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雨とマルコポーロ――恋が香る夜に  作者: tommynya


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8/10

第8話 雨の匂いと香らない薔薇

 

 雨の匂いが鼻を突く。湿った空気が肺に入り込んで、息苦しい。


 あの時の乃亜の唇の感触が、まだ消えない。壁に押し付けられた時の彼の体温も、手首を掴まれた時の力強さも。全部が頭の中でリピートされ続けている。


 キスをしてから三日。乃亜からのメッセージはない。


 あの日、乃亜から送られてきた「まだ怒ってる?」「俺も悪かった」のメッセージ。

 既読をつけたままの状態で止まっている。俺からは何も送っていないし、彼からのメッセージはない。文字を打っては消し、打っては消しを繰り返して、結局何も送れていない。


 何を書けばいいのか本当にわからなくて。「元気?」なんて軽すぎるし、「あの時のことについて話そう」なんて重すぎる。適切な言葉が見つからず、画面を閉じてしまう。


 大学の中庭で、遠くに乃亜の姿が見えた。モデル仲間らしき華やかな連中に囲まれて、いつも通り笑っている。その笑顔は相変わらず完璧で、あの夜のことなど何もなかったかのようだった。


 風が吹いて、乃亜の髪がふわりと舞う。光に透けてブロンドのように見える。その仕草ひとつひとつが絵になって、周りの人たちも魅了されているのがわかる。俺とは住む世界が違うんだと、改めて思い知らされる。


 あの夜、あんなふうにキスしてきたくせに、何も言わずにあんな顔で笑ってるの、ずるいだろ。俺だけが気にしてるみたいで、なんか腹立つ。


「おーい、長谷川!」


 森田先輩が声をかけてくる。俺はうわの空で振り返る。


「今度のプレゼン、資料まとめるの手伝ってくれる?長谷川の分析力、結構頼りにしてるんだよね」


「あ……はい」


 適当に返事をしながら、また乃亜の方に視線を向けると、彼がこちらを見ていて一瞬だけ目が合う。軽く微笑んでくれたような気がする。でも、すぐ視線を外されてしまう。


 その微笑みは、今は見たくない。愛想笑いみたいな偽物みたいだ。

 一見、自然で変わらない態度。俺だけが、こんなに頭の中ぐちゃぐちゃで、混乱していて惨めだ。


「長谷川?聞いてる?」


 森田先輩の声で我に返る。


「すみません。ちょっと考え事をしていて」


「今日元気ないな。さては、就活うまくいってない?」


 心配してくれる先輩の優しさが、今は重い。


「まあ、そんなところです」


 本当のことは言えない。就活の不安より、乃亜との関係の方がよっぽど俺を苦しめているということを。


 ◇


 四日目の夕方。雲が厚く垂れ込めて、今にも雨が降り出しそうな積乱雲が広がっている。風が生暖かくて湿度が高い。不快感を増長させる空気だ。


 講義を終えて図書館で過ごしたが、集中できない。参考書のページをめくっても、文字が頭に入ってこない。気がつくと、乃亜のことばかり考えてしまっている。


 あのキスは何だったんだろう。もう四日経つのに、乃亜と会話することさえできない。もう……俺の事なんて、どうでもよくなったのかな? なんてネガティブな事ばかり考えてしまう。


 本当の乃亜の想いを知りたい。でも、会えない辛さの方が勝ってしまう。俺は勇気を出して乃亜に会いに行こうと決心し、図書館を出る。


 そして、足は自然にサロン「Minuit」へ向かう。


 扉を押すと、いつものドアベルの鈴の音。乃亜はカウンターの奥で、紅茶の茶葉を濃紺の紅茶缶に移し入れていた。顔を上げると、驚いたような、困ったような表情を浮かべている。


 一瞬、ほっとしたような表情も混じっているように見えたが、すぐに普段の穏やかな顔に戻る。


「ひさしぶり……元気だった?」


「……普通」


 会話じゃなくて、様子を探るみたいな声だった。普段より少しだけ優しくて、それが逆に距離を感じさせる。


 店内は静かで、他に客はいない。街灯の灯りが窓から差し込み、いつもより落ち着いた雰囲気だ。でも、その静けさが俺たちの間の気まずさを強調している。


「今日は……何にする?」


「おまかせで」


 短い会話の後、沈黙が流れる。


 乃亜は棚を見上げて、しばらく迷っているようだった。普段なら即座に茶葉を選ぶのに、今日は違う。指先で缶を軽く叩いたり、ラベルを確認したり、落ち着きがない。


 乃亜が選んだのは、|La Vie en Roseラヴィアンローズ、「バラ色の人生」。これは俺でも知っているフランス語だ。


「薔薇の紅茶か……珍しいね」


「たまには、こういうのもいいかなと思って」


 |Mariage Frères 《マリアージュ・フレール》らしい華やかなお茶だ。

 でも、この「バラ色の人生」は、今の俺たちにとって、1番遠い場所にある言葉だった。


 乃亜の声は小さい。ティーポットからカップに注ぐ手つきも、普段より慎重で、まるで儀式のような丁寧さがある。

 カップが目の前に置かれると、薔薇の甘い香りとハーブの爽やかさが混じり合って、確かに美しい。でも一口飲むと、味が薄い。儚いほどに淡くて、舌に残るものが殆どない。


 いつもだと、お湯を注ぐと、華やかな香りが立ち上がるのに、味が遠い。舌が、それを拾ってくれない感じ。


「俺、どうしちゃったんだろ……」


 まるで、俺たちの関係みたいだ。見た目も香りも優しすぎるのに、本音がどこにもない。


「……味、しない」


 乃亜の苦笑いが漏れる。


「乃亜が、何も言わないからかも」


 乃亜は何も言わずに、カップを拭く手を止めて、俺を見つめる。


 心理学では、これを「プルースト効果」と呼ぶ。匂いや味覚が記憶や感情と深く結びついている現象だ。

 嗅覚や味覚は、脳の感情を司る部分と直結している。だから心が不安定な時、香りを感じにくくなったり、味がわからなくなったりする。


 俺と乃亜の間にある曖昧さが、この美しい紅茶の香りさえも奪ってしまっている。

 いつものように優しい顔を装っているけれど、彼はどこか引いている。距離を置こうとしているんだと思う。


 会話がないまま、紅茶の微かな香りだけが空間に漂い、俺たちの間の気まずさを際立たせる。時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


 乃亜は以前のような柔らかさを演じているのに、心は完全に閉ざしている。それが余計に苛立たしい。どうして素直になれないんだろう。俺だって、こんな状況は初めてで、どうしていいかわからないのに。


 我慢できなくなって、苦言を漏らす。


「……キスして、何も言わないとか、どういうことだよ」


 声が荒くなってしまう。カップをソーサーにに置く音がガシャンと響く。


「あれは、ただの衝動だったのか?俺だけが、勝手に期待してバカみたいじゃん」


 乃亜は驚いたように目を見開いたが、声は相変わらず静かだった。


「……言ったら、壊れそうだったから」


「壊れるって、何が?」


「君がいなくなるのが怖かった。俺、そういうの、うまく言えないんだ」


 その答えに、胸の奥がざわつく。でも、それじゃ何もわからない。


「じゃあ、今みたいに黙ってるのが正解だったのかよ。俺がこんなにグチャグチャになってんのに、乃亜は何も言わないで……」


 悔しさで声が震える。涙がこぼれそうになって視線を逸らす。


「君の心境を聞くのが怖いんだよ」


 乃亜の声がかすれる。


「もし、俺の勘違いだったらって思うと……言えない」


「勘違いって……」


「君が俺のこと、そんなふうに思ってくれてるなんて、信じられないから」


 乃亜の手が震えていた。カウンターに置かれたクロスを、ぎゅっと握りしめている。


「でも、何も言わないのは卑怯だよ。俺だって理解できないよ、こんな状況じゃ」


 立ち上がる。もうこの空間にいるのが辛い。


「……もう帰る」


「待って」


 乃亜が困惑した表情でこちらを見ていた。


「俺……君に嫌われたくないんだ。だから、何も言えない」


「嫌われるって……別に嫌ってないし。嫌ってたらここには来ないだろ」


 思わず口にしていた。乃亜が顔を上げる。


「本当?」


「本当。ただ……わからないんだ。乃亜の気持ち」


「俺も、君の気持ちがわからない」


 お互いに同じことを考えていたのか。なんだか可笑しくなって、噴き出してしまう。


「俺たち、バカだな」


「うん」


 乃亜も微かに笑うが、スッとすぐに真剣な表情に戻す。

 出された紅茶は、半分も飲めなかった。きっと美しいであろう紅茶の香りも、今は全く感じられない。

 会計を済ませようとすると、乃亜は首を振る。


「いいよ。今日は……ごめん」


「ごめんって、何が?」


「うまく話せなくて」


 乃亜の表情には、言いたいことがまだたくさんあるのに、それを飲み込んでいる苦しさが見える。俺も同じだった。


「また来るよ」


 扉に手をかけて振り返ると、乃亜がカウンターの向こうで小さく手を振っている。その仕草がいつもより控えめで、なんだか心配になる。


 傘をささずに外に出ると、案の定、雨がポツポツと降り始めていた。最初は小さな雫だったのが、だんだん本格的な雨になっていく。濡れた路面に街灯の光が反射して、夜の街を幻想的に彩る。


 このまま雨に濡れて、全部洗い流せたらいいのに。味は分からなかったけど、あの紅茶の香りだけは、ほのかに喉の奥に残ってるような気がした。薔薇の甘さと、乃亜のぎこちない優しさが混じり合って、胸の奥に沈殿している。


 背中に視線を感じたが、振り返りたい衝動を押さえて、足を速めた。

 家に着くまでの道のりで、俺は色々なことを考える。就活のこと、将来のこと、そして乃亜のこと。どれも答えの出ない問題ばかりだ。


 でも、一番気になるのは、やっぱり乃亜だった。彼の困ったような表情、うつむいた時の肩のライン、「嫌われたくない」と言った時の震えた声。全部が頭から離れない。


 ◇

 

 一週間後。大学の掲示板前で足を止める。


「文化企画研究会フリーペーパー vol.15 発売中!」


 表紙には、モデル”NOA”の撮影風景の写真が載っている。間違いなく乃亜だった。

 撮影場所は「旧南山小学校跡地セット・本日17:00~19:00」とある。


 忘れたいはずなのに、目が勝手に追ってしまう。あの夜、俺を飲み込んだその目が、本当はどんな世界を見ていたのか、知りたくなった。

 俺の内心は、乃亜と仲直りしたい気持ちと、直接会うのは怖いという想いが混在していた。遠くからでも、彼の仕事中の姿を見てみたい。サロンでの乃亜とは違う、モデルとしての彼を。どんな彼でも知りたいと強く思ってしまう。


 気がつくと、足は撮影場所へ向かっていた。


 ◇


 廃校の校舎は夕陽に照らされて、ノスタルジックな雰囲気を漂わせている。


 物陰から覗くと、中庭で撮影が行われている、フォトグラファーと乃亜の姿が見えた。

 でも、そこにいたのは知らない人だ。NOAであり乃亜ではないのだ。


 憂いを含んだ妖艶な表情。凍てつく湖のような冷たい視線。カメラに向ける表情は、サロンで見る穏やかな彼とは全く違う。フォトグラファーと静かに打ち合わせしている姿には“子供っぽさ”がまったくない。


 ……初めて見る人だった。俺は、この人の、どれだけを見て“知ってる”つもりでいたんだろう。

 カットが止まり、乃亜がふっと微笑む。そのとき、目線が偶然こちらに向き――目が合ってしまう。


「……なんでいるの?覗き見?」


 冗談めかした口調だったが、スタッフに「関係者?」と聞かれて言葉に詰まる。すると乃亜が「知り合い」とフォローしてくれた。


 撮影終了後、乃亜が一人で裏手に出る。俺もなんとなくその空気を追って近づく。しばらく無言。静かな風と、紅茶のような香水の匂い。


「……カッコよかった」


 思わず口からこぼれる。まだ怒っているふりをしていたけど、素直な想いが出ていた。


 この人の全部を知りたいと思ってしまう。サロンの乃亜も、モデルの乃亜も、あの夜感情を爆発させた乃亜も。全部ひっくるめて、俺は彼に惹かれている。


 住む世界が違うなんて、俺の勝手な思い込みだ。相変わらず自信はないけど、自分次第でなんとでもなるのかもしれない、と心にカツを入れる。


「そういうの、照れるからやめて」


 乃亜は少し困ったような顔をする。


「いつもと違うのに、やっぱり乃亜なんだって思った」


「……もう、怒ってないの?この前はブチギレてたのに」


「うん……もう、大丈夫。乃亜に会えない方が辛いって分かったから」


「そう……あの日の事なんだけど…」


 乃亜は何か言いたげだったが、スタッフに呼ばれてその場を離れることになった。


 少しあの日の事を話してくれるのかと期待していた分、がっかりする。でも、険悪モードからは脱出できた気がする。年上として、大人になろうと決めた。怒るのはもうやめる。


 撮影での乃亜は、確かに俺の知らない一面を持っていた。初めての顔を沢山見れたのが嬉しくて、怒りが薄れてしまったのもある。


 でも、困ったような表情は、いつものサロンで見る彼と同じだった。どんな顔をしていても、乃亜は乃亜なんだ。俺が勝手に「住む世界が違う」なんて決めつけていただけかもしれない。


 自分から折れてまで仲直りしたいと思ったのは乃亜が初めてだった。二歳年上なんだから、俺が大人になるべきだ。


 でも、乃亜とまた話せるようになったことで、気づいた事がある。

 薔薇の紅茶の味がしなかったのは、お互いが本音を隠していたからだ。


 次に会う時は、俺から先に本音を言おう。「好き」だと、ちゃんと伝えよう。怖くても、嫌われることを恐れていても、このモヤモヤした状況を変えられるのは俺しかいない。


 雨はまだ降っていないけど、匂いだけを残して空に漂っている。そのうち降り出すのだろう。

 次は、自分の力で変えたい、この関係を。きっと、難しくないはずだ。

 乃亜のために、そして、自分のために。


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