008
岩石で作られた湯船はさながら温泉といった風情を醸し出している。ほかに浴場を利用している者はなく、広々とした大浴場は貸切状態だった。俺は手桶で身体の汚れを洗い落としてから湯に浸かる。睡眠以外を必要としない非現実的な生活に慣れてしまったこともあり、こういう骨休めができる設備の重要性を理解していなかったのだろう。
「極楽、極楽」
ついつい年寄り染みた台詞が口を衝いてしまう。
温かい湯が筋肉だけでなく脳まで弛緩させてくれているのかもしれない。ラドリックやミルフィーユも俺と同様に表情を緩ませていた。そんな和やかな状況とは相反して、話題は必然的に魔導書関連となる。
「もう『貞節の魔導書』の影響は判明したんですか?」
「デメリットはまだ判明していない。メリットは上級職がいくつか追加されたことだ」
「へえ、どんな上級職が追加されたんですか?」
「言い方は悪いが攻略に役立つ職業ではないぞ」
俺が期待に満ちた顔をしていたのか、すぐさまミルフィーユは機先を制する。
しかし質問の回答にはなっていないため、隣のラドリックが簡単に補足してくれた。
「上級職を使用せずに攻略することは困難だが、基本となる盾役・矛役・支援役は限られている。王道から外れた職業は集団戦ではかなり微妙なのさ」
「でもバージョンアップ次第で躍進する職業もあるんじゃないですか?」
「前作までの流れから判断すれば、抜本的な変化は期待できないな。もっとも今回から導入されたVRMMOの世界で定石が通用するかどうかはわからない」
「VRMMO……やっぱりこれまでとは違いますよね?」
「純粋にゲームを楽しむだけなら変わりはないさ。ただロールプレイを楽しみたい連中には厳しくなったかもしれないな」
ちなみにロールプレイとは職業や役柄を演じることだ。
コスプレした妹がキャラクターに成り切ると一緒で、その対象が姫や騎士といった、ファンタジー世界の色を帯びる違いしかないだろう。
ラドリックは傍らのミルフィーユを一瞥して言葉を連ねる。
「もちろん美女や美少女は、これまでより大変だろうな」
「そうでもない。以前より注目してもらえるから楽だ」
「まあ、その辺は性格だろうな」
やれやれという風にラドリックは肩を竦めた。
話が途切れたので俺は湯船から上がり身体を洗おうとする。
不意にミルフィーユから嬉しい申し出を受けた。
「背中を流してもいいだろうか? 背後なら肌の露出を見せてしまうこともないからな。しかしそれでも気になるというなら行為中は瞳を閉じてくれればいい」
どんな形であれ恩を返したいのかもしれない。それに女性にここまで言わせて断るのは失礼だろう。俺は「よろしく頼みます」と応じて檜の板に腰を下ろした。
「失礼する」
そう告げて美女は手桶に汲んだ湯を俺の背中にかける。
それからしばらく間が空いたのは、手拭いを泡立てているからだろう。
仮想現実であっても文化が一緒な限り生活は現実と大差ない。
「接触の許可をもらえるか?」
「ああ――ちょっと待ってくださいね」
決闘の申し込みに「はい」を選択する。
敢えて現実との違いを挙げるとしたら、おそらくこういうところなんだろうな。
そんな高尚な思考を巡らせていると、背中に柔らかい感触が伝わってきた。
「うおーい!」
俺は反射的に立ち上がり背後を見やる。
そこには胸や腹を泡塗れにしたミルフィーユのきょとんとした表情があった。
「なななななにやってんですか!」
「背中を洗っているだけではないか?」
「どんな特殊浴場ですか! 普通に背中を流してくれるだけでいいんです!」
俺は視線を外しながら激しく突っ込む。すると美女の不満げな声が聞こえていた。
「蓮は意外と物を知らないな。これは専属給仕の麗華さんが教えてくれた男性を喜ばせる方法なのだぞ? それはもう得意そうな顔で『これをされて嬉しくない男は存在しない』と断言してくれたことを覚えている」
「けしからん専属給仕だな!」
「しかしこの方法が気にいらないとなれば……私に蓮の性癖を満足させることは不可能かもしれない。なにかいい案があるなら教えてほしい」
「真剣に悩まないでください! 俺の価値がだだ下がるじゃないですか!」
ラドリックは湯船に浸かったまま鼻歌を奏でているし、泡姫と化したミルフィーユを窘めてくれる存在は皆無だった。ともかくこの気まずい状況を打開するべく、俺はワインレッド髪の美女に声をかける。
「ともかくまずは胸を隠してください。こういう行為は恩人だからという理由ですべきことじゃないんですよ。そもそも感謝の気持ちを伝えるなら全裸になる前に眼鏡をかけるべきです。最近は風呂専用眼鏡も流通しているでしょう?」
「ふむ。今も持っているのか?」
「当然ですよ。紳士の嗜みですからね」
「持っているなら話は早い。それを私にかけてくれないか?」
「え?」
「私は蓮の喜ぶ顔が見たいのだ」
俺は真剣な眼差しを向けてくるミルフィーユを見つめた。
凛とした表情と泡塗れの身体が理性を錯綜させる。
花の蜜に誘われる蝶のように眼鏡をかけそうになってしまう。
しかし寸前のところで俺は理性を取り戻した。
「気持ちだけ受け取っておきます」
「気高いな」
「どういうことです?」
「専属給仕の麗華さんは『もし欲望に屈しない男性を見つけたら絶対に手放してはならない』とも言っていた」
「ただけしからんだけの専属給仕じゃなかったんですね」
「ゆえに私は蓮の愛人を目指すことに決めた」
「なぜ恋人を目指さないんですか!」
「本命はチグリスか乱華なのだろう? 私は分を弁えているのだ」
「……健気過ぎて扱いに困るじゃないですか?」
「それを期待しているのだ。麗華さんは優しさに付け込めと教えてくれたからな」
「やっぱりけしからん専属給仕だ!」
とまあ、こんな具合で風呂を済ませた俺は食堂へ向かう。
もちろんミルフィーユとラドリックも一緒である。質より量を優先した料理を食べながら雑談が始まり、そこでは主に蒼黒竜との戦術面が話題に上がった。いつの間にか祝賀会が反省会の色を帯びていく。
「軽率な行動を批判されるならともかく、戦術面は実戦を見てから判断してください」
「見なくてもある程度の予測は立つんだよ。竜族の攻略に重要なのは盾役を支える治癒系魔術士と、飛翔中の竜を地上へ降ろす攻撃系魔術士の存在なんだ。それを踏まえれば今回の編成に問題があったことは明白だろ?」
「それは今作の仕様を確認するためでしょう?」
「組まれた編成に文句を言ってるんじゃない。あの編成しか組めない状況で蒼黒竜に挑んだことが時期尚早だと提言しているんだ」
「それこそ後の祭りじゃないですか!」
白熱する議論に部外者の俺は付いていけない。
それは同じく部外者のチグリスも同様だった。
「勝ったのだから盛り上がるだけでいいじゃない? 祝賀会のあとに反省会をやるんじゃなかったのかしら? 食事のときまで駄目出しをするなんて正気の沙汰じゃないわ。ダンゲロスでは似たような状況に陥らないよう気を付けましょう」
烏龍茶を飲み終えた黒髪の少女は焼き林檎を齧る。
俺は苦笑いを浮かべながら仔牛肉の包み焼きに箸を伸ばした。卓の上には南海秋刀魚の塩焼き、野兎の網焼き、人参と芋と糸蒟蒻の煮物、ベネチス風茸鍋、野菜の盛り合わせなど多品種が並んでいる。それらを食べる道具も「箸・匙・肉叉」と揃っていた。どうやら水の綺麗なところは食文化が栄えるらしい。
「八咫烏は乗りが悪いっすからね」
「まあ、ギルド方針はそれぞれだからな」
「それもそうね。私たちは私たちで楽しみましょう」
穏やかな旋律と美味い食事が時間の流れを緩やかにする。
食事を進めながら数ヶ月間の成功談や失敗談に花を咲かせた。
ほかが真剣な議論をしているからこそ、どうでもいいような話ばかりしてしまう。
赤茶色の髪を後ろで束ねた女性NPCが追加の飲み物と料理を運んでくる。妖艶な色香を漂わせた妙齢の美女なのだが、俺の場合、その美貌を素直に楽しむことができない。こうやって楽しく食事をしていると妹や後輩を思い出してしまうからだ。
「どうしたの? 元気がないわね」
「まあ……ちょっとな」
「チグリス姉様、あたしのことも構ってほしいっす」
忍装束の少女はチグリスの胸に顔を埋めながら要求を口にした。想像していた以上の甘えたである。しかし見た目の可愛らしさと合っている所為か、黒髪の少女に甘える百合姿に違和感はなかった。
「これをあげるから大人しくしていなさい」
チグリスは溶けると味が変わる飴玉を革袋から取り出した。こういう細工菓子にもベネチスの食文化の高さが活かされていて、他都市へ持ち込むと水上都市で売られている三倍の価格でも捌ける。もっともそれは設定上の話であって、実際には競売所があるため、そのような美味しい話にはならない。
「味が林檎から蜜柑に変わったっす!」
乱華は嬉々とした表情を浮かべる。
どうやら女子が甘い食べ物に目がないのは万国共通らしい。
しっかり食事を済ませてから部屋へ戻る。ミルフィーユの説明では貸切不可のはずだが、ほかの誰かが入室した形跡は残されていなかった。簡易ベッドに寝転がりこれからについて思考を巡らせる。
「八咫烏、十二月の頭から帝都攻略を始めるらしいわね」
「そうみたいっすね。ギルド外からも参加者を募集するらしいっすよ」
「あらそう。参加条件は?」
「前衛職がLv45以上で後衛職がLv40以上っすね」
「期日までに上げられるんじゃない?」
「それはそうっすけど……うちのギルド方針はどうなんすか?」
「どうなの?」
そこで二人の視線が俺に向けられる。
「結成したばかりとはいえ『ダンゲロス』は攻略ギルドだからな。できれば早い段階で拠点を帝都に移したほうがいいんだろ?」
「確かに優秀な人材を確保するためにも先行しておくことは大切ね」
「仲間を増やすことに反対じゃないのか?」
「三人で攻略ギルドが務まるわけないでしょう?」
黒髪の少女は呆れた顔を返してくる。
気軽にギルドを立ち上げたものの前途は多難らしい。
俺は天井を見上げて嘆息を漏らした。




