言葉を発する。
「何しに来たんだ! 兄貴!」
そう。近くに立っているのは兄だったのだ。彼は高校三年生の年で、近くの都立高校に通っているのだ。彼は見た目通りで、女子と結構頻繁に出かけている、いわゆるチャラ男なのだ。正直、僕は兄貴の事が嫌いなのだ。
そんな兄貴は絶対に今回も、谷中さんを彼女にしようと近づいてきたに違いない。僕は犬のようにガルルルと威嚇するが、兄貴は別段何もアクションはとってこなかった。
「そうカッカするなよ雅史。いつまでも悩んでるようだったから、雅史の可愛い彼女さんに教えてあげただけじゃないか」
「いつまでもって、そんなに時間を使った覚えはない」
「そうかもしれないけど、彼女は待ってたみたいだぞ? あんまり下手に気を使うと、お前ふられるぞ?」
いい加減な事ばかり言う兄貴に、久しぶりに関心を若干した気がする。確かに言う通りかもしれない。少し変な気を使い過ぎたんだ。だけど、もう既にふられてるんだよね。
「とりあえず、俺のオススメはロコモコとオムライス。雅史はどうなんだ?」
兄貴が再び同じ事を言うと、谷中さんは僕に期待の眼差しを向けてきた。やはり、ここは僕も素直にオススメを喋るとしよう。ここは普通のステーキ屋なのに、オムライスやらロコモコと言った洋食系列が美味しいのは確かだ。だけど、僕はコレが好きなのだ。
とある一枚の写真に、人差し指を置いた。
「僕は、このリブロースステーキのレアが美味しいと思います!」
すると、兄貴はフッと軽く一息吐いて、どこかに行った。そして、谷中さんはニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、このステーキにします」
「あ、はい……って僕の舌を信じるんですか!?」
「信じるも何も、私は初めてですから。それに、常連さんのオススメなら絶対にハズレはなさそうですからね!」
笑顔でコチラを見る谷中さん。ああ、もうダメだ。可愛すぎる。このまま死んでもいいんだろうか。丁度そこに、瑠花がオーダー票を手に持ってやってきた。このまま瑠花に、腑抜け顔を見せるわけにはいかないので、ささっとオーダーをする。
「じゃあ雅史。何食べんのよ」
瑠花はかなり不機嫌なご様子だった。何でかは知らないけど、知らない方が良い事もあるだろう。僕は迷わずに、先ほど谷中さんにオススメしたリブロースステーキを選んだ。それを耳に入れて、オーダー票にさらさらと書いていく瑠花。なんだか、素っ気ない。
でも、今は瑠花なんて気にする余裕なんてない。だから、明日会ったら謝っておこうと決意する。
それから、瑠花は立ち去り、谷中さんはノートを取り出す。そう言えば、勉強を見る事になってるのをすっかり忘れていた。僕が谷中さんに教えられる事なんて少ない筈だ。
「あのー……ここなんですが、わかりますか?」
上目づかいで聞いてくる谷中さん。何とも自信がなさそうで、可愛い。彼女は全てが完璧な美少女かと思われがちなのだが、基本的には他の高校生と変わらないのだ。
僕はニヤニヤしながら、谷中さんのノートを受け取る。
だが、ノートに書いてある内容を見た瞬間に、背筋が凍り始める。これは、分からないなんてレベルではないッ! いや、その逆で、先の先である応用まで済ましている。彼女が分からないと言っているのは応用のほうである。もちろん、平凡極まる僕に、そんな範囲が分かるわけもなく、ノートを机の上に置いた。
「非常に言いにくいんですが、谷中さん」
「はい」
「この内容って、大学入試レベルですよ? さすがに、高校一年生の初っ端から、こんなハードな問題は出てこないと思いますけど……」
「へ? でも、教科書はここから、ここまで出るって……」
谷中さんは教科書をペラペラとめくり始める。チラッと教科書を見てみると、物凄い量の書き込みがしてある。これで勉強が苦手っていうのだから、そうとう変わり者である。びっしりと書かれた教科書は、まるで辞書か、何かだと勘違いしそうだ。
「……勉強苦手な人がここまで書かないと思いますよ?」
「そ、そんな事はないと思います! 私は本当に勉強が苦手なんですよ!?」
「いや……多分学年一位の黒樹さんですら、ここまで書いてないと――――」
「え! 麗って学年一位なんですか!!」
食いついてきた谷中さん。その表情は驚きの色を全開にしている。そう言えば、谷中さんは入試のときに姿を見ていない。何かしらの理由があったのだろうか。谷中さんの目は興味津々と言っている。
僕は自分の知っている情報を包み隠さず、口にする。
「間違いないよ。入学試験合格発表者で、うちの高校では入学試験時のトップ10のデータが出てたからね。一位は黒樹さん。二位は井草君。三位は野村君で四位が荒田君。五位が近藤君。ここから先はちょっと忘れちゃった」
僕は苦笑い気味に、後髪を弄る。すると、入試時の順位を聞いた彼女は、どこか熱のある笑みを浮かべて、落ち着いた。その顔色は、とっても悔しい事に、誰かに恋をしている乙女だった。確実に今言った名前の中に、谷中さんの好きな人でもいるんだろう。
少し歯痒い思いをしていると、目の前に料理が置かれた。
「さ、話はそこまでにしなさいよ。お父さんの料理でも食べなさい!」
「あ、瑠花。ありがとう!」
「ありがとうございます。瑠花さん」
瑠花に僕と谷中さんは同時に頭を下げた。しかし、その瑠花はあっけなく、料理を運んだらすぐに、どこかへ消えてしまった。そんな事も気にせず僕らは食事へと、移動した。やはり、リブロースステーキのレアは僕の中で最高だった。そして、それは谷中さんも同じらしく、オススメして良かったなと思えた。
彼女の食事作法も完璧で、本当に非の打ちどころがなかった。全てにおいて洗練された動作を持つ彼女。最初、勉強が分からないと言われたときは、可愛いなと思ったものだけど、なんて事はない。彼女はただレベルが高すぎるのだ。それこそ、彼女の友人である黒樹さんと同じくらいかもしれない。……一応僕も同じクラスだけど。
谷中さんとの食事を終え、僕たちは店を出る。
「今日はありがとうございました」
「い、いやいいんだ。もとはと言えば、僕が――――」
「それ以上言わなくていいですからね?」
「あ、うん……」
「それでは、今日はとても美味しい御馳走をありがとうございました! また明日学校で会いましょう!」
「う、うん……」
手を振って帰る谷中さん。僕も手を振り返す。
谷中さんの後姿を見送りながら、僕も近所にある自宅へと足を進めた。




