003
必要事項の説明を船内で受けていたからだろう。
宿泊施設に到着してからは、比較的すぐ自由時間になった。
姉貴の用意してくれた七階の一室は、二十畳(バス・トイレ含む)くらいの間取りで、三人で利用するには充分な広さだった。部屋の隅にPC端末と連動したリクライニングシートが五台、反対の壁には理路整然とシングルベッドが五つ並べられている。
五台のリクライニングシートは仕切りで区画されているが、高校生の男女が長期間一緒に生活するには、いくらなんでもプライベートな空間が足りていないだろう。
しかしそんな不安を抱いていたのは、どうやら俺一人だけだったらしい。
「あ、プラグスーツっぽい!」
「白と黒しかないけど莉紗ちゃんはどっちにする?」
「にんにくラーメンチャーシュー抜き」
「じゃあ、白だね」
妹と後輩の仲が随分と親密になっている。しかしそれほど驚くようなことではない。
同じMMOをプレイしていたのなら、共通の会話には困らないだろうからな。
「お兄ちゃん、ベンチマークテストはしてもいいんだよね?」
「ベンチマークテスト?」
俺の間抜けな返答に莉紗は「むう」と眉根を寄せた。今すぐにでもVR機を体験したそうなので、不甲斐ない兄に苛立っているのかもしれない。
「うーん……VRMMOではなんて表現すればいいんだろう?」
「動作確認でいいんじゃないかな?」
「おおっ! さすが香梨さん!」
妹は盛大に嬌声を上げる。
お気に入りアニメを観ているときのような会心の笑顔だった。
この旅行が終わる頃には――兄の尊厳を失くしているかもしれないな。
ともあれやるべきことを理解した俺は、莉紗用のSDカードを端末に差し込む。
本来は個々で管理するものらしいが、十八歳未満の所持は、なるべく控えてほしいと頼まれたのだ。そんなわけで俺が三人分の外装記録を管理することになったのである。
俺は手早く操作して周辺機器を立ち上げた。
SDカードがVR機の起動鍵も兼ねているため、連動したPCの画面には、妹の仮想現実世界用外装が映し出されている。冒険者の初期装備を着用していることを除けば、莉紗と瓜二つな少女がこちらへ微笑みかけていた。
「先輩、私のSDカードも差し込んでもらえませんか?」
「おう。俺も外装チェックと動作確認をしてみるよ」
隣席の端末にSDカードを差し込んでから、俺も別のリクライニングシートへ移動する。VR機を起動させると、画面の中に俺が登場した。このキャラクターを動かすためには、いくつか手順を踏まなければならない。
傍らに用意された黒色のウェットスーツとハーフ型ヘルメットを見上げる。
一つは脳波を読み取るための装置で、もう一つは安全を守る装置らしい。つまり現実世界で危険を感知した場合、仮想現実から強制的にログアウトする機能だ。
「着替えるから注意な」
「あ、私も着替えます」
「…………」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
本当に腐女子の心臓は強いな。
事故を未然に防ぐための配慮が、思わぬ方向に進んでしまった。
ほどなくして仕切りの向こうから衣擦れの音が聞こえてくる。思わず生唾を飲み込んでしまう。見えないからこそ背徳感が半端ない。ただ眼鏡が似合っているだけではなく、こんな手段も持ち合わせているなんて、俺の中に眠る悪魔が目を覚ましても知らないぞ。しかし眼鏡をぺろぺろしてしまったときは、俺も漢だから嘘偽りなく素直に謝罪しよう。
ぺろぺろしてごめんなさい。
いや、まずは欲望を抑制しないとな。
ぺろぺろする前提で話を進めることはよくない。
雑念を振り払い俺も準備を始めた。
黒いウェットスーツに着替えて、ハーフ型ヘルメットを装着する。
それからリクライニングシートに身体を預けてバイザーを下ろした。
次の瞬間――景色が一変する。
見渡す限り平原が広がっていた。
視線を落とすと初期装備が瞳に映る。手で触れると質感が伝わってきた。
これが仮想現実の世界なのか?
感動で鳥肌が立っている。小さく震える手を押さえて、右足を一歩前へ踏み出した。
これはもう操作ではなく動作だろう。現実世界と比べて何一つ変わらない。
動作確認を済ませた俺はウィンドウを開く。脳で考えたことが直接反映される。
表示された各種項目の中から終了を選ぶ。
バイザーを上げて上体を起こす。それからハーフ型ヘルメットを脱いだ。
妹や後輩がVRMMOをプレイしたかった理由が今ならわかる。
「莉紗、天音、まだ動作確認中か?」
「私は戻ってます」
その返答を受けて隣席のリクライニングシートを覗き込む。
黒いウェットスーツに身を包んだ黒髪少女が後ろを振り返る。
「先輩は職業とか決めたんですか?」
「いや、全然。正直、今この瞬間までVRMMOに無関心だったからな」
「ということは興味が出てきたんですね?」
「少なくとも嫌々プレイすることはなくなったよ」
そこで画面に映し出された天音の外装を視界の端に捉える。
なにかがおかしい。すぐさま直感は確信へ変わる。
強烈な違和感の正体は、眼鏡がないことだった。
「どうして眼鏡をかけてないんだよ!」
「うーん……眼鏡が装備品だからじゃないですか?」
「なんてことだ! 眼鏡を入手するまで裸眼で過ごせというのか!」
「あの……先輩? 仮想現実に近視は持ち込まないみたいなので大丈夫ですよ?」
「馬鹿なことを言うな! 強制的に眼鏡を外すなんて卑劣な行為が許されて堪るか!」
憤る俺に天音は「大丈夫ですから!」と繰り返すばかりだ。
ここは先輩として辱められた後輩を救わなければならない。
「安心しろ。俺が眼鏡職人になってやる」
「いや……あの……先輩?」
「なにも言うな。あとは俺に任せてくれればいい」
汝、隣人の眼鏡を欲してはならない。
これが眼鏡愛好家の常識とされている。
おそらく強制的に眼鏡を外されるという行為は、痴漢に尻を撫で回される苦痛に等しいことだろう。そんな神をも畏れぬクライシス社の所業に俺は絶句するしかない。
「ねえねえ香梨さん――うわっ! お兄ちゃん、どうして泣いてるの!」
「仮想現実の眼鏡について、思うところがあったみたい」
「お兄ちゃん、眼鏡に関しては情熱的だからね」
「そうなの?」
「うん。ちょっと面倒臭いくらい」
言いながら妹は鞄から携帯を取り出す。どこかへ連絡しているみたいだった。
それとは別に後輩女子から質問を投げかけられる。
「ところで私の眼鏡は評価してもらえてるんですか?」
「当然だ。それどころか俺は天音の眼鏡に感謝している」
「そうなんですか? でもどうして?」
「所詮俺は眼鏡をかけて生活する不便さや煩わしさを知らない素人だからな。些細な暮らしの中で眼鏡は所有者独自の色に変化していく。そういう玄人好みな深い味わいを、俺はまだ醸し出すことができない。まるで死海文書だよ。すべてを理解するには、人生はあまりに短過ぎる。眼鏡ってそういうものだろ?」
「お客様、不愉快でございます」
「その声は――姉貴!」
携帯から零れ落ちた声に俺は驚愕する。
決めポーズらしき格好を取りながら、妹がスマートフォンを突き出していた。
「夕食後にサービス開始なんだから、ちゃんと準備してるんでしょうね?」
「そんなことより強制的に眼鏡を外すなんてありえないだろ!」
「蓮、落ち着きなさい」
「こんなときに落ち着いていられるか!」
「いいから私の話を聞きなさい。蓮は適当に用意された眼鏡で満足するつもり? 誰もが羨望を向けるような眼鏡を導入してほしいという言葉は嘘だったのかしら?」
いつの日か姉貴に眼鏡の扱いを愚痴ったことがある。
アニメにしろゲームにしろ眼鏡は蔑まれてばかりだ。
どうして眼鏡をもっと魅力的に描いてくれない?
すると姉貴は「私が装備品担当になるまで待ちなさい」と穏やかに微笑んだ。
あの約束を憶えていてくれたのだろうか?
「嘘じゃない!」
「そう。安心したわ」
「ということは『ArchAngel/harem night』の眼鏡は?」
「期待しなさい。ただし優秀な装備品の生産は大変よ?」
「望むところだ。世界中に俺の眼鏡を広めてみせる」
「楽しみにしているわ」
そこで通信が切れた。
俺は改めて後輩女子を見やる。
「聞いての通りだ。やっぱり天音は眼鏡をかけてこそだからな」
「そうなんですか?」
「ああ――むしろ眼鏡しか似合わない。眼鏡をかけてない天音なんて残念過ぎる」
「お兄ちゃん……それもう褒め言葉になってないよ?」
午後八時半。
がっつり食事をしていた俺は、二人に遅れること三十分、ようやく食堂から部屋へ戻る。すでにウェットスーツ姿の妹と後輩がベッドで雑談をしていた。
「遅いよ、お兄ちゃん」
「先にシャワーを浴びてきたらどうですか?」
サービス開始まで残り三十分。
夜中に入ることを考えれば、先に済ませておくべきだろう。
「二人はもう済ませたのか?」
「当然だよ。いつ寝落ちするかわからないからね」
「莉紗ちゃんと一緒にシャワーを浴びました」
「はいはい。それじゃあ、俺も先に済ませておくよ」
とりあえず脱衣所へ向かう。
セパレードタイプの風呂は、高級感たっぷりの仕様だった。
湯を張ると時間がかかるので、本日はシャワーだけにしておく。
事前に持ち込んでいたウェットスーツに着替えて室内へ戻る。
髪を乾かしながらリクライニングシートに座りVR機を立ち上げた。
莉紗と天音もそれぞれの準備を始めている。
やがて時計の針が午後九時を指し示した。
緊張感の高まる中、俺はバイザーを下げる。
刹那――真っ白な部屋の中で意識が覚醒した。
正方形の中心に一人の少女が佇んでいる。妹と後輩にレクチャーを受けていたので、この状況に対しての驚きはまったくない。この少女が話に聞いていたGMなのだろう。
「名前を入力してください」
ゲームマスターは淡々と手続きを進める。
仕様なのか全身が陽炎のように揺らめいていた。
手元に出現した画面を操作し、本名の「レン」と入力する。しかし「その名前は使用できません」と切り返された。どうやらほかの誰かに選ばれてしまったらしい。仕方なく「REN」に変更すると受け付けてくれた。
「掲示板使用名を入力してください」
この世界には情報交換用の掲示板が用意されている。
書き込みを活性化させる投稿者の匿名性と、自作自演を防止する記名性を天秤にかけた結果、その折衷案として採用されたのがこの方式だ。
こちらはネットで使い慣れている「グラスホッパー」と入力した。
あっさりと許可されて次に進む。
「タイプを選択してください」
【タイプA】
STR 10 DEX 10 VIT 10 AGI 10 INT 10 MND 10 CHR 10
【タイプB】
STR 15 DEX 10 VIT 15 AGI 5 INT 5 MND 5 CHR 15
【タイプC】
STR 10 DEX 15 VIT 5 AGI 15 INT 10 MND 5 CHR 10
【タイプD】
STR 5 DEX 10 VIT 5 AGI 10 INT 15 MND 15 CHR 10
【タイプE】
STR 5 DEX 5 VIT 5 AGI 15 INT 10 MND 15 CHR 15
画面に五種類のタイプが表示された。
いわゆる汎用タイプであるAを除けば、それぞれに有利不利な職業が存在する。
大別すればBとCは前衛、DとEは後衛向けらしい。普通なら目指す職業に合わせてタイプを選択するわけだが、所属ギルドの都合で複数の職業を使い分けることも多いため、中途半端とされがちな汎用タイプが意外にも人気らしい。
王道を外すならタイプA以外だが、果たしてどうしたものだろうか?
無作為に選択して後悔するのは嫌だからな。というのも生産職として生計を立てるつもりでも、金策や素材集め、特に序盤は魔物との戦闘を避けられないらしい。そう考えると低レベル帯のソロが強そうなBやCだろうか?
ちなみに妹はタイプDで魔術士の上級職を目指すらしい。
考えても埒が明かないので、瞳を閉じて適当に選択する。
どこからともなく詩を奏でるような声が響いてきた。
七つの大罪は七つの美徳で滅せよ!
「傲慢」には「忠実」を。
「嫉妬」には「貞節」を。
「憤怒」には「勇気」を。
「怠惰」には「希望」を。
「強欲」には「慎重」を。
「暴食」には「知恵」を。
「色欲」には「愛」を。
「ようこそ冒険の世界『ヴァルハラ』へ」
ゲームマスターの少女は両手を広げた。
次の瞬間――世界が変化する。
時刻は現実に合わせているらしく、夜空には綺麗な月が浮かんでいた。
初期位置となる都市の広場は、まるで縁日のような風情である。
ここが冒険の世界「ヴァルハラ」なのか?
俺は歓喜と喧騒に包まれた周辺を見回す。
格好こそ初期装備で統一されているが、参加者の背丈や年齢は千差万別である。
「ここ穴場じゃなかったのかよ?」
「鉱山都市でこれなら魔術系の都市はやばくないか?」
「不人気都市狙いが集中しただけかもしれない」
「確かにMMO慣れしてる奴なら、初動の重要性を知ってるからな」
「うーん……これは低レベル帯を狩場独占で駆け抜ける案は失敗だね」
「ともあれ善は急げだな」
仮想現実の風景を楽しむこともなく、早々と狩場を目指す者が続出する。
俺も雑踏の中を進んでいく。最初に向かうべき場所は決まっていた。