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雨とマルコポーロ――恋が香る夜に  作者: tommynya


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第5話 詩人の紅茶と視線の熱

 あの夜から数日が経ち、ギクシャクした乃亜との関係もましになって来た気がする。


 昼休みは校庭のベンチで一緒にランチタイムを過ごす。このことが日常になりつつある。俺から乃亜を見つけてあげる事も増えた。もう、花壇のミラベルの季節は終わり、緑の草だけが残っている。


 2人でベンチに座っていると、決まって女の子達が差し入れを乃亜に渡そうとする。乃亜は丁寧に断る。イケメンに生まれると、良い事ばっかりじゃないんだな……とふと思った。


「はー。ちょっと面倒くさいね」


 珍しく乃亜がため息をつく。


「人気者も大変なんだな。全部断ってて偉いよ」


「まあね。前はサロンにも来られて困ったから、大学ではちゃんと対応しないと」


「そう言えば、サロンはファンの女の子来ないよな?」


「うん。だって仕事中だから来られたら困るし、来ないでって言ってある」


 乃亜も俺が知らない所で、色々苦労があるんだなと思った。今日の予定を確認していた時、ふと思い出す。


「今日、面接行ってくる」


「うん。頑張って。終わったら、サロン寄ってよ」


「うん。今日の面接、合否すぐ出るらしいから……」


「そっか。上手くいくといいね」


 乃亜の午後の授業の時間になったので解散し、俺は着替える為に一旦家に戻った。

 夕方からの面接の為に、気合を入れる。


 ◇


 夜も更けた頃。

 リクルートスーツの肩に、重たい雨粒が叩きつけられていた。


 今度の面接も、やっぱり落ちた。


 「お疲れさまでした」という事務的な声が、まだ耳の奥で響いている。薄っぺらい笑顔と、形だけの握手。どれも慣れてしまった光景だった。


 歩いていると、雨が一層強くなっていた。アスファルトの上を走る水の音に混ざり、俺の足音も沈んでいく。


 スマホを取り出し、天気予報を確認する。今日の雨は夜中まで止まないらしい。濡れながら歩くのにも、もう慣れた。


 スーツの裾はすっかり水を吸って重たくなっている。コンビニで傘を買う気力もない。


「はあ……どこかで雨宿りするか」


 小さくつぶやいた声は、風にかき消された。家に帰っても、ひとり。どこにも行く気になれない。

 気づけば、いつもの路地を曲がり、サロン「Minuit」の前に立っていた。


 やっぱりここに来る運命なのか。自分でもよくわからない。別に紅茶を飲みたかったわけじゃないし、雨宿りをするなら、どこにでも入れたはずだ。なのに、どうしても、ここに足が向く。


 だけど、その理由は分かっていた。


 鈴が鳴らないように、そっとドアを開けて中を覗く。店の灯りが落ち着いた橙色に揺れていた。カウンターの向こうで、乃亜が何かを並べている。開店前なのか、店内には他の客の気配はなかった。


 話したいわけじゃないし、癒されたいわけでもない。ただ……。

「顔が見たかっただけ?」

 自分の心の声に驚く。そんなこと、思ってるつもりはなかった。でも、無意識は嘘をつかないらしい。


 冷たい雫が首筋を伝う。それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからなかった。

 俺はドアを勢いよく開け、ドアベルの音を大きく鳴らす。


「あ……来たの?」


 乃亜が振り返る。濡れた俺を見て、少し眉をひそめた。


「……雨、すごくて」


「また濡れてるね。君、雨に好かれすぎじゃない?」


「好きで濡れてねぇよ」


 そう答えながら、俺は自分でも不思議だった。なんで素直に甘えられるんだろう、この人には……。二歳も年下なのに。

 乃亜は何も言わずに奥へ向かい、タオルと着替えのTシャツを持ってきてくれた。


「シャワー、浴びてきなよ」


「……いいの?」


「いいよ。二階のヨガ教室のシャワールーム、今誰も使ってないから、勝手に入っていいよ」


「それじゃ、お言葉に甘えて」


 俺はタオルとTシャツを受け取り二階の階段を上がる。


 シャワールームの前で立ち止まったとき、ふと脳裏に浮かんだのが、授業で習ったある心理学の効果だった。


「吊り橋効果」


 身体的な緊張状態を、恋愛感情と錯覚してしまうという現象。高い場所や、不安な状況にいるときに、隣にいた人に“恋をした”ような気持ちになること――。


 あれは、ただの錯覚。理屈では、わかってる。でも、俺の中にあるこの騒めきは、本当に“錯覚”なんだろうか。


 就活で落ちて、雨に打たれて心が弱ってる。そんなときに優しくされたら、誰にだってほだされるのかもしれない。


 だけど――。


「乃亜だから、なのか?」


 その問いに、自分でもうまく答えられなかった。ただ、彼の声を聞くと呼吸が浅くなり、彼の香りを感じると、頭の中のノイズが静かになる。

 彼の紅茶を飲むと、心の真ん中が温まり優しく包み込まれていく。


 それって、“錯覚”って言えるのか?たとえ始まりが錯覚だったとしても、その後の感情すべてが嘘だとは思えなかった。


 シャワールームの隅に置かれた、ホテルのようなガラス瓶に目が留まる。中にはラベンダーや柑橘のアロマオイルが入っているようだ。その瓶から漂う香りに包まれながら、お湯を浴びる。


 このシャワールーム、落ち着くな。それは空間のせいなのか、それとも――乃亜の存在そのものが、俺を落ち着かせているのか。


 思わず、濡れた髪をくしゃっとかき上げた。熱いシャワーが、頬を伝って落ちていく。その熱が、外の雨よりもずっと強くて、苦しかった。


 肩から背中へと伝い落ちていくお湯の温かさに包まれていると、さっきまでの緊張がふっと溶けていく。

 スーツの重さも、落ちた面接のことも、今だけは忘れていい気がした。


 シャワーを終えてタオルで身体をふき、腰にタオルを巻いて、鏡の中の自分をぼんやりと見つめる。


「……腹、ちょっと割れてきたかも」


 ぽつりとつぶやいた声に、誰もいない空間が静かに返す。筋トレにハマって一年、結構身体が仕上がってきたな、なんて思っていた時だった。


 その瞬間、油断したみたいに、腰のタオルがふわりと滑り落ちた。


「あっ、ちょ……!」


 慌ててタオルを拾い上げる。その時、わずかに開いていたドアの隙間から、視線を感じた。

 目が合った。一瞬だけ時が止まる。そこに、タオルの補充をしている乃亜が立っていた。


「……見たな」


「見てないよ?」


 乃亜の声が、少し上ずっている。


「じゃあ、なんで耳が赤いんだよ」


「……意外といい身体してるんだね」


「見んなバカ!」


 タオルを巻き直しながら怒鳴ると、乃亜は苦笑いを浮かべた。


「腹筋カッコいいよね。俺よりカッコイイよ、腹筋」


「出てけよバカ!」


「ほんとに、バカだと思ってるなら、そんなに堂々と出てこないでよ」


 何だそれ。意味がわからない。


 でも、乃亜の視線が、さっきよりもずっと近く感じられた。触れられてないのに、触られているみたいな熱を持った眼差しだった。


 着替えを済ませてサロンのカウンターに戻ると、乃亜が何事もなかったかのように紅茶を淹れ直している。

 でも、まだ耳が赤い……。


「……見てないって言ったよな」


「見てない」


 笑いをこらえている乃亜。


「嘘つけ」


 カウンターに腰を掛けると、乃亜がティーポットの準備をしていた。


「今日は何の紅茶?」


「詩人の紅茶。|Thé des Poètesテ・デ・ポエット


「詩人の?」


「ジャスミンと果実が混ざってる。複雑で、ちょっとざわつく香り」


 乃亜が茶葉を取り分けながら説明した。


「言葉にならない夜には、こういう紅茶がちょうどいい」


 湯気が立ちのぼるカップの縁から、ジャスミンと熟れた果実が混ざった香りがふわりと広がる。一瞬で、別の場所に連れていかれるような感覚だった。


「この香り……なんか、凄い複雑」


 そう呟いた俺に、乃亜が笑みをこぼす。


「香りって、記憶を連れてくるから。言葉より先に、心に届くんだよ」


 カップの底でゆらゆら揺れる熱。詩人の紅茶——Thé des Poètes。言葉にならないものを、香りに変えて届けるための紅茶。


 それが、今の俺の気持ちとぴったり重なっていた。


「なぁ、吊り橋効果って知ってる?」


 俺は唐突に口を開いた。


「緊張感と恋の錯覚?」


「そう。不安な時とか、心臓がドキドキしてる時に一緒にいる人を、好きになっちゃうやつ」


「錯覚ってさ……あくまで“誤解”の話なんだよね?」


「うん?」


 乃亜が紅茶を注ぎながら、こちらをちらりと見た。


「吊り橋効果って、“その気持ちは恋じゃない”っていう証明のはずだけど」


「そう。錯覚だったとしても……そのあともずっと気になってるなら、それってもう、ただの恋じゃね?」


 自分で言って、自分で黙る。


「つまり……俺のこと、好きってこと?」


「そうは言ってねぇ!」


 反射的に言い返したけれど、心のどこかで違うって言い切れるのか?そんな問いが頭の中でこだましていた。


「でも……」


 乃亜がカップに紅茶を注ぎ終え、呟く。


「錯覚にしては、ずっと君のこと考えてるな、俺」


 心臓が跳ねた。


「……は?」


 紅茶を口に運ぶと、乃亜がじっと俺を見つめていた。


「ねぇ、なんでだと思う?」


 乃亜は肘をカウンタ―に置き、俺の顔を覗き込む。近づき過ぎて、その視線の熱を感じずにはいられない。逃れようとしても、目が合ってしまう。


 紅茶の香りの奥の燃える炎。肌に直接触れられているわけじゃないのに、喉の奥がじわりと熱くなる。


「……なんだよ、その目」


 乃亜は、何も答えずにクスリと笑った。

 優しいのに、どこか試すような視線。カウンター越しなのに、息ができない。


「なんでもない」


 乃亜はそう言って、他のお客さんの元へ向かった。

 静かな店内には、BGMのフレンチジャスと窓を叩く雨音だけが響いている。


 ふと、乃亜の向かった方を見ると、常連らしい若い女性が乃亜に話しかけているようだった。彼女は乃亜の手に触れて、何かを笑いながら話している。

 乃亜も自然に笑い返す。


 俺は、その光景をじっと見て、モヤモヤしてしまう。気づくと、胃がキリキリと痛み始めていた。


「……嫉妬でもしてる?」


 その声で我に返る。いつのまにか、カウンターに戻って来ていた乃亜。


「ち、違っ……」


 慌てて目を逸らす。


「じゃあ、なんでそんなに黙ってるの?不機嫌そうな顔して」


 カップの縁を指でなぞりながら、乃亜が言う。あの余裕の笑み。でも、どこか意地悪い。


「……なんでそんなに慣れてるんだよ。誰にでも、そうなるの?」


 そう言ってから、自分の声に棘があることに気づく。何を言ってるんだ、俺は。接客していただけかもしれないのに……。


 乃亜は微かに笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。


 ◇


 雨が小降りになった頃、俺は店を出ることにした。


「気をつけて帰って」


「うん」


 ドアに手をかけたとき、後ろから声が聞こえ、俺の手の上から大きな手が添えられた。


「……君にだけ、してることだよ」


 振り返ると、乃亜が俺の後ろに立っていて、俺の手を包むように上からぎゅっと握る。


「なにが?」


「さっき言ったこと?俺が触れるのは、君だけだよ」


 その声は、あまりにも静かで、それでいて、心の奥を確かにかき乱す温度を持っていた。


「……おやすみ」


 そう言うのがやっとだった……完全に変な気分になってしまっていたから。


 ◇


 家への帰り道、雨はすっかり止み、雲の隙間から三日月が顔を出す。久しぶりに月を見た気がする。


 でも、胸の内は相変わらず嵐のままだ。あの視線の熱と包まれた手の温もりが、まだ脳裏にしっかりと残っている。


 「君にだけ」という言葉が、何度も頭に響く。温かい大きな手の感触は未だ心を乱していた。

 俺は何を期待してるんだろう。何を求めてるんだろう……。


 乃亜の瞳の奥の炎に動揺して、他の人に触れられる姿を見て嫉妬して――これじゃまるで、本当に恋してるみたいじゃないか。


 目を閉じた瞬間、彼の声が、ふいに頭の中でリピートされた。


「錯覚にしては、ずっと君のこと考えてるな、俺」


 ――そんなふうに言うな。頭から離れなくなるだろ。

 でも、まだ確信が持てない。この気持ちが何なのか、名前をつけることができない。


 ただ一つ確かなのは、彼の熱を帯びた眼差しが、タオルより先に、俺の心を裸にしてきたということだった。


 詩人の紅茶の香りが、まだ鼻の奥に残っている。言葉にならない想いを、香りで包んでくれる紅茶。


 明日もまた、乃亜に会いたいと思ってしまった。そして、この曖昧な気持ちの正体を、もう少しだけ探ってみたいとも。


 時間をかけていい――そう思えた。だから、ゆっくりと向き合ってみよう。


 この熱が、この視線が、この胸の奥の騒めきが、いったい何なのかを。


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