泥に沈む秒針3
どうして「9時」なのか、お分かりいただけましたでしょうか。
2つの観点から「9」という数を選びました。
想像してくださると幸いです。
店主はようやく作業台から立ち上がると、無数の鍵が吊るされた壁際へと歩み寄った。
彼の足音は、厚い絨毯に吸い込まれるようにして響かない。
「ここを訪れた人間には、一度だけ、その『未完の地点』へ戻る権利があります」
店主は、棚の奥から一つの包みを取り出し、兄の目の前——カウンターへと置きました。
「あの日、あの崩落の瞬間に戻りましょう。あなたが弟さんの手を握り直し、運命を変えるのです」
兄は、息を呑んでその言葉を聞いていた。
____あまりに非現実的で、突拍子もない提案だ。
でも、この店主の瞳を見ていると、それが冗談ではないという確信だけが肌に刺さる。
「……その結果、あなたが死ぬことになっても、あるいはもっと残酷な未来が待っていても、私は一切関与しません。選ぶのは、あなたです」
兄は乾いた喉を鳴らし、必死に声を振り絞った。
「……対価は。何を、差し出せばよいのですか」
これだけの奇跡を、タダで受けられるはずがない。魂か、寿命か、あるいはもっと別の何かか。兄の問いに、店主は淡々と、首を横に振った。
「対価は不要です。……あなたが戻る決断をしたことを、後悔しませんように」
その言葉には、忠告も同情も含まれていない。ただ、事実を並べているだけ。
店主は包みを解き、中から一つの懐中時計を取り出した。
それは、兄がかつて見たこともないほど、無防備で異形な時計だった。
裏蓋はなく、精緻な歯車が、剥き出しのまま脈動するように動いている。
「これを持って戻りなさい。あなたは何を選び、どのような結末を迎えるか。そのすべてが、この時計に刻まれます」
店主はそれを、兄の方へと静かに滑らせた。鈍い銀色を放つ時計。
兄は、震える指先を伸ばし、その冷たい金属に触れた。
その刹那。
店内の隅に置かれた巨大な古時計が、重低音で「ゴーン」と一度だけ鳴り響いた。
九時一分を知らせる音ではない、九時の、やり直しの合図だ。
突如として、店の壁が紙のように剥がれ落ち、琥珀色の光が黒い霧に飲み込まれていった。
足元の床が抜け落ちるような感覚。
そして——鼻腔を突くのは、あの日の、あの、カビ臭い土と湿った瓦礫の匂いだった。
作者の意図とは違いますが、この骨董店の店主さんならこう言うでしょう。
「9時ですね。一日の大半は終わりました。取り返しのつかないことを悔やむには、一番適した、残酷な時間だと思いませんか?」




