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午後9時の骨董店  作者: ときわあおい
泥に沈む秒針
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泥に沈む秒針4

 視界が歪み、琥珀色の静寂が剥がれ落ちる。

 次の瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの轟音が兄の全身を叩いた。


 コンクリートが砕け、鉄骨が軋み、巨大な獣の断末魔のような地鳴りが廃ビルに響き渡る。

 視界は舞い上がる粉塵で白く濁り、鼻腔を突くのは死を予感させる冷たい土の匂いだ。


「兄ちゃん、助けて!」


 足元から聞こえる、あの日と同じ叫び。

 瓦礫の隙間に半身を挟まれ、泥と涙で顔を汚した弟が、必死に右手を伸ばしている。


 あの日、自分はここでただ逃げた。

 頭上から降り注ぐ瓦礫の雨に、生存の本能が牙を剥き、差し出されたその手を泥として振り払ったのだ。


「――っ!」


 兄は躊躇わなかった。

 今度は、自分の足元が崩れゆく恐怖よりも速く、身を乗り出した。

 伸ばされた弟の小さな手を、今度は片手ではなく、両手で力任せに掴み取った。


 ズルリ、という嫌な泥の感触が掌に伝わる。

 けれど、兄はその滑りすら許さないほど、指の骨が軋むほどに強く、弟の手を握りしめた。


「大丈夫だ、離さない。絶対に!」


 弟を強引に自分の方へと引き寄せ、安全な柱の影へと突き飛ばす。

 その刹那、兄の頭上で巨大な天井の塊が、重力に従って落ちてきた。

 まるで断罪のように。


 視界が急速に狭まっていく。

 暗転する意識の底で、兄の掌には、確かに泥ではない、確かな温もりが残っていた。

 握りしめていた懐中時計が、彼の胸元でカチリと一度だけ、重い音を立てて止まった。


 逃げ遅れた兄の肉体は、無慈悲な瓦礫の重みの下に沈み込み、やがて生物学的な活動を停止した。

 九時を告げる鐘の音さえ届かない、暗い土の下で。


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