泥に沈む秒針2
店主の言葉が彼の鼓膜に触れた瞬間、店内の時計の音が遠のき、代わりに重苦しい土砂の崩落音が脳裏にせり上がってきた。
「泥、なんて……」
彼が否定しようと自分の手を見つめ直したとき、視界が歪んだ。
雨に濡れているだけのはずの指先が、にわかに熱を持ち、ひどく重く感じられる。
意識は、路地裏の湿った空気から、数年前のあの「九時」へと一気に引き戻された。
視界を埋め尽くすのは、埃と死の匂いが混じり合った、廃ビルの暗闇。
足元から響く不気味な地鳴り。
そして、目の前で瓦礫に足を挟まれ、顔を泥だらけにして泣き叫んでいる弟の姿。
「兄ちゃん、助けて、痛いよ!」
弟の小さな、泥に汚れた手が、彼のシャツの裾を掴んでいた。
しかし、頭上から降り注ぐコンクリートの破片と、建物全体が崩壊していく轟音が、兄の理性を焼き切ったのだ。
____死にたくない。
その本能的な恐怖が、兄の腕を動かした。
掴んでいた弟の、泥だらけの手を——。
握り返すのではなく、力任せに振り払った。
その瞬間の、ズルリ、という嫌な感触。
指先に残ったのは、弟の温もりではなく、冷たく湿った「泥」の感触だけ。
暗闇に消えていく弟の絶叫が、今も耳の奥で鳴り止まない。
「……っは」
彼は突然、現実の骨董店に引き戻された。
心臓の鼓動がうるさいほどに打っている。
改めて自分の手を見ると、やはりそこには何もついていない。なのに、店主の言う通り、指先にはあの日の冷たい泥の感触が呪いのようにこびりついていて。
_____離れない。
「お心当たりが、あったようですね」
店主は、感情の読み取れない声で、再びピンセットを手に取った。
「ここは、ひどく後悔している人間が、9時に路地裏を曲がった時にだけ現れる場所。……そして、あなたのその泥を落とす機会を、提供する場所です」




