008
帝都アラバストの南西に広がる砂漠地帯。
大地は見渡す限り赤い砂に覆われている。一陣の風が吹くだけで視界は完全な朱に染まるだろう。一部の生命体しか生息できない不毛地帯である。
そんな砂漠の中を俺は無我夢中で駆け巡っていた。一歩踏み出す度にレギンスが赤い大地に飲み込まれていく。目標と遭遇してから数分しか経っていないのに息が上がり始めていた。どうやら砂地での激走は想像以上に体力の消耗が激しいらしい。
「砂中から引き摺り出さない限り勝ち目はないにゃ!」
「そんなことは言われなくてもわかってるよ!」
俺はハシュシュの助言に文句を返しながら後方を振り返った。
赤い砂を舞い上がらせながら標的が地中を猛進してくる。
ぎりぎりのタイミングを見計らって俺は迫る砂塵を横っ飛びで回避した。
その流れで前方へ一回転して素早く起き上がる。右手に構えた魔弾銃を砂中へ向けて発砲。着弾と同時に封入された風属性魔術が発動する。
刹那――巨大な砂柱が天へ向かって舞い上がった。
俺は撃ち終えた魔弾銃から空薬莢を排出し、魔術の詰め込まれた魔弾を新たに装填する。遊底を引いて魔弾を薬室へ送り込みながら周辺への警戒を強めた。
不意に近場の赤い大地が大きく盛り上がる。その中から獲物を丸飲みにしようとする巨大な口と、無数の牙を有した巨大砂蚯蚓の頭部が姿を現した。粘着力の強そうな涎を滴らせながらこちらに敵意を向けてくる。
「ひゅう~」
口笛を吹けないのかハシュシュはそれっぽい声で発音する。無言で座っていたら絵になる美貌なだけに残念だ。俺は魔弾銃を構え直して巨大砂蚯蚓と対峙する。いきなり襲いかからず様子を窺っているのは、魔物にも本能的な警戒心があるからだろう。
いや、正確に表現するなら「本能的な警戒心」が設定されているからだ。
とりあえず先手を取るべきかもしれないな。
そう考えた矢先にハシュシュが先制攻撃を仕掛けた。
両手に構えた火炎瓶のような物体をそれぞれ投擲する。
着弾と同時に炸裂して、苛烈な炎を巻き上げた。
好機と判断した俺は魔弾銃を発砲する。
中空で展開した風属性魔術<エアギア>が、炎と連携して紅蓮の火柱を錬成した。
巨大砂蚯蚓の醜悪な容貌を渦巻いた灼熱の炎が焼き払う。
「ブォオオオオオオオオオオーッ!」
大地を震わせるような咆哮を発しながら巨大砂蚯蚓は砂中に潜り込む。
消火目的か怒りで我を見失ったのか判然としない。
俺は神経を研ぎ澄ませて周囲の警戒に集中する。赤い砂を盛り上げて再び姿を現した巨大砂蚯蚓は、大きな口から粘着性の高そうな唾液を吐き出した。
「うおっ!」
今度は俺が悲鳴に近い声を発して逃げることになった。
単純に気持ち悪いだけならともかく、巨大砂蚯蚓の唾液には硫酸と似た性質がある。つまり水と混合すると超高熱を発生させるわけで、構成要素の七割が水分の人体にはかなり危険なのだ。実際の影響はHPの減少+スリップダメージらしいけどな。
さっきまで俺のいた場所に唾液が撒き散らされる。
攻撃を受けた際の回避判定は基本ステータス依存なのだが、発動の遅い特殊技は隙を見て攻撃範囲外へ逃げることが可能だ。魅了や石化系の特殊技は背中を向ければ回避できるし、ブレスや旋風のように方向や距離が限定されているものは、構えに入った瞬間に攻撃範囲外へ逃れることで避けられる。
しかしタイミングはかなりシビアなので、高いプレイヤースキルを求められてしまう。常に正面から魔物と対峙している盾役や、ソロに慣れている冒険者でなければ、反射的に避けるのは困難かもしれない。
俺は砂の上を横転しながら、アリアのいる方向を一瞥した。
そろそろ五発目のタクティカルポイントが蓄積された頃だろう。
小高い砂丘の上にエプロンドレス姿の天使が立っている。
銃を構えたアリアは単発七倍撃<ゲート・オブ・ヘブン>を放つ。豪奢な門扉が解き放たれるようなエフェクトが発生し、その向こう側からレイザーような弾丸が飛来してくる。命中の約束された遠隔攻撃が、巨大砂蚯蚓の頭部に着弾した。
本来なら絶対に倒せない魔物相手でも、天使の存在が状況を切り開いてくれる。
のこのこと砂漠を訪れる前に気付くべきだったのだ。帝都アラバストに冒険者がいない理由と、その結果から導き出される、圧倒的な場違い感とレベル不足である。
巨大砂蚯蚓は再び口内から唾液の塊を吐き出してきた。
超反応で横へ倒れ込んで液体を回避し、俺は伏せたまま魔弾銃の引き金に指をかける。絞り切る直前に赤い砂が盛り上がり銃口を撥ね上げられた。どうやら砂中に忍ばせていた尻尾を活用したらしい。強制的に遠隔攻撃をキャンセルされてしまう。
好機と判断したらしい巨大砂蚯蚓は赤色の砂を巻き上げながら距離を詰めてくる。
俺は舌打ちしながらも素早く身体を起こした。高い敵対心を維持するためにも、余計なダメージは受けたくない。標的は無数の牙が生えた大口を開いたまま襲いかかってくる。不意に傍らの猫耳NPCが大胆不敵な笑みを浮かべた。
「にゃっはっはーっ! これでも食らうにゃ!」
ハシュシュは帯革に提げた手榴弾を巨大砂蚯蚓の口中へ向けて投擲する。
おそらく魔物のHPを一定まで削れば、NPCが止めを刺す仕組みだったのだろう。
刹那――派手な爆裂音を響かせて巨大砂蚯蚓の頭部が吹き飛んだ。周辺に気持ちの悪い肉片と体液を撒き散らし、指揮系統を失った胴体は、鈍い音を立てながら砂上へ崩れ落ちていく。舞い上がった赤い粉塵が心なしか俺を祝福しているように見えた。
「ふーっ!」
盛大に息を吐いて俺はその場に座り込んだ。
標的を敵対心を維持しながら逃げ回り、矛役をアリアに任せる作戦だったが、なかなかどうして難しいものである。ただ逃げるだけと侮っていた部分があるのかもしれない。とはいえ咄嗟に考え付いた方法で難敵を倒したことは、自画自賛しても許される大金星ではないだろうか? しかし後々に知った話では、これはマラソンと呼ばれる、MMOでは当然の戦術らしい。
勝利を収めたハシュシュが歩み寄ってくる。
手には淡い緋色の光を放つ見たこともない鉱石を持っていた。
やれやれという風に嘆息を漏らしながら猫耳NPCは肩を竦める。
猫系獣人族特有の褐色肌としなやかな肉体美が年齢不詳に拍車をかけていた。
「約束通り師匠になってやるにゃよ。ただし授業料は別途頂くから覚悟するにゃ!」
「いくら払えばいいんだ?」
「うーん……初回は無料でいいにゃ!」
「適当だな」
俺は師匠の無計画さに憮然としてしまう。
テンションが異様に高いのは、鉱石を入手したからだろうか?
なんにせよ新たな特殊生産技術を修得できそうな流れは悪くない。
戦闘を終えたことでアリアもこちらへ歩いてくる。
今回一番の功労者である天使に、俺は「ありがとうな」と声をかけた。しかし次の瞬間――遠くから轟音が聞こえてくる。鉱山都市や神都イージスのような街中なら気にも留めないが、この見渡す限り赤い砂に覆われた砂漠地帯ではそうもいかない。
「なんだ今の音は?」
「ひょっとすると砂漠の主かもしれないにゃ!」
「砂漠の主?」
俺の疑問を無視してハシュシュは額に手を当て遠くを見やる。尻尾が上に向かって伸びているので相当興奮しているのだろう。なんとなく師匠の眺めている方向へ視線を移しておく。視界の果てまで赤い砂が広がっていた。
再び遠くで轟音が響いた。
ぴくぴくと耳を動かしながらハシュシュは「間違いないにゃ」と告げる。
「だから砂漠の主ってなんだよ?」
「永遠を象徴する円環の大蛇――ウロボロスにゃよ」
全長五十メートルを超える巨大な砂蛇だ。
誰かと戦い討伐されたという伝承を持たない稀有な魔物らしい。
簡潔に説明を終えたハシュシュは真剣な面持ちで前方へ視線を戻した。
大地を突き上げて巨大な体躯が空へ舞い上がる。緩やかな放物線を描いて再び大地へ落下するとウロボロスは赤い砂を巻き上げた。まるで海を泳ぐ魚のように砂漠を進んでいく。数秒の間隔を空けて優雅な跳躍を繰り返していた。
「おいおい……なんだあれは?」
目の前で繰り広げられる光景を眺めながら俺は呆然と感想を吐露していた。
傍らのアリアも言葉を失っているが、これはいつもの無口無表情だろう。
やがてハシュシュが怪訝そうな表情を浮かべた。
「交戦中かもしれないにゃ」
「それらしい冒険者は見当たらないぞ?」
俺は語尾の所為で緊張感の欠片もない師匠に聞き返した。
実際、現時点で砂漠地帯の魔物と戦える冒険者は皆無だろう。
「フォオオオオオオオオオオン!」
砂中から顔を出したウロボロスが咆哮する。
頭部には硝子の紅玉を填め込んだような伽藍とした瞳があった。
こちらへ向かっているのか次第に轟音が大きくなってくる。
「早く死んだ演技をするにゃ! 今から逃げても手遅れだにゃ!」
そう言い残してハシュシュは事切れたように赤い大地へ突っ伏した。
おそらくこれもクエストの一環なのだろうが、映像が流れたり選択肢が表示されるわけではないので、その判別は通常のゲームに比べて困難を極める。ともあれ師匠の奇怪な行動を楽しんでいる場合ではなさそうだった。
「フォオオオオオオオオオオン!」
赤い砂を巻き上げながらウロボロスは再び咆哮する。
俺はアリアと一緒に赤い大地に突っ伏した。通り過ぎるときに大量の砂を被せられたが、俺たち三人は無事に砂漠の主をやり過ごす。どうも「ハシュシュ再び」に続くクエストは発生しておらず、一連の流れがどう繋がるのか結局わからないままだった。
起き上がったハシュシュはトレードウィンドウを開いて巻物を渡してくる。
「しっかり精進するにゃ」
「おう! 待ってろよ俺の知らない眼鏡たち!」
早速、俺は巻物を使用した。
派手な効果音と一緒に「RENは【特殊生産技術Ⅱ】を修得しました」の文字が流れる。なんだろう、この虚無感。確かに地味な修行を三年こなして修得とかは面倒だが、こうも簡単だと達成感というか成し遂げた気がしない。




