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雨とマルコポーロ――恋が香る夜に  作者: tommynya


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第16話 マルコポーロが香る朝に

 

 ──まだ、指先に昨夜の熱が残っている。


 目を開ける前から、それがわかった。少しだけだるい身体の奥。触れられた場所が、まだ温もっている。

 あんなに何度も名前を呼ばれて、俺は自分がこんなに素直になれるなんて思ってもみなかった。


 隣では、乃亜が静かに寝息を立てている。長いまつ毛の影が綺麗だ。唇がほんのり開いていて、いつものクールな印象とは違う無防備さ。


 昨夜よりもさらに近くに感じる。寝ている時は、ひとつの生き物みたいに呼吸が重なっていた。

 連泊して二度も夜を一緒に過ごしたのに、まだドキドキしてしまう。

 昨夜の声も、キスも、優しさも全部が、まるで夢みたいだ。


「昨日の夜は、夢じゃなかったんだよな……」


 頬をつねりながら呟くと、乃亜の目がゆっくりと開く。


「夢なら、俺……だいぶ重症だわ」


 寝ぼけながら返してくる声に、思わず笑ってしまう。


「重症って」


「だって、君が隣にいる夢を見すぎて、現実がわからなくなるレベル」


 乃亜がそっと俺の頬にキスをする。くすぐったくて、でも温かい。髪がくしゃくしゃになっている。寝相が悪いのは、この二日で知った新しい発見だった。


「起きる?身体、大丈夫?」


「うん……昨日よりは慣れた」


「そう。よく寝てたよね。今日も天使みたいだった」


 照れくさくなって、俺は布団に潜り込む。

 そんな俺を見て、乃亜は布団をはがし、身体を寄せてくる。


「二日も一緒に過ごせて嬉しかった」


 そう言って俺の額にキスを落とす。


「俺も嬉しくて、幸せだった」


 朝の会話にしては甘すぎる内容だった。でも、嫌じゃない。むしろ、こんなふうに何でもない言葉を交わせることが至福の瞬間なんだと知った。

 乃亜が窓に向かい、カーテンを開けると、部屋全体が明るくなる。


「今日はフレンチトーストでも作ろうか」


 キッチンに向かう乃亜の後ろ姿を眺めながら、身体を起こす。

 そして、昨日帰らなかった為、着替えがないことに気づく。


「服借りていい?」


「もちろん。好きなの選んで」


 クローゼットからライトブルーのシャツを選んで袖を通す。乃亜が良く着ているやつ。俺も着てみたくて。

 袖を通すと、やっぱりぶかぶかだった。袖も裾も長すぎて、なんだか子供みたいだ。袖をまくりながらリビングに戻ると、乃亜が振り返った瞬間手を止める。


「ぶかぶかなんだけど」


「……俺の服、こんなにかわいく着られたら、無理だわ」


 乃亜の視線が妙に熱い。ニヤニヤしながら見つめてくる。


「朝から何言ってんだか」


 照れながらも笑ってしまう。乃亜のこういう反応が、くすぐったくて温かい気持ちになる。


「その色、君に似合うよ」


「そう?」


「うん。爽やかで、優しい感じがする」


 乃亜の視線が温かい。ニヤニヤしてるのは気になるけれど、嫌な気はしない。

 

 キッチンからスパイスの香りが漂ってくる。


「フランス式だっけ?」


「そう。バゲットで作るフレンチトーストで、カルダモンとシナモンを効かせたんだ。相性もいいから紅茶はマルコポーロにした。君のお気に入りでしょ?」


 お気に入り、か。確かに、この香りを嗅ぐと落ち着く。それは紅茶そのものの魅力というより、乃亜との初めての出会いの記憶が結びついているからかもしれない。


 テーブルに向かい合って座る。

 フレンチトーストをひと口食べると、口の中にスパイスの深い味わいが広がる。紅茶の香りと合わさって、なんだかとても贅沢な気分だ。


「うま……これ、すごいな」


「気に入った?」


「うん。こんなの作れるなんて、乃亜ってほんと何者だよ」


「そんなに難しくないよ。ただ焦げやすいから注意が必要だけど。今日は火加減がちょうど良かったみたい」


「本当に美味い。中がプリンみたいなんだ。これサロンでも出せるよ」


「まあ、そのうちね」


 乃亜が嬉しそうに微笑む。

 マルコポーロとフレンチトーストの相性は最高だった。至福の味だ。これは癖になりそう。

 時間もあったので、俺は前から聞きたかった素朴な疑問を乃亜にすることにした。


「乃亜って、こういうのいつ覚えたの?」


「小さい頃に祖母に教わったんだ」


「へぇ……いいな、そういう経験。紅茶や詩だけじゃなくて、料理までお婆さんの影響を受けたんだな」


「まあ、そうだね。俺に影響を与えたのは祖母だと思う」


「小さい頃から色々教えてもらえる人がいるの、すごくラッキーだよ。俺羨ましいもん」


 乃亜は微笑みつつ、じっと俺の食事をしている姿を見つめる。


「どうしたの?」


「君が俺の作ったものを、美味しそうに食べてるの見るのが、本当好き」


 そんなこと言われて、なんだか恥ずかしくなる。でも、嫌じゃない。



 食事を終えて、何気なく部屋を見回すと、本棚に文芸誌が何冊か並んでいるのに気づく。その中の一冊だけ、表紙の端にしおりが挟まっている。


「これ、見てもいい?」


「あ……、それは」


 乃亜が少し慌てたような声を出すが、俺はすでにページを開いていた。

 そして、目に飛び込んできた文字に息を呑む。


『雨とマルコポーロ──恋が香る夜に』


 詩のタイトルだった。そして、その下に記された著者名を見て、衝撃を受ける。


『星川 クレール 乃亜』


「これ……」


 俺が驚いて振り返ると、乃亜は困ったような、でも少し誇らしそうな表情をしていた。


「入選作品なんだ。昨日見せるって言ったの、これ」


 俺は震える手でページをめくる。独特のリズムを持つ詩が載っている。



『雨とマルコポーロ──恋が香る夜に』


『雨の匂いが君から漂う

 君を知らなかった あの夜も


 湯気の奥で

 名前のない香りが

 少しずつ 俺のなかに 染みこんでいった


 マルコポーロの 甘い調べが

 夜気に溶けていく


 あのカップに残ったものは

 紅茶じゃなくて

 たぶん──詩のような 君だった


 夜が明けたら

 忘れるつもりだったのに


 どうして今も

 名前だけが

 同じ香りに 恋しているんだろう』



 詩の言葉ひとつひとつが、あの雨の夜を呼び起こす。紅茶の香り、初めて乃亜と過ごした夜、すべてが詩の中に美しく昇華されていた。

 目頭が熱くなって、声が震える。


「俺のこと、こんなふうに……詩にしてくれてたんだ」


「恥ずかしいから、あんまりじっくり読まないで」


 乃亜の声が少し震えている。俺は雑誌をそっと閉じて、彼を見つめる。


「すごいよ、これ。本当に……」


 言葉が見つからない。乃亜の才能と、俺への想いの深さに圧倒されていた。


「君の存在が、こんな言葉を生み出してくれたんだ」


 乃亜が照れたように言う。


「俺なんかが、こんな美しい詩の題材になるなんて思わなかった」


「君は美しいよ。だから、君は詩なんだ」


 そんなふうに真っ直ぐに言われて、顔が熱くなった。

 乃亜が新しく淹れてくれた、マルコポーロの香りがふわりと立ちのぼっていく。この香りは、俺たちの出会いそのものだ。そして、この詩が、俺の知らないところで愛を語っていてくれた。


「ありがとう」


「え?」


「詩のこと。すごく……嬉しい」


 乃亜が照れたように頷く。


「俺……」


 ふと、口から言葉が漏れる。


「俺も、詩書いてみようかな」


「え?」


「なんか、乃亜の詩、読んでたらさ……俺も書いてみたくなった。感想文とかじゃなくて、詩って……ちょっと、いいなって思った」


 照れくさくて目を逸らしたけれど、乃亜はじっとこちらを見ていた。まっすぐで、温かい視線。


「君を見ていると、詩が読みたくなるし……書きたくなる」


 そう言うと、乃亜が笑みをこぼす。


「君が詩を書くなら、たぶん──それは俺の宝物になる」


「いや、そんな大げさなもんじゃないと思うけど……」


 頬をかきながらそう言うと、乃亜が息を吐くように囁く。


「……だって、君自体が詩だから」


「また……なんだよそれ」


「言うよ、何度でも。だって本当のことだから」


 息を飲む。こんなにも静かで、こんなにも甘い愛の告白があるなんて──思ってもみなかった。



 昼下がりのティータイム。今日も俺たちはソファで寄り添っていた。乃亜の膝に頭を預けて、静かな時間を過ごす。乃亜がグラスに入れてくれた、ルビー色のセイロン、キャンディのアイスティーが時折喉を潤す。


「なあ、乃亜」


「なに?」


「こんなに本格的に、詩を書いてるなんて知らなかった」


 乃亜の指が俺の髪をそっと撫でる。


「恥ずかしくて、なかなか言えなかったんだ」


「でも、すごいよ。俺なんて、そんな才能ないし」


「君のおかげで、言葉が生まれるんだよ。君の存在そのものが、俺のインスピレーションだから」


 乃亜が俺の髪を耳にかける。


「君がいてくれるから、詩が生まれる。それが一番大切なことなんだ」


 そう言われても、まだピンとこない。でも、乃亜が俺のことをそう思ってくれているなら、喜ばしいことだ。将来の詩人大先生の恋人は俺。信じられない事だが。


「なんかさ、不思議なんだ」


「なにが?」


「恋人になったら、いろんなことが変わるんだな」


 乃亜が俺の顔を覗き込む。


「どんなこと?」


「普通のことが、全部特別に見える。朝起きることも、紅茶を飲むことも、こうして話すことも」


「それは、恋をしてるからじゃない?」


「恋って、こんな感じなんだ」


「俺も、初めてだからよくわからない。でも、君といると、毎日が記念日みたいに思える」


 記念日。乃亜らしい表現だった。


「今日も記念日?」


「うん。君と二回目の朝を迎えた日」


 俺の瞼に優しくキスを落とす。優しくて、でも確かな愛情のキスだった。


「乃亜は、いつもそうやって特別な意味を見つけるよね」


「意味を見つけるっていうか……君といると、本当になんでも特別だと思えるから、自然とそうなるのかも」


 そんなこと言われても、どう反応していいかわからない。俺はただ、乃亜の膝の上で眠りに落ちるように目を閉じる。


「ずっと、こうしていたいな」


「俺も」


 乃亜の声が優しく響く。


「でも、時間は流れていくから」


「そうだね」


「それでも、この気持ちは変わらない」


 乃亜が断言するように言う。


「本当に?」


「本当に。約束する」


 俺は目を開けて、乃亜を見上げる。彼の表情は真剣で、迷いがない。


「じゃあ、俺も約束する。乃亜のことを、ずっと好きでいる」


「うん。ずっと、ね」

 


 夕方になり、俺は乃亜の部屋を出ることにした。明日は大学があるし、準備もあるから帰らなければいけない。

 エレベーターホールで乃亜が俺を見送ってくれる。


「また明日、会える?」


 乃亜が尋ねる。その声に以前のような不安はない。もう、俺たちの関係は確かなものになっているから。


「うん。レポート終わったら連絡する。夜になるかもしれないけど」


「大丈夫。遅くても、待ってるから」


 乃亜が俺の手を握る。その手の温かさで、愛情を伝わる気がした。


「詩のこと、本当にありがとう」


「ありがとうなんて、言わないで。君への気持ちを表現しただけだから」


「今度は……君の部屋にお邪魔してもいい?」


「俺の部屋?散らかってるよ」


「構わない。君がいる場所なら、どこでも」


 そんなこと言われたら、また恥ずかしくなってしまう。


「じゃあ、今度な。片付けておくよ」


「片付けなくてもいいよ。君の日常を見てみたいから」


 エレベーターが到着して、ドアが開く。


「じゃあ、帰る」


「うん。気をつけて」


 俺が中に入ろうとした時、乃亜が俺の手を引き、そっと唇にキスをする。エレベーターホールでのキスに、脈が乱れるようにドクンと跳ねた。


「ちょっと!人に見られたらどうするんだよ」


 顔を真っ赤にして怒ってる風を装うけれど、内心はすごく喜んでいた。二日連続で泊まって、こんなにもラブラブになれるなんて……。


「恋人だから、当然でしょ?誰もいないから大丈夫」


 恋人。その言葉を聞くたびに、心が温かくなる。


「もう……行くから、じゃあな」


 照れながらエレベーターに乗り込む。ドアが閉まる直前まで、乃亜が手を振ってくれているのが見えた。


 ◇

 

【三か月後・秋】


 時は流れて、秋の日差しが優しくなった頃。

 俺はスーツ姿で内定者研修を終え、サロン「Minuit」に顔を出す。すると、乃亜が驚いたような顔をする。


「お疲れ様。スーツ、似合ってるね」


「ありがとう。でも、まだ慣れないんだ」


「すっごくかっこいいから……他の人に取られないか心配だな」


「ないない。心配されるのは乃亜の方。とびぬけたイケメンなんだから」


 椅子に座ると、乃亜が紅茶を淹れてくれる。


「俺は大丈夫。絶対浮気しないから。凪以外興味ないのは知ってるよね?」


「まあ……そうだな」


 付き合い始めて三か月。

 あの夜もらったサロンのスペアキーは、今でも大切に持ち歩いている。一度も使ってないけど、お守りみたいなものだ。これがあれば、いつでも乃亜に会いに行ける。その安心感が、俺を支えてくれている。


 乃亜は俺にしか興味がない。どんなイケメンや美女に言い寄られても相手にしない。俺は幸せ者かもしれない。


「春になったら、本当に社会人なんだね」


「うん。不安もあるけど、乃亜がいてくれるから大丈夫な気がする」


 そう言うと、乃亜が優しく微笑む。

 紅茶を飲み終えた頃、店の奥で杏奈さんが在庫整理をしているのが見えた。お客さんはいなくて静かだ。


「ちょっと、こっち来て」


 乃亜が俺を手招きする。カウンターの内側に入ると、乃亜が突然俺を壁に押し付ける。


「え、ちょっと……」


「研修、頑張ったご褒美」


 乃亜が俺の顎を持ち上げて、そっとキスをする。人に見られる可能性がある場所でのキスに、思考がパンクする。


「誰か来たらどうするんだ」


「大丈夫。杏奈は奥にいるし、お客さんもいない」


「でも……」


 言葉を遮るように、もう一度深いキスをされる。乃亜の手が俺の背中に回り抱き寄せる。


「君のスーツ姿見て、我慢できなくなった」


 耳元で囁かれて、顔が真っ赤になる。


「君がかっこいいから仕方ない」


 そう言って、乃亜は最後にもう一度、額にキスをしてくれた。

 

「今夜、君の家に泊まりに行ってもいい?」


「え?」


「だって、君がこんなにかっこいいから……我慢できないのは仕方ないよね?」


 乃亜の提案に、俺は慌ててしまう。


「散らかってるよ」


「構わない。本当に気にしないから」


 そんなこと言われたら、どう反応していいかわからない。でも、嫌じゃない。むしろ、悪くない。この日、初めて俺の家で乃亜と一緒に朝を迎えた。


 ◇ 


【半年後・春・入社初日】


 寒い冬を超え、桜が咲き始めた四月。

 俺の社会人デビューの朝がやって来た。


 窓の外では、薄いピンクの桜が風に揺れている。新しい季節の始まりを告げるように、優しい朝日が部屋を照らしていた。

 俺は緊張と穏やかな高揚感の中で目を覚ます。鏡の前でネクタイに手間取っていると、昨夜から泊まっていた乃亜が、後ろから結んでくれる。


「社会人一日目って顔してるね」


「変な顔してた?」


「ちょっと可愛い、初々しくて」


 俺たちは笑い合う。


「緊張してる?」


 乃亜が俺の肩に手を置いて、鏡越しに微笑みかける。


「うん……ちょっと」


「大丈夫。君なら絶対うまくやれる」


 乃亜の手が俺の手に重なる。その温もりが緊張を和らげてくれた。

 紅茶と簡単な朝食を一緒に食べて、出かけようとした時、乃亜が小さな紙袋を差し出す。


「これ、出勤祝い」


 中には、文庫本サイズのノートと、紅茶の香りのサシェが入っていた。


「マルコポーロの香り。忙しくても大丈夫。香りで癒されるし、それに、俺のこと思い出せるから……俺がいつもそばにいると思ってね」


 乃亜が柔らかく微笑む。サシェを手に取ると、確かにあの懐かしい香りだ。初めて会った夜の、あの甘い香りが蘇る。


「ありがとう。いつも感謝してるぞ」


「ノートは、何か書きたくなった時に使って。詩でも、日記でも」


 俺はサシェを大切に胸ポケットにしまう。乃亜の想いが詰まった贈り物が、胸の近くにあることが嬉しい。

 玄関で靴を履いていると、乃亜がそっと後ろから抱きしめてくる。


「乃亜?」


「ちょっとだけ……最後に、甘えさせて」


 乃亜の腕がぎゅっと俺を包み込む。背中越しに感じる彼の体温が、とても温かい。


「離れたくない」


「俺も……でも、行かなきゃ」


 手をほどき振り返ると、乃亜が少し寂しそうな顔をしている。


「君がいない時間が、こんなに長く感じるなんて知らなかった」


「大げさだよ」


 でも、俺も同じ気持ちだった。乃亜と離れている時間が、こんなにも切ないなんて。

 玄関で一瞬見つめ合い、乃亜が俺の頬にそっと手を添える。


「新しい世界で頑張る君を、俺はずっと応援してる」


「乃亜……」


 言葉が見つからない。


「でも、疲れた時は帰っておいで。ここに、君の居場所があるから」


 乃亜が俺の額にキスを落とす。優しくて、愛情に満ちたキスだった。


「今日は特別な日だから……」


 乃亜がそっと身を離そうとした時、俺は背伸びをして、彼の肩に手を置き、唇にキスを返した。


「あ……」


 乃亜が驚いたような顔をする。でも、すぐに嬉しそうに微笑む。


「君から、してくれるなんて……」


「だって……特別な日だから」


 乃亜の言葉を真似して言うと、彼がくしゃっと表情を緩めた。


「愛してる」


 小さく囁かれた言葉に、心がふわりと浮き立つ。


「俺も、愛してる」


 初めて口にした言葉だった。でも、すんなりと言えた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 乃亜が手を振ってくれる。俺も手を振り返し、玄関のドアを閉めた。

 桜並木を歩きながら、振り返ると、乃亜がベランダに出て、手を振ってくれているのが見えた。


 家を出て5分しか経ってないのに、もう会いたくなってるなんて──。


「……ほんと、重症だな」


 自然と声が零れて、苦笑する。気を取り直し、前を向いて歩き出す。

 桜の花びらが風に舞い、新しい季節の始まりを祝福するかのように、肩にひらひらと落ちてくる。


 背中を押すように、頭の中で乃亜の声が静かに響いていた。


「愛してる」


 乃亜の笑顔を胸に――俺は歩き続ける。

 朝の駅に向かいながら、心の中で呟く。


「香りで思い出せるなんて、可愛いこと言うなよ。忘れるわけないのに」


 雨と紅茶の香りが重なった夜から始まった——かけがえのない日々を。


「行ってきます」


 ただの一言なのに、それが”はじまり”になる瞬間がある。

 乃亜がくれた愛を胸に、俺は希望に満ちた一歩を踏み出していく。


 そして気づく。俺も、やっと詩が書けそうだ。



『マルコポーロが香る朝に』


『雨の夜

 君が教えてくれた 香りの名前


 マルコポーロが運んできたのは

 恋という名の冒険だった


 君の手で淹れた一杯から

 俺の世界は色づいて 毎日が詩になった


 これから歩く道のりも

 きっと君と一緒なら 美しい詩になるだろう


 春の朝

 新しい扉を開けながら 俺は思う


 君がいる限り 俺の人生は薔薇色だ

 永遠に続く詩と共に』



 初めてにしては上出来だ。

 乃亜のくれたノートに急いで書き込む。

 今晩、乃亜にも読んであげよう。


 ポケットの奥で、乃亜がくれたサシェがかすかに香る。

 柔らかなバニラと果実……マルコポーロの香り。


 昨夜の熱が、ふっとよみがえる。

 優しく触れられた頬の感触も、囁かれた愛の言葉も──。

 忘れようとしても、きっと無理だろう。


 この香りがある限り、俺は一人じゃない。

 乃亜との愛が、いつも俺と一緒にいてくれる。


 俺たちの新しい物語の続きを夢見て。

 桜舞う春の朝、俺たちの愛は永遠に続いていく。


       


            Fin.



  

     



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