湯西川にて(前)
湯西川温泉は、
栃木県日光市(旧栗山村)の、日光国立公園内にある温泉地です。
温泉名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに、
約500mにわたって旅館や民家などが立ち並んでいます
▼12月17日(土)
短編『湯西川にて』
(1)中卒の清ちゃんは、
湯西川温泉は、
栃木県日光市(旧栗山村)の、日光国立公園内にある温泉地です。
温泉名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに、
約500mにわたって旅館や民家などが立ち並んでいます。
ほとんどの旅館では、
この渓谷に面した露天風呂が設置されています。
此処から見下ろす四季の絶景が、おおくの旅人の心を癒します。
郷土料理は季節により、湯西川で捕れるイワナやヤマメ、ニジマスなどの川魚、
山菜や舞茸、チタケ(チチタケ)と呼ばれるのキノコ類などの山の幸が味わえます。
また旅館によっては、野鳥や鹿、熊、山椒魚といった、
珍しい郷土料理なども堪能できます。
「ばんだいもち」という、うるち米でついた餅を
「ばんだい汁」や「じんごろう味噌」などで食べる郷土料理も有名です。
温泉街の飲食店では、手打ちの「日光そば」も味わえます。
旅館街から少し上流には、
昔は茅葺き屋根の民家を利用した土産物屋や食事処が
河畔の遊歩道沿いに並んでいて、それらも温泉街の一部を形成していました。
湯西川の先祖は、平忠実が落ち延びたとされています。
平家の落人伝説が今でも残る集落としてもよく知られています。
温泉の発祥は天正元年で、400余年の歴史を誇り、平家の
落人の子孫が発見したと伝わっています。
追討から逃れ、身を潜める山村生活を営み生きるために、
この地では今でも、端午の節句には鯉のぼりを揚げないといわれています。
たき火をしない(煙を立てない)、鶏を飼わないなどの
独自の風習が、長年にわたって残されてきました。
鬼怒川温泉の奥座敷と称される
この湯西川温泉に、清ちゃんが芸者修業で訪れたのは
今から半世紀あまりも昔のことでした。
中学を卒業したばかりで、お下げ髪に赤いほっぺをしたこの女の子は、
当時、秘湯とされたこの温泉地にたった一人でやってきました。
しきたりと礼儀がひときわ厳しいと言われているこの世界で、
なおかつ、此処では一番怖いとも言われている、
現役芸者で置き屋を営むお春母さんのもとで、芸者修業を始めました。
中卒が「金の卵」と、世間ではもてはやされた時代です。
切れ長の涼しい目をしたお下げの小女の清ちゃんは、
15歳でセーラー服を脱ぎ棄てると、
ここ湯西川で、生まれて初めての着物を着ることになりました。
短編『湯西川にて』
(2)お春母さん
芸者の勤めとは、
舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添えて、
場を盛り上げ、各種の芸を披露することにあります。
座の取持ちを行う女子のことを指しています、
(かつては、太鼓持ちと呼ばれた男衆が芸者と呼ばれた時代もありました。)
通常は、宴席を設ける旅館にその旨を伝えると、
予算や希望に応じて、旅館側で芸者の手配をしてくれます
一人前の年長芸妓は、島田髷に引摺り、
詰袖(※)の着物に、水白粉による化粧というのが一般的です
(※「留袖」。 結婚後にそれまで着ていた振袖の袖を
短くしたことから生まれた名前で、別名を詰袖とも呼びます。)
三味線箱を男衆に持たせて、酒席へ赴むきます。
半玉(見習い)や舞妓などの年少の芸妓の衣装は、
髪形は桃割れの少女の髷で、肩上げをした振袖を着用します。
帯や帯結びも年長芸妓とは異なり、それらはそのまま風格をあらわしました。
芸者のお春は、今年で62歳になりました。
北関東にある湯西川温泉では、最年長となった芸者さんですが、
それでもお春には常にお座敷がかかります。
夕食時に、お客に酌をする若い芸者さんたちに混じることは絶対にありません。
お春が必要となるのは、夕食後の宴会の席でした。
この頃、この時代にはまだ、カラオケが流行っていませんでした。
宴会の席には鳴り物が必要となり、お春は三味線が弾けました。
この三味線の腕がたいそう重宝がられたのです。
なにしろお春は、14歳の時に、まだ中学を卒業もしないうちに
秋田から出てきて、江戸・深川の置屋で芸者の修業をしました。
以来50年近くも芸者生活一筋の人生です。
お春は自分でお座敷に出ると同時に、置屋も営んでいます。
置屋を営むと言っても、お春の配下の芸者はたったの一人で、
湯西川では一番人気の、「雪野」と言う芸妓だけです。
お春の所へは、いままでにも何人も芸者になろうとやってきました。
しかしお春は、年はとっていても、自分は本物の芸者だという誇りがあるために
「温泉芸者」を育てるつもりなどは毛頭もありません。
したがって、きわめて厳しい教え方になりました。
いまどきの若い人に、その厳しさはとても耐えられないものでした。
また本人も、本物の芸者になるつもりなどはサラサラないし、
着物を着て、かつらつけて仕事をしてみたい・・・・などと考える
軽い気持ちの現代っ子にはとうてい無理な世界でした。
ということもあり、誰がやってきても、
お春の下では長続きをしたためしが、まったくありません。
清ちゃんが、お春母さんを訪ねたのは、
昭和40年の早春でした。
清ちゃんは中学の卒業式を前にして、
すでに、芸者の道に足を踏み入れていたのです。
短編『湯西川にて』
(3)金木犀の香り
9月生まれの清ちゃんは、
金木犀の香りが大好きです。
初めて逢ったのも、濃い蒼空の下で金木犀が盛んに香りはじめた季節です。
小学校の3年生の時に、母子家庭の転校生として
同じクラスにやってきました。
その日のお昼休みと休み時間に、一人ぽっちのまま
金木犀の花をを見上げていた姿は、今でも鮮明に覚えています。
そんな清ちゃんに最初に声をかけたのは、私と幼馴染のレイコでした。
もうその日のうちの下校時に、二人が仲良く並んで帰って行った姿も、
なぜかまた、同じように記憶に残っています。
もの静かで切れ長の目をしたお下げ髪の少女は、
次の日からは、いつもレイコと行動を共にするようになりました。
運動が大好きで活発だったレイコにいつも数歩遅れながらも、
校庭を元気に駆け回っていた清ちゃんは、市内の山の手通りの女の子たちのグループの中に
いつのまにか溶け込んでいきました。
それから先の清ちゃんのことは、その存在は意識してはいたものの、
なぜか今になると、その時の映像が甦がえりません、
すべてが霧のかなたに、霞むように隠れてしまいました。
中学の修学旅行で、日光東照宮へ行ったとき、
艶やかな芸妓さんたちの一行とたまたますれ違ったことがありました。
初めて見た花柳界の粋な姿に、清ちゃんが強い衝撃を受けました。
この時の鮮烈な出会いがきっかけで、
清ちゃんは、そのまま即座に芸妓なろうと決めたようです。
幼馴染のレイコから、芸妓になるという清ちゃんの決意を聴かされたのは、
もう卒業式も真近になった2月の末でのことでした。
250名近い中学の卒業生の中で、
就職を決めたのは30名余りで、やっと1割を超えた程度でした。
レイコとは親しく遊んでいたいう記憶はあるものの、
中学時代の清ちゃんの面立ちや容姿も、この時もまた思い出せないままでした。
「お別れ会はどうするの?」とレイコに聞かれたときに、
何のこだわりも無く、即座に欠席を決めたことだけ少しだけ気にかかりました。
が、あらためて訂正する勇気もなく又その必要もないだろうと、
結局そのままにしてしまいました。
その清ちゃんと思いがけなく再会をしたのは、
それから5年ほど経った、市が主催した成人式の会場でした。
訪問着姿のレイコと談笑している、もう一人に眼がとまりました。
幼い頃の思い出の中で、かすかに見た覚えがある背中の雰囲気とともに
かすかにですが、金木犀の香りが漂ってきました。
閉ざされていた遠い過去へ、私の記憶がいっきに引き戻されてしまいました・・・
清ちゃん?
レイコに促されて、ゆるやかに女性が振り返りました。
切れ長の清ちゃんの目もとには、乙女をはるかに凌駕する妖艶すぎる目の光と、
誘うような色香が、充分なほどに宿っていました。
短編『湯西川にて』
(4)「伴久ホテル」
栃木県日光市・湯西川温泉の老舗の一つ、
伴久ホテル(同市湯西川、伴久盛社長、資本金9千万円)が25日、
宇都宮地裁から破産手続き開始決定を受けていたことがわかりました。
東日本大震災の影響で客足が途絶えたことが、
破綻の引き金になったとみられています。
東京商工リサーチ宇都宮支店によると、負債総額は約30億円です。
同ホテルは全109室、550人収容。
従業員はパートを含め約70人。
江戸時代の1718年創業とされ、
1934年に現在のような温泉旅館の形になりました。
平家落人の里として知られる湯西川温泉でも高級ホテルとして人気があり、
96年2月期には20億円台を売り上げました。
しかし、不況の長期化とリーマン・ショック以降の経済低迷で売り上げは減少。
同支店によると、14億円前後で推移してきた年商は
2009年2月期に11億円台に落ち込みました。
10年2月期も9億8千万円まで減り、7億円を超える赤字を計上しました。
過去の設備投資のための借り入れが,経営を圧迫していたといいます。
さらに、3月11日に発生した東日本大震災で予約のキャンセルが相次ぎ、
計画停電の影響もあって従業員によると同月13日以降は
営業を休止していたといいます。
同ホテルの伴久一会長は、地域の旅館やホテル17軒でつくる
湯西川温泉旅館組合の組合長を務めています。
震災を受けて風評被害を防ぐPR活動に参加し、福島県からの避難者らを招いて
宇都宮市内で開かれた花見の会に温泉の湯を贈るなどしてきました。
同組合の伴弘美副組合長は
「連休に向けて予約状況は改善してきたところなのに、
突然でびっくりした」と話しています。
【朝日新聞 - ?2011年4月27日】より、抜粋
震災後に発覚した、たいへん衝撃的なニュースです。
高度経済成長と観光ブームに乗って躍進を遂げた、この伴久ホテルの板場(厨房)に
就職したのは、昭和46年の初夏のことで清ちゃんと再会した成人式からは
わずか半年後のことでした。
当時の板場では、10人以上の板前たちが板長のお品書きと指示のもとに、
毎日その腕をふるっています。
調理師学校を卒業したとはいえ、観光ホテルの板場では、
問答無用とばかり、新米の板前見習いとして扱われます。
朝は3時ごろから起こされて、前日からの仕込み作業を整えてから、
その日に使う野菜や、魚の下ごしらえがはじまります。
「本当に来たんですねぇ〜、
そこの(板前の)新人さ〜ん。」
ホテルの裏手にある通用門のところで、
日傘をさして浴衣姿の清ちゃんに、やんわりと呼び止められました。
いつもの切れ長の目に、大きな黒い瞳が
いつもよりも悪戯っぽく笑っていたように見えました。
「お前が、成人式の時に、
調理学校を卒業したら、伴久へ来いって誘っただろう。
それを真に受けてわざわざこんな辺鄙なところまでやってきたんだ。
それでも、迷惑かい?」
「あら、嬉しい。
でも、言ったのかしら、そんなこと?
(わたしの口は、軽すぎるのかしら・・・)
でもさ、観光ホテルなら板前修業の王道だもの。
早く登竜門を駆け上がって、
一人前の華板さんに仕上がってくださいね。」
それだけ言うと清ちゃんは、浴衣の裾を翻し、
黒髪から香る石鹸の良い匂いだけを残して、くるりと背中を向けてしまいます。
しゃなりと歩くと、本家・伴久のある「かずら橋」へ消えてしまいました。
その後に、清ちゃんと再び行き会ったのは、
仕事を終えて、寮へと戻りかけた時の「かずら橋」でした。
ライトアップされた川辺を見回した後、なにげなく覗きこんだ橋のたもとに、
遊歩道を少し千鳥足で歩く芸妓姿の清ちゃんを見つけました。
川面の暗い流れの中に、清ちゃんの白い顔だけが浮かび上がっています。
声をかけると、降りて来いと手招きをしました。
降りて行くと、呑みすぎて苦しいから帯を緩めると言い出しました。
袖脇から両の手を突っこむと、折りたたんだタオルを2枚、
ヒョイと取り出してみせました。
「わたしって、見かけ以上にスレンダーなのよ。
寸胴体型にしてあげないと、着物のおさまりが悪いの。
別に酔っ払いの介抱をお願いしたいわけではありません。
呼んだのは、別の用事です。
はい、これ、
休みの時に来て頂戴。」
帯の間から取り出した、薄い封筒を手渡されました。
「お春お母さんところのお礼奉公も、
5年目の今日で、ようやく無事に終えました。
本日よりは晴れて、通いの芸者になりました。
少し離れてはいますが、今市の静かな処に、
アパートなども借りました。
それには・・・・住所も地図も、鍵も入れておきました。
暇な時にだけ来て頂戴。
用事はそれだけです、じゃあ、またね。」
「おい・・・」
と、呼び止めると、
「売れっ子芸者は、お仕事場のお膝元などには住みません。
第一、周りの見る目が五月蠅すぎるもの・・・・
嫌なら、いいのよ、
来なくても! 」
短編『湯西川にて』
(5)二度目のお誘い
平成に入った湯西川温泉では、真冬用の新しいイベントが始まりました。
「光輝く氷のぼんぼりと、かまくら祭」です。
今市市から鬼怒川温泉の周辺までなら、それほどの降雪はありません。
しかし、その先へすすむ奥鬼怒の湯西川への山道は、進むにつれて
雪の量が増えやがて山肌を真っ白に閉ざしてしまいます。
多い冬には、1mを越えてしまいます。
北越地方の「かまくら」を真似た冬の遊びかたが、
昔から伝えられてきましたが、近年になってからそれの観光化がされました。
幻想的にライトアップされた氷柱と、淡いぼんぼりの揺らめきが、
冬の湯西川の新しい風物詩へと生まれ変わりました。
昭和40年代後半の湯西川温泉には、
気軽に山間の雪景色と温泉の風情が楽しめると有って、
団体客やグループ客が、わざわざ積雪の時期を狙って集まってきました。
雪道を走るとはいえ、30分ほどの山道を走り抜けるだけで、
もう、湯けむりに包まれて雪景色の中にたたずむ秘湯に到着をするのです。
お正月も開けて、7日目の夜のことでした。
清ちゃんと同じ年ということで、顔なじみにもなった仲居さんに、
『ちょっと』と廊下に呼び出されました。
午後の9時を過ぎたばかりですが、館内には団体客が3組あるだけでした。
宴席料理を仕上げた厨房では、半分以上の板前さんが既に帰り仕度をはじめています。
宴席の洗いものなどは、すべてアルバイト達に任されていました。
雪が小止みになった様子を確認してから、
傘を使わずに寮まで帰ろうとした、その矢先でのことでした。
「松雪姉さんからです。」
それだけ言うと、小さく折りたたんだ紙切れを
私の手の中に押し込んで、何事もなかったような顔をして、
足早に立ち去ってしまいます。
松雪は、清ちゃんの芸妓名です
「至急の用件あり、本家・伴久まで、こられたし」とだけ書いてありました。
本家・伴久は、湯西川にかけられた「かずら橋」の先にある
200年以上の歴史を持った平家ゆかりの老舗旅館です。
この「かずら橋」には、平家の落人たちが、敵兵たちから逃れるために、
かずらを切って橋を落としたという古い言い伝えも残されています。
芸妓は、十二月から二月にかけては、
二枚重ね(にまいがさね)を着用します。
着物を二枚重ねて着るから「二枚重ね」と呼び、今のように暖房も発達していませんので、
防寒の意味も含めて、着物を重ねて着ていたようです
特にお正月は、元旦から松の内の間において、
黒紋付の二枚重ねを着用しました。
一般でいう留袖にあたり、芸妓さんの正装にもあたります。
松の内の間は、頭につける挿し物も特別なものに変わります
白い鳩が稲穂をくわえた形のかんざしと、その年の干支の挿し物を飾ります。
この鳩のかんざしのことを「とりこめ」(鳥と米)と呼び、
新年最初のお客さまや、好きな人に朱で目を入れていただくという
古くからの習わしがありました。
なお、三月から五月にかけては、袷の着物に変わります。
これを二枚重ねに対して「一枚着」と呼んでいます。
さらに五月から六月にかけては、単に変わり、
二枚重ねや、一枚着の裾にあった「ふき」が、単の着物からはなくなります。
「ふき」というのは、裾の周縁のぐるりを、裏地を表に返して綿を入れた部分のことです。
裾がきれいに広がるように、重しの役目を果たすともいわれています。
六月から九月までが、絽の着物の季節です。
そして再び、九月から単にかわり、十月からは一枚着になります。
芸妓さんは季節にあわせて、頭の挿し物や、着物の柄が変わります。
「松飾りがあるうちに、来てくれると信じて居たのに、
待てど暮らせど、あんたは来やしない。
待ちくたびれて、今日ですでに7日です。
(今年の鳩は、いまだに目が明かないままなのよ、どうすんのさ。)
悔しいったらありゃしない・・・この、とうへんぼく。」
「急用かい?」
と、問いかけたこちらの顔を見もせずに、
さっさと立ち上がった清ちゃんは、フロントへ飛んでいってしまいました。
本家・伴久の若女将に、丁寧な帰りの挨拶を始めています。
お春母さんの三味線の弟子でもあるこの若女将は、
芸妓の清ちゃんが、実は大のお気に入りでした。
温泉街のイベントやお祭りのたびに、仲良く寄り添うこの二人の姿は
共に艶やかさを競い写真写りなども良いために、度々温泉街のポスターにも登場をしました。
さわやかな笑顔を見せるこの二人は、湯西川の『顔』でした。
「雪道になってしまいましたねぇ。
この時間になりますと、道が凍りはじめているかもしれません。
どうぞ充分に、お足元にもお気をつけて。」
にこやかに若女将に見送られて、駐車場まで出ると、
清ちゃんが一台の新車を指さしました。
驚いたことに、それは昨年アフリカで開催されたモーター・ラリーで
初優勝を飾ったという、国産メーカーのスポーツタイプのセダンでした。
「へぇ〜、
売れっ子芸者は、車も実に派手だねぇ・・・・
で、どうするのさ、これからサファリにでも
遠征に行くわけ?」
「さんざん待たせた罰として、
運転して頂戴な。」
「罰?
別に、心当たりは無いけれど、」
「そうなんだ・・・
ふう〜ん。
松の内がもう、今日で終わるというのに、
今年の私のかんざしはいまだに、目が開かないままなのよ。
小春お母さんには、たっぷりと絞られたし、
若女将にも、意地を張るのも、もういい加減にしなさいと、
ついさっきまで、お説教をされてしまいました。
みんな喜んで目を入れてくれるのに、
あんただけだわよ、
7日間もあたしのかんざしをほったらかしておくなんて・・・・
一体、どうしてくれんのさぁ、
もう、泣きたくなってきちゃったなぁ、
あたい。」
黙って清ちゃんから鍵を受け取り、
運転席に座ると、エンジンをかけました。
小気味良い振動と共に、軽いエンジン音が響き渡ります。
黒紋付に着いた雪片をはらりと払って、
ふくれて尖ったままの清ちゃんが、助手席へと滑り込んできました。
さて、行く先は・・・