MY HERO
少年は生まれて初めて家を飛び出した。
理由は単純。母親にこっぴどく怒られたのだ。学校の成績の事がきっかけとなり、それから何かにつけて過去の失敗を持ちだしてきて、まるで全てが否定されているような気がしてきた。
これまで、期待に添えるように頑張ってきたつもりだった。
しかし、母は結局、自分の事を身につけるアクセサリーの一つであるかのように、その価値を高める事しか考えていなかったのだ、と少年は思った。
夜の街はとても怪しく煌びやかで、恐怖と期待が入り混じったような空気で充満していた。
少年の心臓は早鐘を打った。怖さと背徳感に似た気持ちの良さが二対八くらいの割合で心のなかに広がる。
少年にとってそこは異世界のようなものだった。
しかし、そんな時間は長くは続かない。
トントンと肩を叩かれ後ろを振り向くと、
「君、ご両親は? こんなところで何をしてるんだい?」
警察が声をかけてきた。
「え……あの……」
若い警察官は無線を使ってどこかに連絡を入れる。
このままでは、この自由な時間が終わってしまう――直感的にそう思った少年は、
「あ! 待ちなさい!」
声を荒げて追って来る警察官を振り切るように走り出していた。
幸い、その道は人通りが多く、背の低い少年は人の群れを縫うようにして駆け抜け、夜の街に紛れ、若い警察官は少年の姿を見失った。
少年は逃げ込んだ隘路の隅に地下へと続く階段を見付け、滑り込むようにしてそこへ逃げ込んだ。
階段の両脇の罅割れた黒い壁には、落書きやステッカーが折り重なるようにして存在した。鼻孔を抜けるのは鉄とペンキとヤニとアルコールが混ざった、意識が遠くなるような匂い。
流石に恐ろしくなって、後ずさりを始めたのだが、すぐに何かにぶつかってしまった。
「す、すいませんっ!」
反射的に頭を下げる。
「おう、気にすんな」
この場の雰囲気に反してどこか爽やかな声に少し安心した少年はゆっくりと頭を上げる。
しかし、少年はすぐに自分の考えが甘かった事に気付く。
目の前にいたのは、上下黒い革の服を着た金髪の、それに咥え煙草に片手に酒瓶を持ったいかにも危ない人物だった。
「ここはお前みたいなガキが来るところじゃねーぞ」
金髪の男は煙草の煙が少年にかからないように顔を僅かに上に向けながら言った。そして、こう続ける。
「悪い事は言わねーから、早く帰んな。あと、ここの事はナイショでな」
少年は金髪の男に頭を撫でられた。
しかし、そう言われても少年はそこから動こうとはしなかった。
「ぼ、僕は……家には戻りたくないんです」
震える声で言い切った少年は、厳然たる意志を宿した瞳で金髪の男を見上げた。
驚いたように目を丸くした金髪の男は、煙草を壁に押し付けて火を消し、二カッと笑うと少年に視線を合わせるようにしゃがむ。そして、少年の頭に手を乗せると、
「ははッ、ロックだな、お前。いい目してるよ」
そう言い、少年の手を引いて階段の一番下にあった厚い扉を開けて、建物内に入った。扉は二段構えで、なかの扉を開けた瞬間、大きな音が鼓膜を激しく震わせた。
腹の底に響くような重低音に軋みを上げる金属質な音。そしてそれらの音が折り重なって部屋のなかに響き渡る。
頭がグラグラするような音の圧力だったが、同時に足の先から頭の天辺まで高揚感で満たされた。
「すげーだろ?」
金髪の男が聞くと、少年は目を輝かせて頷いた。
「これ、なんですか?」
少年が聞くと、金髪の男は頭を掻いて苦笑しながら答えた。
「……だよな。ふつーは知らねーんだよな。これは、音楽ってやつだよ」
「おんがく……?」
「そう、ずっとずっと前に俺達の爺さんや婆さんが生まれる前に、世界中から取り上げらちまったものなんだ。例えば――」
金髪の男は、「あー」という声を高低を変えて二度出して見せた。
「いまの二つの音は違っただろ? 同じ『あ』なのに」
少年は関心したように頷く。
「こうやって、違う音を幾つも組み合わせて作るのが、音楽ってものなんだよ。それをリズムの上に乗せて、な」
「へえ、凄いや! ……でも、どうしてなくなっちゃったんですか?」
「色んな問題を抱えた社会は、何かに責任を押し付けなきゃいけなかったんだ。特に、俺達みたいに、まっとうな道から外れちまった若い奴らをどうするかって、頭の固い連中が考えた時に、こういう文化を消しちまえ、ってなったのさ。……あ、ちょっとボウズには難しかったか」
少年は首を横に振った。
「ううん、なんとなくだけど、わかります。学校でも、みんな同じように勉強して、大人にとって都合のいい、機械みたいにしようとしてるって、ずっと思ってました」
金髪の男はまたしても驚いた顔をして、そして快活に笑った。
初めは恐い印象があったが、改めて見ると、他の大人は持っていない本当の意味での純粋な少年らしさを持った男だった。
「お前、俺より頭いいかもな」
そうして、金髪の男と少年が、瞬く色とりどりの光に照らされる暗い部屋の隅で談笑していると、露出度の高い服を着た茶髪の女が二人の元へ歩み寄ってきた。
そして、一度少年を見てニコッと笑うと、金髪の男に声をかけた。
「何? ヒロ、その子、アンタの隠し子ぉ~?」
「あ? ちげーよ。たまたま、ここの外で会ったんだ。たぶん家出だ」
「へぇ~、まあ、そういう事にしといてあげる」
悪戯っぽくそう言うと、その女はヒロと呼ばれた金髪の男の方に軽くキスをした。
少年はなんだか見てはいけないものを見たような気がして、目を伏せる。
茶髪の女は身を屈めて自分の顔を少年の顔に近付けると、
「君、何か飲む?」
「い、いいえ、大丈夫です」
「もう、遠慮しないの。コーラでいい?」
「あ、えっと……はい」
少年が目を合わさずに頷くと、茶髪の女はすぐ近くにあったカウンターの奥にいる髭面の男に注文をし、瓶に入ったコーラを受け取ると、少年に差し出した。
「はい」
「あの……ありがとうございます」
その初々しい反応を見た茶髪の女は、
「かわいい~」
と言って少年を抱きしめた。
頭が何か柔らかいものに包まれる。それに、漂う甘い匂いも相俟って、少年は少し気が遠くなった。
茶髪の女は少年を抱きしめたまま、金髪の男――ヒロにこう言う。
「ヒロ、次はアンタらの番でしょ? 早く準備しなよ」
「ああ、そうだな。じゃあ、そいつ頼むわ」
「はいは~い」
茶髪の女に手を振られたヒロは颯爽とステージの裏側へ消えていった。
そして、茶髪の女は少年の目を真っ直ぐに見て言う。
「君、ラッキーだね。ヒロは気まぐれだからさ、気分が乗らないとライブやんないんだ。でも、今日のヒロ、サイコーに熱い目、してた」
少年は彼女が何を言っているのかイマイチわからなかったが、とりあえず頷いた。
そして、ステージで演奏をしていたバンドの最後の曲が終わり、彼等が後ろに引っ込む。
暗転。
部屋のなかに点在していた人達がステージ付近に集まり、熱を帯びた空気が部屋中に充満する。
パァン、と高い金属音が鳴り響く。
そして重低音と折り重なって、それは鼓動を速めるように激しくなっていく。
そして、その上に違う音が重ねられていき、それは世界を突き動かすようなグルーブを生みだした。
「来るよ」
茶髪の女が言うと、ステージを覆っていた幕がゆっくりと上がる。
その中央にいたヒロは、ステージの下を見回して、その最後に少年の姿を捉える。
「お前ら! 溜めこんだモン全部吐き出せよ」
獣の咆哮のようなヒロの叫び。
観客は一気に盛り上がり、声の津波が少年を襲った。
そしてヒロはバンドの音に乗せて歌い始める。
俺達は自由なんだ。
くだらないルールに縛られる事はない。
レールから弾かれたら、違う道を歩けばいい。
常識なんてない。
そんなものは馬鹿な奴等が勝手に決めた事だ。
お前を抑えつけようとする世界から逃げ出してしまえ。
しがみつくようなものじゃない。
爆音に重なり、また少し難しい言葉も使っていたが、きっとヒロはそんな事を言っていた。
そんなヒロはとても輝いていた。いつまでも輝き続けていた。
しかし――――
ドン、と乱暴に開けられる扉。
「警察だ! 動くなよ!」
大挙する制服の集団。
騒然とする観客。
しかし、ヒロ達はその演奏を止めようとはしなかった。
まるで、その圧力に牙を突き立てるように。
警察官達は観客を次々に取り押さえ、そして遂にはヒロ達も捕まってしまった。
天井の蛍光灯を点けられ、薄暗かった部屋は一気に明るくなった。
こうして改めて確認すると、奇抜な格好や派手な髪の色をした得体の知れない人達の輪のなかにいたのだな、とどこか客観的に思う少年だったが、そんな彼らより、ずっと警察のほうが怖かった。
ステージから引きずり下ろされる形で引きずり下ろされたヒロは、警察官の手を振り払って叫び声を上げた。
「音楽は死なねえぞ! 絶対に!」
同様に捕まった観客達は、各々が声を上げる。
「黙れ!」
警察官は叫ぶ彼らを無理矢理取り押さえて、次々と外へと連れ出していった。
最後に、少年の横を通ったヒロは少年にだけ伝わるように小さく言った。
「忘れないでくれ、俺らがここで叫んだ事を」
少年は力強く頷く。
そして、少年の姿を見付けた警察官は――あの若い警察官だった。
彼は、少年に近寄る。
「君はさっきの! なんでこんなところに……」
口籠る少年の前に立った茶髪の女が、その若い警察官の顎の辺りを艶めかしく撫でる。
「かわいいいから、連れて来ちゃった」
語尾にハートマークでも付きそうな甘い声。
若い警察官も一瞬だけ隙を見せたが、
「こんな子供を惑わすなんて、やはりお前らは悪だ!」
気色ばんで言い放つと、若い警察官はその茶髪の女を乱暴に外に連れだした。
結局は少年も外へ連れ出され、警察車両に乗せられた。
住所を聞かれ、車は少年の家へと向かって走り出した。
その道中、夜の街を眺めながら少年は頭のなかで何度もヒロの歌を思い出した。決して忘れないように。
世界の真実を教えてくれた、自分にとってのヒーローの姿を。